真相
今回の話は妄想です。
六月十一日
上杉景長と上杉家の武将たちが城を退去したため、代わりに俺が入城した。東国屈指の堅城である春日山城を無血で入手出来たことは大きい。本丸からは周囲の土地が一望出来、遠くには信濃に向かって進んでいく織田軍の姿も見えた。以前もこの城に来たことはあるが、城主として周囲を見渡すと周囲の景色もまた格別だった。
退去した上杉系武将たちだったが、去就は様々だった。
直江実頼・泉沢久秀・甘粕景持らは長尾信景を景勝の後継者と認めて坂戸城に向かった。斎藤朝信はすでに老齢であったこともあり、正式に景信に家督を譲って隠居。山本寺勝長は引き続き織田家に従う旨を表明している。この場合の織田家が何を指すのかは曖昧であったが。
また、上条政繁はなんと景長とともに美濃へ向かった。彼の出身は能登であるため、このまま故郷ではない越後に居続けるよりは織田家の血縁である景長に賭けようと思ったのかもしれない。
本庄秀綱にも事情を伝えて、坂戸城から兵を退かせた。坂戸城を手に入れられなかったのは残念だが、上田長尾家が関東方面の北条氏に対応してくれるのは助かる。
新しく入った上杉旧領の内政はなかなかに困難だった。上杉景長の継承後、領地の割り振りなどを行ったが、それが完全に定着する前にこのたびの乱が起こった上、相次ぐ混乱で一部資料が焼失するなどまず現状が把握できなかった。
どこから手をつけたものがいいか途方に暮れていると、京から忍びからの報告が戻ってくる。俺は先にそちらの報告を受けることにし、人払いを行う。
「先日は急ぎの件だったのでとりあえず事実のみ急報いたしましたが、おおむね内実は分かりました」
「本当か」
「はい。話は甲州征伐の折に戻ります。このとき、信忠の手柄を褒め称えた信長はそのまま、東国の支配についても任せるというようなことを述べました。関東の滝川一益や北陸の柴田勝家、東海の徳川家康、そして上杉景長らを指揮して奥州も平定するのも任せるという話だったようです」
その辺りは信忠が越後に来た際も語っていた。
「また、四国には信孝と丹羽長秀を派遣し、毛利には自身と明智光秀の援軍を送ることで一気に片をつけようと考えていたとのことです。そうなれば九州ももはや時間の問題。そこで改めて信長はその後の唐入りを示唆する言葉を述べたとのことです。信忠はそれを婉曲に諫めたようですが、信長の意志は変わりませんでした。おそらくですが、信忠は信長渡海後の日本を治める存在として期待されていたのではないでしょうか。そう考えれば信長が朝廷の官職を受けていないことも説明がつきます」
言われてみれば、豊臣秀吉も秀次に関白を譲ってから朝鮮に出兵している。
また、信長はこのときなぜか正親町天皇の譲位を拒んでいた。本来信長と関係が深かった誠仁親王への譲位は信長にとっても都合がいいはずであった。それは信長が渡海した際、現地の天皇として誠仁親王を立てようとしたからではないか。
全て推測であるが、信長の目が海外に向いていたとすればある程度の辻褄は合う。
「さすがの信忠も単独で信長を翻意させるのは難しいと悟り、徳川家康や明智光秀に相談した模様です。そして甲州征伐後、信長が家康を饗応するときに三人で改めて話をしようということになりました。が、手違いにより当日家康は堺におり、光秀はなぜか一万三千の軍勢を率いて上洛しました。元々ただの話し合いだと思ったのに謀叛も同然となっていた信忠は慌て、止めようとしましたが止まらなかったようです」
「なるほど……」
「その後光秀は信長を説得しようとしたようですが、交渉は決裂。戦端が開かれたようです。また、この事態の発端となってしまった信忠は責任を感じて明智軍に戦いを挑んだようですが、討死したようです。一応この時信忠の周りには織田家の馬周り衆一千以上の兵力がおり、数日間持ちこたえれば越前から柴田勝家が駆けつけると判断したと思われます」
確かに本当にその真相だったのならば信忠が逃亡せずに光秀と戦ったのは分からなくもない。
「しかしなぜ光秀は大軍を率いて上洛したのだろうか?」
「分かりません。しかし明智軍の兵士は徳川家康を討ちにいくと思っていたようですし、案外家康・信長・信忠をまとめて討って天下をとろうとしていたのでは?」
確かに元々は三人で信長と話し合うという計画だったが、他の兵力がいない以上やれると思ったのもおかしくはない。しかし光秀は事前に家康と何度も会う機会があった。綿密に打ち合わせされていたはずなのに家康が京にいなかったのは家康は光秀の心変わりを察知していたのか、もしくは光秀がそう思うように仕向けたのかもしれない。
ただ、家康が京にいないことを掴んだ光秀は急いで計画を変更し、兵力で信長を脅迫しつつ元の説得路線に戻ろうとしたのではないか、と推測する。
「そう言えば秀吉の動きはどうだ?」
「はい、こちらの動きも不審で、明らかに変の知らせが伝わるまでに和睦の交渉を始めておりました。もしかしたら明智軍が亀山城を出発して京へ向かったのを掴んでその時点で予期していたのかもしれません」
もし、信忠らが信長を諫めるという話が秀吉にも伝わっていたのであれば秀吉が光秀の動きに目を光らせていてもおかしくはない。そして明智軍がなぜか亀山城から京へ向かえばその時点で変事を察してもおかしくはない。
「また、最後に家康ですがこちらも本能寺の変が起こってから手配したとは思わぬ速さで甲斐と信濃に武田の旧臣を送り込んでおります」
確かに先ほどの話が事実であればそうなっても不思議ではない。また、伊賀越えの際に甲斐に領地を持っていた穴山梅雪が一揆に殺されたのも家康の差し金かもしれなかった。
「しかし家康が一枚噛んでいるというのは、証拠がないにしろ取引材料に使えるかもしれぬな」
春日山城を手に入れた以上、今後信濃をめぐる北条・徳川の争いに何らかの形で関わることになるだろう。その時に徳川家に対して交渉材料があれば役に立つかもしれない。
おおむね妄想なのですが、一応根拠がある推測とない妄想だけ分かるようにしておきます
信長の唐入り云々の話→想像(明智憲三郎著「本能寺の変 431年目の真実」にも同様の説あり)
信長が唐入り後、信忠に日本を任せようとしたこと、親王を中国に連れて行こうとしたこと→妄想
明智軍は最初から襲ったのではなく揉めていたらしい→(斎藤忠「天正10年の史料だけが記す本能寺の変の真実」より。史料的根拠はある)
信忠が変に関係していた→信忠が無関係だったら戦って討死せず難を逃れていたのでは? ということからの推測。光秀が信長を討ち終わるまで信忠に兵を向けなかったのも不自然と言えば不自然
家康→天正壬午の乱の対応がやたら早い。また、織田家の意向に逆らって武田の遺臣を匿っていたのも変を予期していたからでは? ということからの推測
秀吉→前情報がなかったと考えるとやはり中国大返しは不可能ではないか




