治水Ⅳ
一日飛ばしてしまったので、
分流に水が流れ過ぎる→本流の水がなくなる→新潟港の水深が浅くなって使えなくなる
↑ということだけ改めて補足
天正十二年(1584年) 三月
俺は雪解け後の増水に備えて再び阿賀野川の分流地点の確認に訪れていた。越後でも海に近い辺りはあまり雪が積もらず、この周辺も新発田城周辺と比べて積雪はほとんどなかった。
分岐地点周辺の盛り土がなされた以外は去年の外観とそこまで変化はない。
だが、そろそろ上流で雪が溶け始めたせいか、前回の視察時よりも確実に水の勢いは増し、しぶきも上がっている。
「冬の間に我らは大きな岩をいくつか調達し、分流の底に沈めました。そのため、分流の方には水が流れづらくなっております」
今日も共に視察に出向いた曽根昌世が解説する。言われてみればその周辺だけ川底が浅いように見えるし、大きな飛沫がいくつも上がっていた。
今も何人もの人足が大きな岩を車輪がついた木の板に載せて引っ張ってきている。そして川岸に石を置くと、また空の木の板を引いてどこかへ向かっていった。川岸には彼らが集めてきた巨岩がいくつも集められている。
また、岩の近くでは男が一人川を見張っている。
「あの岩はどうするのか」
「もし阿賀野川の流れが激しくなり、分流の川底をえぐってしまった場合に新たに投入します」
「岩で分流へ流れ込む水量を調整出来るのか」
「分かりません。しかし堰などの建設に比べて岩であれば水の勢いを見て随時投げ込むことが出来ます」
「なるほど」
江戸時代の新発田藩は分流に堰を設けて決壊したらしいが、この方法であれば一度岩が流されても随時補強出来る。
さらに会話を続けていると、阿賀野川の水流はなおも激しさを増していく。
そして突然、バシャン、と大きな水音を立てて川底の巨岩が下流に流れていくのが見える。やはり阿賀野川の流れは川底に岩を置いた程度では抑えきれないというのか。
俺は思わず昌世に尋ねる。
「大丈夫なのか」
「はい、あの者が見張りをしているのですぐに対応いたします」
そう言って昌世は川岸で見張りをしていた男を指さす。
すると川岸にいた男が慌ててどこかへ向かう。その間にも二つ目の岩が轟音とともに下流へと流されていく。
すぐに男は二十人ほどの人足を連れて戻ってきた。そして川岸に置かれていた岩を全員で囲む。彼らは掛け声を上げながら岩を押し、分流の中へと転がす。岩はゆっくりと転がると滝つぼのような豪快な水飛沫を立てて川底へと飛び込んだ。男たちはさらに二つの巨岩を川底に落とす。
岩を投げ込んだ分水位が上がっていき、分流の両岸に築かれた堤防の高さへと迫っていく。が、どうにか水位は堤防を越えることなく上がり止まった。また新たに投げ込んだ岩はこれ以上流れていくことなく川底に留まっている。
俺はそれを見てほっと息をつく。とはいえ、それは現在は耐えられたというだけで、今後どうなるかは分かったものではない。今年はそこまで積雪が多かった訳ではないので、いつか決壊すると考える方が自然だろう。
「相変わらず阿賀野川の流れは恐ろしいな」
「はい、現状はどうにかなっておりますが、梅雨期や雪が多い時の雪解けに耐えられるか自信がありませぬ」
「分かった。雪解けの増水を耐えることが出来れば、小阿賀野川の改修を行って欲しい」
小阿賀野川というのは、江戸期に阿賀野川支流を拡張して造られる阿賀野川上流から信濃川へと流れ込む河川である。上流の水を信濃川に流すことで阿賀野川の増水の危険を減らし、信濃川の河口にある新潟港への水量を保つという意図がある。
ただし上流において信濃川と阿賀野川は数キロ離れており、工事は阿賀野川分流以上の手間と時間がかかるだろう。
ただ、阿賀野川と信濃川をそこそこの規模の河川で結ぶことが出来れば水害が解決するだけでなく、船舶による物流にも役立てることが出来る。
「かしこまりました。手配しておきます」
そう言って昌世は頭を下げる。幸いこの時越後周辺に戦の種はなく、上方でも勝家率いる織田軍による紀州攻めに秀吉も参加するなど特に問題は起こっていなかった。
相川金山による金の採掘も順調であり、作業に慣れてきた金山衆はさらに人手を増やして採掘量を増やそうとしていると聞く。
そのため、この間に阿賀野川関連の治水事業を一通りしてしまいたいと考えていた。それが終われば信濃川や加地川など周辺河川も同様の工事が控えており、やることは山積みであった。
天正十二年(1584年)は十月ごろまで新発田領に関係する事件は特に起こらず、俺は小阿賀野川の整備を進めたのだった。
治水を始めて改めて考えたのは周辺河川を全て直線的に日本海に流し込むのが一番合理的であるということである。そうすれば川の水量が減って水害が減り、陸地に広がるいくつもの潟を干拓していくことが出来る。
新潟港は水底が浅くなれば出雲崎や直江津を代用すれば、領地全体としてはそこまで困ることがない。越後全体で考えればもしかするとそれが最適解であったのかもしれない。
しかし上杉家から独立したときから持ちつ持たれつであった港を見放すことは出来なかった。新潟港で得られた財力と鉄砲というのが上杉家に対する勝因であったことは否めない。
史実でも江戸時代に新潟港を持っていた長岡藩と水害に悩まされていた新発田藩が別の藩だったから水害対策と新潟港の利用の二兎を追う政策がとられたのだろうが、もし越後一国が同じ藩によって治められていれば新潟港は現代まで残っていなかったかもしれない。
しばらくの間、時系列は飛ばし飛ばしで進めようと思います




