反攻
天正九年(1581年) 正月 春日山城本丸
新年の祝賀の空気もそこそこに、春日山城本丸では緊張した面持ちで景勝と兼続が向かい合っていた。冬に入って動きがなくなっているものの、東の新発田重家の乱と加賀・能登を制圧した織田軍の動きは予断を許さなかった。
特に東では蘆名家や親上杉派の揚北衆による挟撃作戦が失敗し、逆に色部家や本庄家が独立志向を強めるという裏目の結果が出ている。
「やはり揚北衆には恩賞をちらつかせてでも調略した方が良かったのではないか」
景勝は自らの判断を悔やむように言った。が、兼続はいつもの平淡な表情のまま答える。
「いえ、それはなりません。我らについているとはいえ、外様の信濃衆や越中衆には御館の乱の恩賞はあまり与えておりません。揚北衆のみに恩賞を与えれば、今度は彼らの不満が高まるでしょう」
現在景勝に属している者たちも恩賞に関して納得しているという訳ではおそらくない。新発田重家ほどの勢力があれば独立に踏み切ることも出来るかもしれないが、小身の者たちにそれは難しい。
「蘆名家の弱体化と色部家の判断は想定外でしたが……まだ手がない訳ではありません」
「どうする」
「まず本庄繁長についてですが、彼は大宝寺家を掌握したものの、大宝寺義勝の権力は砂上の楼閣のようなもの。出羽衆を扇動して大宝寺家をつつけば彼は出羽にかかりきりになるでしょう。色部家については蘆名との戦いの決着がつかないでしょうが……こちらには蘆名だけではなく伊達家の力をも投入する必要があるでしょう」
「当てはあるのか」
「はい。蘆名盛隆は蘆名家での権力がぜい弱な上、嫡子がおりません。伊達家から養子を迎えられるよう我らが仲介いたします。また、出羽衆も先年の大宝寺の乱で所領を拡大しており、更なる拡大の機会を狙っているでしょう」
兼続は自身の策が何度失敗しようと、まるでそんなことはなかったかのように次から次へと策を立ててくる。しかも毎回その策を立て板に水のようにすらすらと話すので景勝はある意味感心した。
「肝心の新発田対策はどうする」
「新発田家は勢いに乗っていますが、勢いだけで勢力を広げたため、領地は細長い形となっています。新発田・五十公野と水原・木場城の連絡を絶つために中間の笹岡城や安田城に兵を入れ、水原・木場城と三条城・栃尾城の連絡を絶つためにその間にある吉江城に吉江殿を戻します。新発田家は跡を継いだ重家が異才を発揮しているようですが、他の家臣は少し戦が強いだけの普通の者たちに過ぎません。これまで越中に兵をとられておりましたが、それを戻せば十分勝機はあります」
兼続は目の前には何もないにも関わらず地図でも見ているかのように話す。
「新発田と戦っている間、織田家はどうする」
「小島職鎮ら神保の旧臣が我らに寝返りました。まずは彼らに織田軍を防がせましょう」
要するに捨て石ということであったが、景勝はあえて指摘はしなかった。神保家は最初謙信と結びながらも結局敵対し、一度は滅ぼされながらもせっかく越中に戻って来たというのに、今また内紛を起こしている。そのため彼らに対して景勝は特段の感情を抱いていなかった。
「我らが新発田家に勝つまで彼らが持ちこたえてくれれば良いということか」
「その通りでございます」
三月五日 新発田城
三月、ようやく雪が溶け始めてきたというころ、佐々成政から一通の書状が届いた。織田軍は三月中旬ごろには越中の上杉領へ攻め込むため、俺にも時期を合わせて上杉領へ攻め込んで欲しいとのことである。いよいよか、と思いつつ俺は承諾の返事をして兵を集めた。
一方、上杉方も冬の間ただ手をこまねいていた訳ではなかった。新発田・五十公野の近くにある笹岡城に竹俣慶綱・千坂景親・中条景泰ら土地勘のある武将が詰めている。
ちなみに竹俣慶綱の竹俣城は五十公野城の近くにあるが、慶綱が春日山に詰めていた上に勢力が大きくない竹俣家は城を捨てている。
また、その後ろにある安田城(城主は切腹した安田顕元の弟で、放生橋の戦いで負傷した安田能元)には斎藤朝信が入城している。
また木場城の近隣にある吉江城には越中で神保家相手に奮戦した老将吉江宗信が帰還している。すでに七十代後半だったが、人望も篤い名将であった。越中の戦いでは神保氏相手に終始優勢だったためか、景勝はこちらに重心を移したのだろうか。
さらに栃尾城付近にある直江家の与板城には直江兼続が入って戦備を整えている。
三条城には五十公野信宗が入っており、水原城や木場城にも高橋掃部助や佐々木晴信を入れたが、上杉家が本気でそれぞれの勢力圏を孤立させて攻めて来るとなればどうなるか分からない。
「とにかく、俺が目前の相手を早めに撃破してそれぞれを救援しないといけないか」
幸い、今回は背後を気にしなくてすむし、鉄砲隊もある。俺は四千の兵を集めると最初の目標を笹岡城に定めた。




