一章 仮婚約者は迷走中2
◇◇◇
その日は冬のミュシャレンにしては珍しく朝から快晴だった。
オルフェリアの誕生日、一月十八日である。
実家からミュシャレンへの帰り道、フレンが出かけようと誘ってきて、ほんの冗談だと思っていた。フレンはたくさんの仕事を抱えていて忙しいのに。
気乗りしないオルフェリアの様子に、察するものがあったのか、フレンは『どこか明るい場所に行こうか』と提案してくれた。一月の寒い季節に明るくなるところなんてあるのだろうか。
オルフェリアは訝しんだ。
それなのに、いざ約束の日が近づくとオルフェリアはそわそわした。フレンに少しでも可愛いと思ってもらいたい、なんてドレスを選ぶところから散々迷った。
そして、フレンに連れてこられたのは郊外にあるガラスの建物群だった。
「ここなら薔薇もすみれもプリムラもたくさん咲いているよ」
「ここは?」
「アルンレイヒの王立植物研究所。今の時期でも温室内にたくさんの花が咲いている」
ミュシャレン郊外にある王立植物研究所はミュシャレン大学の自然科学科の研究所の施設である。外の庭園にも目的別に広大な面積を有しており、薬草園と思しき場所では白衣を着た人らが立っているのが遠目にも分かった。そんなところ、もちろん一般公開されているわけでもないのにフレンは平然としている。
温室はガラス張りの建物で、日の光がさんさんと降り注いでいる。オルフェリア生まれて初めての光景に頭を上に向けてため息をついた。
外とは比べ物にならないくらい温かい。本当に薔薇が咲いている。それも満開に!
「すごいわ……」
それも沢山の種類の薔薇である。
「ありがとうございます。ここにあるのは約百種類くらいでしょうか。もし他の花が見たければ隣の温室へどうぞ」
二人を案内した研究員が口を添えた。
五十代くらいだろうか、研究者と思わしき男性である。彼が鍵を開けて温室を案内してくれた。
「百種類も。すごいわね」
「日々品種改良がなされていますから、これでも蒐集が追いつかないくらいですよ。ああ、この薔薇は昨年の品評会で最優秀賞を取ったネイデン王国のものですよ」
そう言って彼は薄い紫色をした薔薇を指差した。
オルフェリアは指差された薔薇へ近づいた。顔を寄せるとふんわりと、薔薇特有の香りが鼻腔をくすぐった。
研究員たちは一通り温室内の注意事項を述べるとオルフェリアとフレンを自由にさせてくれた。
オルフェリアはつい好奇心に負けて温室内を歩き回る。
「オルフェリア、私のことを忘れないでほしいんだけど」
なぜだか腕を捕まえれて、自身のそれに絡まされた。
「……ごめんなさい」
恋人設定をいまだに遵守できてないオルフェリアは素直に謝った。言い訳をするとフレンの小言が倍返しになるからだ。このあたりは学んだ。
「薔薇にばかり気を取られていると、花相手に焼きもちを焼いてしまうよ」
「ええと……」
叱られているには妙に意味のつかめない台詞だったから戸惑った。
フレンは最近優しくなったと思う。オルフェリア自身を気にかけてくれるようになったし、よく笑うようになった。知り合った当初の作り笑いではなくて、ちゃんと楽しいと感じていることがわかる笑顔だ。
今だって、言葉は意味不明なのにフレンの瞳が穏やかに細められているから、オルフェリアは不意打ちを受けたように体が熱くなって、慌ててそっぽを向いた。
最近オルフェリアはフレンのこととなると情緒不安定になる。
「オルフェリアは自然が好きなんだね。花とか動物とか」
「ずっと田舎の領地で暮らしていたから馴染みがあるだけだわ。ああでも、こんなにも沢山の薔薇は無かったけど。とってもきれいね。香りも素敵」
「薔薇に囲まれているオルフェリアも可愛いよ」
フレンが堂々とそんなことを言うからオルフェリアは身の置き場に困った。研究員はとっくにこの場から離れているのだから、そんなくさい台詞言わなくてもいいのに、と心の中で文句を言う。
「そ、それにしても。フレンあなた一体どんな手を使って入れてもらったの? まさかレカルディーナ様に頼んだの?」
気恥ずかしくなったオルフェリアは話題を変えることにした。
普段ひけらかしていないけれど、実はフレンは王太子妃レカルディーナとは従兄妹という関係だ。コネという意味ではアルンレイヒで最大級の効力を発揮する。
「まさか。オルフェリアとの誕生日デートに彼女を使ったりはしないよ」
「じゃあまさか……。お金積んだの?」
オルフェリアの顔が曇る。自分のために余計なお金は使ってほしくない。
「それも違う。まあ、似たようなものかな。彼らにはね、アルメート大陸由来の珍しい植物の種を進呈すると言って交渉したんだ」
フレンは片目をつむって種明かしをした。
「アルメート大陸の?」
「そう。ロルテーム支店経由でね」
ロルテーム支店といえばフレンの厄介な大叔父が牛耳っている牙城である。そんなところの品物を融通できるものなのだろうか。
「そういう種明かしはここまで。今日はきみに楽しんでもらいたくて連れてきたんだから、裏話のことは忘れて」
その後オルフェリアはフレンの左腕に自身のそれを預けたままのんびりと温室内を散策した。一足先に春が訪れたこの小さな世界の中には、沢山の種類の花々が咲き誇っていた。薔薇も感嘆するくらいに立派なものが多かったけれど、チューリップもとても愛らしい。目の覚めるような赤いものや可愛らしいピンク色。根元の部分が黄色くなっているものや、八重咲きのもの。沢山の品種が目を楽しませてくれる。
花にばかり夢中になって気もそぞろに歩いていると、つまずいた。
「気をつけて」
「ありがとう」
フレンが咄嗟に空いている方の腕でオルフェリアのことを支えてくれた。
不意打ちに触れられると心臓がまた跳ね上がった。慣れた仕草で彼はオルフェリアのことを支えて、そのまま歩き出す。淑女らしく彼の腕に手を添えているくらいの距離感のほうがまだ平穏を保てるのに。
こんな風に背中に手を添えられると心臓がとってもうるさく鳴り響くから困る。彼に寄り添うのは仕事のはずで、だいぶ慣れたつもりだったのに。最近になって、オルフェリアは再び彼から触れられると動悸が激しくなるようになっていた。
こっそり覗いた彼はオルフェリアがこんなにも困惑しているだなんて思ってもいないように涼しげな顔をしている。
(きっと彼は慣れているのよね……)
自分よりも十一も年上で、これまで好きな人だっていたし、縁談だって色々と持ち上がっていたような素振りをみせていた。
彼の過去なんて気にならないはずなのに、最近のオルフェリアは顔も知らないフレンの過去の女性たちに面白くない感情を抱いてしまう。
背中に回った腕の温かさを手放したくない、戸惑う心とは別にそれを望んでいる自身の心も確かに存在する。そんな風に思ってしまう自分がふしだらなような気がしてしまう。
それなのに、彼に触れられると胸の奥がどうしようもなく高鳴る。この気持ちの正体にまだ名前は付けたくない……。オルフェリアはぎゅっと目をつむった。




