北条包囲網
板部岡江雪斎は北条家の外交を担当することが多い僧である。四十六歳で、北条家が織田家と同盟したときも使節を務めたという。
「このたびは我らの間に和議を取り持つべく参りました」
確か史実の上杉と北条はこの睨み合い中に和睦している。それでも徳川家康は甲斐と信濃を北条から守り切ったのだからすごいと言わざるを得ないが、今回は家康に恩を売るためもう少し粘るつもりだった。
「北条家の考える条件とはどのようなものか」
「信濃の領地については現状のままで線を引くこと。北条家と新発田家は停戦すること。その他の家の領地はお互い自由に。これでいかがでしょう」
北条家の方が兵力が多い以上、現状維持というだけでこちらに有利と言えなくもない。ただ、俺はそこまで背後の憂いはない。越後は情勢不安であるが、御館の乱で北条家を拒絶した上杉の旧臣が今更北条の調略に応じるとも思えない。
勝家に一度会いにいきたいという予定はあるが、それも冬になるまでであれば急ぎというほどでもない。秀吉もしばらくは増えた領国の仕置や織田家臣への根回しなど派手には動けないだろう。
一方の北条は徳川・長尾に背後を突かれ、佐竹もいつ動くか分からないという状況である。戦術的には有利であるが、戦略的には不利、といったところだろうか。
「和議に応じるのであればこちらに属している村上国清殿の所領は全て返還し、さらに小笠原貞種殿が治めている深志城をも安堵してもらいたい」
海津城を国境に和睦すると、村上国清の所領はほぼ北条方の領域に入ってしまう。そうなれば彼は恐らく離反するだろう。
もしこの条件で和睦を受け入れられたらどうしようかと思ったが、案の定江雪斎は渋い顔をした。四万の大軍を率いて北信濃までやってきて、現状より領地を後退する条件で和議を結ぶ訳にはいかないのだろう。
「一応相談してはみますが、我らがこの地から退却することはありえませぬ。どちらにせよこの地が国境となるのであれば今和を結んだ方がいいかと思われますが」
今の状況だけを見ればそうかもしれないが、後々のことを考えると関東にしか興味がない北条家よりも徳川家と結んでおく方が得である。
が、とりあえずこの場は恩を売る意味も込めて信濃衆の領地という名分を掲げておく。
「それについては見解の相違だな」
数日後、北条家は海津城の南側にある村上家の旧本拠地である葛尾城に重臣の大道寺政繁ら五千の兵を残し、さらに上野には北条氏邦と上野衆ら一万の軍勢を派遣した。そして北条氏政は残った二万五千を率いて信濃を南下した。
さらに領地に残っていた北条氏勝らは安房里見氏の援軍を含む一万の軍勢を率いて相模から甲斐を目指した。動員総兵力は五万にも上り、北条家の本気が伺えた。
一方の徳川家康も八月一日、酒井忠次に諏訪攻めを中断させて甲斐に軍勢を集めると、甲斐北西部の新府城を再建して八千の兵とともに籠城し、北条家を迎え撃つ姿勢を見せ、さらに鳥居元忠らに二千の兵を与え、相模からやってくる北条軍に備えた。
新府城は武田勝頼が甲府に城がないため築城した城だが、広大な城郭を守るためにはある程度の兵力が必要だったにも関わらず兵士の逃亡が相次いだため火をかけた城である。まさに今の徳川家康にとっては立地・広さともにうってつけの城であったというのは皮肉な話である。
また、上野では北条氏邦が長尾家が奪った沼田城を囲むが、旧上杉家の精鋭の必死の抵抗と、真田昌幸らが積極的に戦おうとしなかったこともあり攻略は滞っていた。
この間、俺は村上国清・春日信達に命じて葛尾城内にこもる信濃兵の調略を始めさせている。北条軍に入った信濃の兵も当初の圧倒的優勢から雲行きの変化を感じていた。
決定的になったのは八月十二日のことである。新府城を囲む北条本隊が有効打を打てないでいる間に、相模の北条氏勝らの軍が甲斐に攻め込んだ。北条軍一万に対し徳川軍は二千ほどだったが、鳥居元忠の奮戦により甲斐黒駒にて勝利を収めた。
結果的にこの報により北条家の敗北は決定的になった。葛尾城内の信濃出身の兵にも動揺が走り、村上国清・春日信達の調略に応ずる者が現れた。武田旧臣と信濃衆が徳川・北条・新発田の三陣営にそれぞれ散っているため一度不利とみられた陣営からは潮が引くように味方が去っていく。
「よし、そろそろ葛尾城を奪還するとするか」
兵力は七千対五千と城攻めをするには厳しいが、北条家は勢いを失っている。十四日、新発田軍は海津城を出て葛尾城に殺到する。先鋒は国清と信達が務め、二陣を曽根昌世が受け持った。
葛尾城は付近に海津城があるため長らく使われておらず、旧式の山城のままだったが大道寺政繁が大慌てで改修を施し、城外に柵や逆茂木を設置して空堀を掘っていた。
「こちらと敵の兵力はほぼ互角! 臆するな! 鉄砲隊は敵を引き付けて撃て!」
政繁の指揮で北条軍は奮戦するものの、その傍ら信濃衆には戦意がなく、さらに攻防の最中密かに城を出る者が相次いだ。そのため新発田軍は城攻めで死者が出たにも関わらず、数が増えているという有様であった。
翌十五日、これまで北条家に通じていた木曽義昌が徳川家に寝返り、さらに常陸の佐竹義重もこれに乗じて兵を挙げた。
元々佐竹家は北条家と宿敵のような関係だったが、滝川一益が上野に入って以来直接の戦いは行われていなかったが、北条家の劣勢を見てついに重い腰を上げたのだろう。
また、小諸城周辺では徳川方の依田信蕃の動きが活発になり、北条家への兵站も滞り始めた。
「よし、今日こそ城を落とす!」
「うおおおおおおお!」
昨日の戦いで好感触を得た新発田軍は勇んで城へ突入する。特に旧領奪還に燃える国清の戦意はすさまじく、鉄砲弾が飛び交う中を疾走すると即席の塀を押し倒し、城内に侵入する。それを見た信濃の兵は次々と戦意を失って逃走もしくは投降した。
それを見た大道寺政繁は主戦力が温存されているうちに撤退することを決意する。本気を出せばあと数日持ちこたえることは出来るかもしれないが、小諸城が依田信蕃の手に堕ちれば葛尾城は孤立する。それどころか最悪甲斐の北条本隊への補給も滞る。
政繁は北条軍を率いて城の南方から討って出た。俺もあえて撤退していく敵軍と戦うつもりはなく、包囲を空ける。
「撤退していく敵は追うな! 城の占領を優先せよ」
こうして俺は葛尾城を落とすことに成功した。大道寺政繁は敗兵をまとめると休む間もなく小諸城に入り、依田信蕃との戦いに向かっている。
史実の家康は上杉が北条と和睦した後、ほぼ単独で北条家との戦いをひっくり返しているのですごい
北条の兵力五万は盛ってある数字にしても、このころの家康は慎重というよりはかなりやんちゃな気がします。




