四章 仮婚約者業の憂鬱5
ロルテーム語の授業終わり、扉をたたく音とともにフレンが入室した。
「お疲れ様、オルフェリア。ロルテーム語の進捗具合はどう? 分からないところがあれば私が教えるよ」
耳になじんだフレンの声にオルフェリアは扉の方へ顔を傾けた。ミレーネがロルテーム語授業仲間から一瞬で侍女の顔に戻り、席を立ちあがりオルフェリアの分まで帳面や教科書を片し始める。
「フレンたら、腹が立つほどロルテーム語が上手なのね」
フレンはロルテーム語で話しかけてきた。発音も完ぺきである。以前オートリエが自慢していただけのことはある。オルフェリアは自分の発音を聞かせるのが恥ずかしくてフランデール語で話しかけた。
「腹は立てないでほしいな。ロルテーム語は商売上絶対に必要だから小さいうちから特訓させられていたんだよ」
今度はいつもの言葉、フランデール語で返ってきた。
軽口を叩いていると、片付けの終わったミネーレが礼をして部屋から出て行った。ぱたんと扉のしまる音がして、オルフェリアはフレンと二人きりという事実に少し緊張した。
「ああそうだ。叔母上には私たちの結婚はまだ先だからとくぎを刺しておいたよ」
フレンはなんてことないように話しかけてきた。
こっちはつい意識しちゃうのに。今までミレーネの座っていた椅子に腰かけてオルフェリアは向かいにあるフレンの顔を対峙する。
「そう。ありがとう。わたしから何度説明しても押し切られてしまって。大変だったの。それに花嫁修業も始まるし。今も続いているのよ」
「ちなみに花嫁修業って何をしているの?」
フレンは興味を持ったようだ。
オルフェリアは考えながら手の指を一つずつ折っていく。
「ええと、まず刺繍の練習でしょう。お友達作りでしょう。ロルテーム語でしょう。社交でしょう。慈善事業についてでしょう」
「刺繍の練習も入るんだ」
「アルンレイヒの花嫁衣装の一部に花嫁自らが刺繍を施すのよ。幸せを祈って。わたし刺繍よりも読書の方が好きでさぼっていたから」
「ああ知ってる。レカルディーナの結婚式の時、叔母上が言っていたから。そういえば、今度彼女からお茶会に呼ばれているんだって?」
「ええ。レーンメイナ、ええと、ハプニディルカ伯爵令嬢を囲む会だそうよ」
ミネーレかオートリエから仕入れてきたのかフレンがさらりと尋ねてきた。
婚約したレーンメイナのための会だそうで、王都にいるオルフェリアにも招待状が届いた。同じ年頃の令嬢やすでに嫁いだ若い世代の婦人のみが招待されているためオートリエは留守番、もといレカルディーナの二人の娘と遊ぶと言って張り切っていた。
「ふうん。でも、きみ大丈夫? ハプニディルカ嬢と昔やり合っていただろう」
フレンと最初に出会ったお茶会のときのことだ。
「……たぶん大丈夫」
これも花嫁修業、いや、メンブラート家のためでもある。
「レカルもいるからそんな変なことにはならないと思うけど」
フレンは心配そうにオルフェリアを見つめてきた。
「わたしだってここ最近は同世代の女の子たちに揉まれてきたのよ。大丈夫。それより今度はフレンの番。ルーヴェで何か分かった?」
オルフェリアはフレンを促した。
実はこれを聞きたかった。フレンがミュシャレンに帰ってきてから仕事とオルフェリアの身辺のことでばたばたしていて聞けずにいた。
「まず、ダヴィルド・ポーシャールのことだけどね。やっぱり、というか案の定偽名だったよ。彼の本名、というか彼らしい男の本名はデイヴィッド・シャーレン。出身は西のインデルク王国らしい」
「デイヴィッド・シャーレン……」
オルフェリアはフレンの言葉を復唱した。デイヴィッド、インデルク風の名前である。
フレンはそれから、彼がルーヴェ大学に確かに在籍をしていたが、一年半ほど前に旧従と袂を分かったこと。そして、下宿も引き払ったこと。その後の足跡を知る人物はルーヴェでは見つからなかったことを説明した。
「そうなの……」
要するにとくに進展はなかったということだ。
「宝石の方もね。懇意にしている宝石商に尋ね回ったよ。だが、古品の流通はまた管轄が違うらしくてね。ついでに後ろ暗いものを持つ連中というのはまっとうな商売をしている私たちの前にはあまり姿を見せることはないらしい。ファレンストの名前を使って、曰くつきのダイヤモンドを探していると流してもよかったんだけど、そうすると真実にたどり着く輩が現れる危険性がある」
メンブラート伯爵家に伝わるダイヤモンドの特徴そのままを流せば、背景を勘ぐる人間が出てくる。そうなると、先に件の品物を手に入れて高額を吹っかけようと企む輩が出てくるとも限らないし、ダヴィルドに勘付かれる可能性もある。
「ダイヤモンドのことは秘密裏にしたいわ。伯爵家のごたごたを知られるのは『蒼い流れ星』だけで十分よ」
オルフェリアは力なく言った。
フレンは唐突にフロックコートのポケットに手を突っ込んだ。小さな小箱を取り出してオルフェリアの前に差し出した。
「そうだ。はい、これ」
「なあに?」
「きみに似合うかなって思って」
フレンに促されるままにオルフェリアは小箱を開けた。
オルフェリアは小箱を開けた。大粒の紅玉が二粒。耳飾りが鎮座していた。
「どうしたの? 急に」
オルフェリアは眉根を寄せた。
誕生日の贈り物なら、先日たんまりともらったはずだ。
「宝石商からいい情報を引き出すためにお買い上げした宝石。ほかにもいくつかあるから今度持っていくよ」
「一体どれだけ経費使ったのよ!」
オルフェリアはたまらず叫んだ。
「必要経費だよ。金を落としてやると彼らは饒舌になる」
「だからって!」
「いいじゃないか、別に。私の私的な財布から出しているものだ」
フレンの声が一段と固くなった。
「だったら余計に悪いわ。わたしなんかのために無駄遣いしないで」
「なんかのため? 私はきみのことを甘やかしたいんだ。私が好きでやっていることなんだから、きみはただ笑顔で受け取ってくれればそれでいいんだ」
フレンの言い分はめちゃくちゃだった。別にオルフェリアはフレンに甘やかされたいとは思っていない。優しくされると嬉しいけれど、偽装婚約なのに余計なお金は使ってほしくない。
「わたし、宝石がほしいなんて一言も言っていない。贅沢好きじゃないもの」
もっとやんわりと言うこともできるのに、オルフェリアはついはっきりとした言葉を使ってしまう。
「どうしてきみはそんなにも聞きわけがないんだ」
「そういうわたしを選んだのはフレンだわ」
オルフェリアとフレンは睨みあった。
オルフェリアは悲しくなった。どうしてこんな風に喧嘩する羽目になったんだろう。
オルフェリアは視線はそのままフレンにぶつけたまま心の中で嘆息した。
「……いまあなたと話すともっと嫌なことを言ってしまいそうだから、今日はもう帰るわ」
オルフェリアは固い声のまま立ち上がって部屋から出て行った。
フレンは追ってこなかった。
自分から出て行って、引き留めてくれなかったことに傷ついて、そんな自分勝手な思いに笑ってしまった。
「……馬鹿みたい」
笑みを浮かべているのに、つんと目頭が熱くなった。




