神様の憂鬱
青年ーーアステールは嘆息した。
目の前の少女は確か3日前、あの光を追って森に迷い込んできたところを助けた後、もうここには来てはいけないと約束して家に帰した。はずだったのだが。
今日、屋敷から出て程なくしたところで再会してしまった。そう、彼女はまた森に来てしまったのだ。どうやって?
渋い顔をする青年に、少女はいっそ清々しいほどの笑顔を向けて来た。
きらきらと輝く瞳がこちらを見つめている。少しウェーブのかかった長い髪には小枝が絡まり、健康的な肌は木の葉や土にまみれてしまっている。
背中には皮のリュックを背負い、手にはカンテラ、あろうことか肩から水筒まで提げていた。
この娘。探検する気満々である。
アステールは仕方なしに口を開いた。
「きみ…。この森は危ないから、もう来てはいけないと言ったよね?」
少女は元気にいらえを返す。
「あら、でもここに来た人たち、誰に聞いてもこの森はただの森だって笑われたわ!だから、検証しに来たの。ここにもう一度来れるかどうか。」
「……。」
「ぜひお話ししたいと思っていたの!わたしとお友達になってくれる?」
押しの強い少女にアステールは後ずさったが、彼女の発言に引っかかりを覚えた。
ここに?この少女はどこまで気付いているのだろう。確かに森には誰でも入れる。しかし、ここには人は入れない筈なのだ。そう、普通の人間なら。
青年はくしゃりと髪を握る。
秘密に気付かれる前に、今度こそ追い出さなければ。でもどうやって?彼女にはもう2回「とばり」を突破されている。
思考を巡らせ始めたアステールはふと、少女がカンテラを持っている方の腕を不自然に押さえている事に気が付いた。
よく見ると少女は怪我をしていた。枝で切ったのだろうか、血が滲んでいて痛々しい。
ここから街は少し遠い。帰るまでに悪化してしまうかもしれない。いや、そんな事は自分には関係ない。秘密がバレてもいいのか?でも、少女の腕に傷が残ってしまったら?
……。
アステールはまたひとつ、ため息をついて少女に声をかける。
「怪我、しているだろう。手当てだけしてあげるから、ついて来て。」
少女の顔がぱあっと明るくなった。アステールはなんとなく、太陽のような笑顔だと思った。
少し、少し手当てをするだけだ。もういない親もそれくらいなら許してくれるだろう。アステールが躊躇いながら差し伸べた手に、少女の小さな掌が元気に重ねられた。
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少女の名前はシエルと言うらしい。アステールが屋敷でガチャガチャと薬品やら包帯やらを出している間、シエルはずっと喋っていた。
「とっても大きいお屋敷ね!遠くからしか見たことがなかったけれど、中は全然神殿っぽくないのね。」
「なんでここの森は危険なの?なんにも危ないことはなかったわ」
「すごい!お医者さんみたいね!」
朝になると屋敷の窓枠に来てひたすら囀る小鳥が確かこんな感じだったな。アステールはぼんやりと考える。
知らない人間を家に上げるなんて、自分の気が知れない。疲れているのだろうか。てきぱきと手当てをしてなんとなく相槌を打ちながら、アステールは自分の行いを省みた。そして気付いてしまった。
自分は、誰かと喋りたかったのだ。親がいなくなってからずっと1人でこの屋敷に住んでいた。少女だけがこのとばりを越えられた。それがただの偶然だとしても、この一瞬だけは夢を見ていたい。そう、思ってしまったのである。
しかし夢は夢、手当ても終わっていざ少女を帰そうとした時、彼女は爆弾を落とした。
「お兄さん、神様、でしょ?」
ガシャン!!青年が持っていたトレイが滑り落ち、綺麗に片付けられていた包帯や薬品が床を転がる。シエルはそれを慌てて拾いながら青年の言葉を待った。
青年はわかりやすく慌てていた。
「……神様なんていないよ。僕はただの森の番人。ここはただの偶像を祀る神殿。なんでそんな事思ったの?」
シエルはそれを聞いて、歳に不相応なにんまりとした顔をした。怖い。
「あの光。落ちてきた光は森に差し掛かった瞬間消えたわ。そして、落ちた先にお兄さんがいた。あんなに大きな光、急に消えるなんておかしいじゃない」
アステールは無言で続きを促す。内心少女の直感に驚いていた。シエルは少し舌ったらずな喋り方で熱弁する。
「実は今日、お兄さんに会うまでずっとこの森を探検していたの。実はあんまり広くないのね、でも家はこのお屋敷しかなかったし、しかもこの屋敷にはお兄さんしかいないわ!」
少女の頬がだんだん上気してくる。アステールは頬についていた泥を、おそるおそる指で拭ってやった。
「光をどうにかしたのはお兄さんじゃないのかって、思ったの!」
やっと青年は口を開いた。話しながら少女の髪に残っていた小枝を取る。
「仮に僕にそんな芸当が出来たとして、何でこの国の神様って事になるのさ。」
少女は自信満々に返答した。
「そんなのは見たら分かるわ!お兄さんの瞳には空があるもの!」
アステールは仰天した。そこまで見えるのか!
この娘は、もしかしたら…。
心を開きかけた青年の頭の中に、突然昔の記憶が流れた。
人と関わってはいけない。人はお前に害でしかない。お前は使命を果たすことだけ考え、生きて、死ななければならない。
呪いのように繰り返される言葉の数々。それは古いレコードのように軋んだ音を立てる。
碧眼の青年はそれに耐えきれず、小さな声で呟いた。
「……きみがもう1度、ここに来ることができたら正解を教えてあげるよ。今日はもう遅い。親御さんも心配するだろう。帰りなさい。」
少女はまた拗ねたような顔をしていたが、もう来るなと言われなかった事に何とか満足したらしい。また来ると念を押しながら帰って行った。
もうこの子と会う事はないだろう。とばりを厳重に、ネズミ1匹入れないように張り直す。それでもほんの少し、ほんの一握りだけの可能性に思いを馳せてしまった自分に驚いていた。
押しが強くて、好奇心も強くて、あんな光を見たのに恐れることを知らない。アステールはどうしてもあの少女に親しみを感じてしまうのであった。
しかし、3日過ぎても、ひとつきが経っても、彼女は現れなかった。
ああ、だめだったか。
アステールはほんの少しだけ寂しそうな顔をしてから、いつも通りの生活に戻っていった。そう、いつもの生活に戻るだけ。なのに、どうしてこんなに空虚なのだろう。
外では草木がさわさわと揺れる音だけが響いていた。