伊勢の戦い
滝川一益に声援を送ってくださった皆様ありがとうございます(?)
激動の天正十年が明け、翌十一年(1583)正月早々、伊勢長島城主の滝川一益は兵を挙げた。
甲賀忍者の出身とも言われる一益は伊勢長島一向一揆の平定などで功績を挙げ、北伊勢の長島城周辺に所領を持っていた。現在伊勢は北部が一益と信孝が養子に入った神戸家、中部に織田信包、南部に信雄が養子に入っていた北畠家などの所領がある。
一益は甲州征伐で手柄を立てて上野・信濃に所領を与えられ、関東でも大きな権限を与えられていたが北条家に敗れて帰国して以来清州会議への出席を許されず、領地は長島城周辺のみとなって雪辱の機会を伺っていた。
ちなみに勝家と誼を通じていたものの、そこまで親しかったという訳ではなく、清州会議で一益を排斥したのが秀吉だったからというだけである。信孝ともそこまでの繋がりはなかったため、一益は勝家からの書状が届いた後もすぐに兵を挙げず、半月ほど準備を整えていた。
そして年明け、満を持して、秀吉方に従軍している関盛信の亀山城、秀吉方に寝返った岡本良勝の峯城への攻撃をかけた。亀山城は伊賀方面にあり、一益の居城長島城は尾張との国境付近にあり、峯城はその二城の間にある。
どちらも城主が主力を率いて美濃にいたため、滝川勢の猛攻を受けて呆気なく陥落した。亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重を入れると自身は長島城から近江へ北上の構えを見せたが、安濃津城の織田信包が背後を突く構えを見せたため一度城に戻っている。
また、一益は隣国尾張の織田信雄にも「秀吉に勝利した際は信雄様の家督を認めるため参戦しないで欲しい」と要請した。返事はなかったが、信雄も戦局の様子を見ているのか、軍勢を出す様子はなかった。
一益の動きを見た秀吉は本国からさらに一万の兵を呼び出し、美濃衆に岐阜城の包囲を任せると近江から大挙して伊勢に侵入した。和泉岸和田城も雑賀衆の攻撃を受けており、これが秀吉にとって限界の兵力であった。
和議まで秒読みのような状況だった岐阜城内の織田信孝らも一益の勝報を聞いて何とか士気を盛り返していた。
二月中旬、秀吉は兵を三手に分けると亀山城・峯城に抑えを残して本隊二万を率いて長島城に向かった。木曽川と長良川に挟まれた中洲に位置する長島城はかつて信長を苦しめた一向一揆が籠った城でもある。当然攻めるに難しく、最終的に織田軍は兵糧攻めで落としたが、秀吉は勝家が出て来る前に城を落とさなければならない。
それに上野の所領を失った一益の兵力は少なく、城内にはせいぜい二千ほどしかいなかったので兵糧は数か月は持つだろう。
「二万か。北条軍に比べれば大したことないものだな」
木曽川・長良川の両岸に布陣する羽柴軍に対しても一益は動じなかった。
「川岸に鉄砲隊を並べよ。敵がどれだけいようがこの急流を渡ることは出来ぬ」
羽柴軍も長島の戦いでそれは学んでいたのだろう、一益の鉄砲隊を見てすぐには攻めてこなかった。羽柴軍は到着してから何かの準備をしているのか、数日間攻めてはこなかった。
「殿、上流に羽柴軍が用意したと思われる大量の舟が浮かんでおります!」
「ついに来たか」
強引な渡河を行ってこない以上、考えられるとすれば調略か船による渡河ぐらいである。しかし亀山城と峯城の勝利により城内の士気は高く、調略の可能性は低い。秀吉は金に糸目をつけない物量作戦を好む傾向もあり、一益には予想がついていた。
「よし、用意していた焙烙火矢を用意せよ」
一益はこのたびの戦いに備えて海戦でしばしば使われた焙烙火矢を志摩の九鬼嘉隆から購入していた。川岸で備える兵士たちの元へ焙烙火矢が運ばれた直後、川上から羽柴軍の兵士を乗せた船が大量に下ってくる。海戦で使われる大型の安宅ではなく、ほとんどが取り回しのいい小早舟だ。二本の川を埋め尽くすように舟がびっしりと下ってくる様は城内から見下ろすと壮観であった。
「鉄砲撃て!」
まずは遠くから鉄砲を撃ちかけるが、川の流れによる揺れと船に備え付けられた竹束の盾により、弾丸にはあまり効果がなく、舟は近づいて来る。
「今だ、放て!」
頃合いと見て一益は太鼓を叩かせる。
一益の合図で兵士たちが一斉に舟に向けて焙烙火矢を投げた。焙烙火矢は次々と舟に着弾し、鉄片をまき散らし、中の兵士を傷つける。
「ぐわあっ」「ぎゃああああああっ」
そこかしこで敵兵の悲鳴が響き渡り、たちまち水面は赤く染まる。
それでも運よく焙烙火矢に当たらずに上陸してくる兵士たちには容赦なく鉄砲の雨が浴びせられた。羽柴軍はそれでも一時間ほど攻撃を続けたが、城兵の烈しい抵抗により攻撃を停止した。
それを見て一益もほっとする。焙烙火矢も無限にある訳ではなかったので物量攻撃を続けられれば数日で底をつく。しかし羽柴側も死傷者が相次いだため、攻撃中止に追い込まれたようだった。
翌日、物見から羽柴軍が小舟に鉄板の盾をとりつけているとの報が入って一益は焦った。織田家が鉄甲船を造って毛利水軍の焙烙火矢を防いだのと同じようなことを突貫で行おうというのである。これには一益も舌を蒔き、川岸の柵を強化するなどするしかなかった。
が、戦況は一益に味方した。羽柴軍が舟の準備を行っている最中、峯城からの知らせが届く。
峯城の奪還を試みた摂津衆の別動隊が攻城に失敗したところを城兵の奇襲を受け、損害を出したという。それを聞いた秀吉の判断は早かった。長島城を一気に落とせぬとみた秀吉は蒲生氏郷らを残して舟の改良を続けさせると、すぐに支城の平定に向かったのである。
「まあいい、十分に時間は稼いだ」
長島城以外では大軍を支えるのは難しいだろう。ある程度敵兵を引きつけた後は開城して撤退するように伝えている。
秀吉本隊の攻撃を受けた亀山城の滝川益氏は二週間ほど戦った末に、三月上旬、包囲を突破して脱出し、長島城に合流している。
三月上旬、亀山城の開城の直後に越前の柴田軍と佐久間盛政・前田利家・佐々成政らが近江に迫っているという報を聞いた秀吉は峯城の攻略を諦めて近江に兵を向けた。
次回、勝家サイドの話に戻ります。




