三章 自覚した恋心6
「あいつから逃げて来たってことは姉上もようやく夢から覚めたってこと?」
「そんなことないわよ」
リュオンの期待に満ちた声にオルフェリアは反射的に否定した。
フレンにどんな顔をして会っていいのかわからなくて、つい逃げてしまっただけ。だって、彼ったらこちらの気も知らないで平然としているんだもの。
オルフェリアがどれくらいフレンに会いたかったかなんて、彼は考えていないに違いない。彼からの手紙に一喜一憂したり、貰った菫の砂糖漬けは相変わらずもったいなくて食べられない。毎日忙しくしていても、夜になればフレンのことを思い出してしまう。
いつ帰ってくるの? 明日はあなたからの手紙は届く? そんなことばかり思っていた。だから、ほんの少しだけ淡い期待を込めて手紙に慈善バザーの日時を書き添えた。
送ってから、これって遠まわしにフレンにアピールしていることになる? なんて青ざめたし、いや、きっと彼は気にも留めないと改め直して心がずんと落ち込んだ。
「でもあいつの顔を見るなりミレーネの後ろに隠れたじゃないか」
「あなた、あれ見てたの?」
リュオンはこくりと頷いた。
「だって……あれは、その……。久しぶりにフレンに会ったから恥ずかしくて。だって、急に現れるのよ。動揺するじゃない。今日のわたし、いつもより恰好が地味だし。ミネーレったら、変に殿方の記憶に留まらないようにってこんな質素なドレスを選ぶんだもの。前もって手紙をくれたらもっとわたし、可愛い恰好をしてきたのに」
オルフェリアはわたわたと手を動かしながら懸命に言い訳をした。
まるで相手がフレンそのものであるように、必死に言い繕う。もちろんオルフェリアが身にまとっているドレスはミュシャレンの一流店で仕立てたものだから、派手さはないけれど、誂えは一級品だとすぐに分かる。
オルフェリアが言い募るにつれてリュオンの機嫌がどんどん悪くなっていくのだが、自分のことに体一杯なオルフェリアはもちろん気付くこともない。
「フレン、気分を悪くしたかしら。だって、急に逃げちゃったし。どうしよう、リュオンわたし……」
「姉上」
リュオンは困ったように口をもごもごと動かした。
教会の前庭で開かれているバザー会場から右手に逃げてきたオルフェリアの場所はちょうど生垣に囲まれていることもあり、会場の様子は分からない。フレンはまだあちらでオートリエらと談笑しているのだろうか。
逃げてきたオルフェリアも悪いけれど、少しくらいは様子を見に来てくれたっていいのに。やっぱり偽物の婚約者のことなんてどうでもいいのだろうか。それとも意味不明な態度を取ったオルフェリアに起っただろうか。
(そうよね。彼怒ったわよね。彼の作ったオルフェリア設定なら、こういうときは絶対にフレンに抱きつくところだもの)
そんな設定なんて忘れるくらい動揺したのだから仕方ない。説教は甘んじることにしよう。ああでも、理由を聞かれたらどうしよう。うまくごまかせる自信がない。
隣にいるリュオンの存在を忘れるくらいオルフェリアの頭の中は忙しかった。
と、そのとき。
人の気配がした。
リュオンがさっと、オルフェリアの前に立ち上がる。
オルフェリアは自分の胸が高鳴るのを自覚した。フレンが追ってきてくれた―? そうだとしたらどんなに嬉しいだろう。
「―っ……」
しかし、こちらに向かってきたのは中年の男性だった。
オルフェリアは素直にがっかりした。世の中そうも甘くはない。どうせ散歩中の紳士とか、そういう人だろう。
しかし、少しだけコートの裾がほつれているものの元は上等な作りなのだろう、それを纏った紳士は二人の方へ近づいてきた。帽子を目深にかぶった紳士は暗い灰色の瞳をこちらに向けてきた。
「メンブラート家のご子息とご令嬢とお見受けします」
オルフェリアは振り返ったリュオンと瞳を合わせた。二人とも、目の前の男に心当たりなどない。オルフェリアはリュオンに小さく首を振った。
年のころは四十代だろうか、目じりに細かい皺が刻まれている。髪の毛は短くて帽子の中に隠れている。鷲鼻が男の顔に凄みを付け加えている。
「そうだ。僕はメンブラート子爵だ。貴様、自分の名は名乗らないのか?」
リュオンは少し横柄な声音で応対した。
オルフェリアは素早く頭を巡らせた。ミュシャレンに出てきて、一人でもしくはフレンや叔母夫婦などと色々な集まりに顔を出した。けれど、こんな風貌の男に心当たりはない。
「私のことなど、どうでもよろしいのですよ。それよりも、『蒼い流れ星』はどこにやりましたかな? 私はそれの行方が知りたいのです」
今度はリュオンが息をのんだ。
彼の背後に庇われるようになっているオルフェリアも別の意味で心臓を鷲掴みされた。
「なんのことだ」
「とぼけないでください。あれは大昔ローダ家から下賜されたと聞き及んでおります。あれを持つものが伯爵家の正当な当主だと。それをね、わたしは譲り受けたのですよ。それなのに……」
男は滔々と述べて、最後に悔しそうに歯がみをした。ぎりり、と奥歯をこすり合わせる音まで聞こえてきそうなほど、大きく歯ぎしりをする。
「あなたの手のものがわたしから取り上げたのでしょう。ずいぶんと卑怯な真似をなさるものだ」
「貴様、何を言っている。『蒼い流れ星』は我が家の奥深くに眠っている代物だ。そもそも貴様ごときが目にできるものではない」
リュオンはきっぱりと言い放った。
しかし、オルフェリアは知っている。ダイヤモンドの首飾りと同じくらいメンブラート伯爵家にとって大事な家宝である大粒のサファイア『蒼い流れ星』が現在伯爵家の手元に無いことを。
「あれはね、本物でしたよ。すくなくとも本物のサファイアだった。だから私は買い付けたんですよ。あの商人は私に囁いたんだ。これを持つ者が伯爵家の土地も財産も好きにできると。だから私は」
「そんなことあるわけないだろう。たとえ宝石を持っていたとしても伯爵家を継ぐことができるのは正当な後継者だけだ」
リュオンは声を荒げた。
現在のアルンレイヒでは貴族の世襲は基本的に当主の長男が務めることになっている。法律に基づいて後継者を定め国に届け出る。宝石を持っているからという理由だけでまったく縁もゆかりもない人物が、正当な後継者を押しのけて自身が伯爵になり替わろうなど、そんなことできるはずもない。
「なんだと……。そんなことは……」
男はリュオンの言葉にショックを受けたようだった。
「おい、貴様出身はどこだ?」
「ふん。私の出身など、どこでもいいでしょう」
それよりも、と男は再び暗い顔をこちらに向けてきた。




