一章 偽装婚約の裏側5
「十一も年上のおっさんが言うと説得力あるわね」
オルフェリアはじっとフレンのことを睨み返した。
「お、おっさん……」
オルフェリアのおっさんという言葉にフレンが頬をひくつかせた。オルフェリアはそれを横目にソーセージを切り分けて口に運んだ。
ちなみに契約書には偽装婚約をするにあたっての基本条項もきちんと書かれていた。
『・契約期間は一年間。双方同意のあった場合のみ一年更新を基本とし、延長可
・偽装婚約のため結婚はしないこととする。契約期間終了後は円満に別れること
・婚約者を演出するための接触は可。しかし過剰な接触は不可。例→口づけなど(挨拶の口づけは例外だが、極力しない)
・秘密厳守。破った場合は違約金が発生する
・お互い婚約者を演じるにあたって設定資料集を熟読し、全力で演じきること』
などだ。
ちなみにオルフェリアの人物設定なるものもきちんと用意されている。
『好きなもの きらきらしたもの・ディートフレンとののろけ話・詩作・メーデルリッヒ女子歌劇団
きらいなもの 重たいもの・にんじん・ピヨール豆
ディートフレンの好きなところは、緑色の瞳・大人な包容力・人生経験
などで、以下前出のどかんと空気読めない発言をするとか、恋に恋するお年頃その他』
と、いくつかつづいていく。
「大人な包容力なんて、一切感じたことないし……」
「なにか言った?」
「べつに」
オルフェリアの小さなつぶやきを聴き逃さないのだから小さい男だと思う。
大体、にんじんが嫌いとか、子供か。
渡された質問事項の嫌いな食べ物欄には特に何も書かなかったのに、勝手にそういうことにされた。
「オルフェリア人物像設定についてはおいおいね。契約を交わしたんだから、こちらの意にはきちんと添ってもらう。ああそれと、明日は音楽会だったね。きみの自宅に迎えに行くから用意をしておくように」
フレンはオルフェリアの文句を取り上げる気はさらさらないようで、さっさと話題を変えてしまった。
それからは二人とも黙々と食事を取った。婚約者らしい会話などあったものでない。たまに給仕が個室へとやってきて空いた皿やグラスを取りかえるときだけフレンはやたらと芝居がかった視線をこちらに寄こしてきた。無視すると馬車の中で小言が滝のように際限なく落ちてくることが分かり切っていたためオルフェリアは無難に相手した。
婚約といっても双方なんとも思っていない相手だから甘ったるい空気になんてなりやしない。
ミュシャレンの夏の恒例行事といえば王立劇場で催される王立管弦楽団の演奏会。噂で聞いていたときはいつか自分も誰かと足を運んでみたいと淡い気持ちを抱いたものだけれど。せっかくの演奏会も隣にいるのがフレンだと思うとちっとも浮足立たないオルフェリアだった。
◇◇◇
「お嬢様とっても可憐ですわ。まるで夏の夜に現れる妖精さんのよう」
「そうかしら……」
うっとりと頬に手を添えて自身の仕事ぶりに満足げにため息を漏らすのはミネーレ・ヒョルスナーというフレンが用意したオルフェリア付きの侍女だ。
赤みかかった金髪をひとつにまとめ後ろで器用にまとめ、自身も飾り気のないドレスを身につけている。今日の演奏会ではオルフェリアの付添人として同行する。
ミネーレは美しく飾り立てられたオルフェリアのことを薄青の瞳をうるうるとさせながら見つめていた。
「今日はせっかくの演奏会ですもの。月の妖精さんのように儚い、をテーマにドレスを選びました。ほら、このドレスシフォン素材ですからふわりと風に踊るようでしょう。お嬢様の薄紫の瞳にもとても合っています」
「でもわたし銀髪ではないし。黒髪だし。月の妖精ってちょっと誇大すぎる」
「そんなことないですよ! わたしお嬢様のようなきれいなお方に仕えることができて毎日幸せです。今日は何を着てもらいましょう、とか妄想するたびに心臓がどくどくと波打ちます!」
実際にオルフェリアの装いは完ぺきだった。
フレンが用意したのは専用の侍女だけではない。自身の枯券にもかかわるとばかりにオルフェリアに対して流行のドレスや宝飾品や身の回りの物を大盤振る舞いで贈って寄こした。
父親が冒険旅行に行くときに作って置いて行った借金のために現在メンブラート伯爵家の内情は厳しい。オルフェリアもそこのところをきちんと分かっているため自身の服飾代はぎりぎりのところまで切りつめていた。持っているドレスはどれも古い形だったし、叔母であるヴィルディーが若いころに着ていたドレスを手直しして着回していたくらいだ。
演奏会用のドレスはミネーレがミュシャレンの仕立屋にオルフェリアを連れ回して作らせたものだった。淡いピンク色かかった薄紫色のシフォンのドレスは薔薇の花弁のようにすそに向かっていくつも重ねられていて歩くとひらひらと舞いあがる。ドレスのすそから見える靴には真珠が縫いとめられ、光沢のある薄グレーで品よくまとまっている。
「侯爵邸も待遇は良かったですし、奥様もいい人でしたが、やはり年配の女性ですと自然ドレスも地味なものになりますし。それにくらべてオルフェリアお嬢様はまだ十六歳! 飾りたい放題! わたし毎日が楽しいです」
「そ……そう」
もともとミネーレはフレンの叔母であるパニアグア侯爵家で働いており、夫人付きの侍女をしていた。フレンが婚約者付きの侍女を探していることを知った夫人が気を利かせてミネーレをオルフェリアの元に紹介してくれた。
羽振りのいいパニアグア侯爵家に仕えるミネーレはミュシャレンの流行やファッションセンスもよかった。自身がおしゃれ好きを公言するだけあってミネーレの選ぶ品物はどれもオルフェリアにぴたりと合っていた。
ミネーレは可愛い女の子の着せ替えをすることも大好きらしく、先日連れて行かれた仕立屋では十数着ものドレスを試着させられて辟易した。
新しいドレスに胸躍らせたのもつかの間、終わりのない試着会に突入して、ものには限度があるということを学んだ。
「来週からはフラデニアですもんね。わたしあちらでもお嬢様を仕立屋にお連れするのが楽しみで楽しみで。行きたいお店はいくつかあるので案内しますね。なんといっても西大陸の流行発信地ルーヴェですから」
ルーヴェはフラデニアの王都の名前だ。
フラデニア人である、パニアグア侯爵夫人の里帰りにも何回か同行しているミネーレはルーヴェの事情にも精通している。
また着せ替えか、とオルフェリアはミネーレの言葉に身構える。
「あら、そろそろフレン様のやってくる時間ですね」
「そうね」
遅れるともれなく小言がついてくる。オルフェリアは応接間へと移動した。
応接間にはヴィルディーが待っていた。彼女も今日の演奏会へは夫と一緒に行くことになっている。叔父夫婦とオルフェリアとフレンの四人一緒にで、だ。
「あら、オルフェリアとてもきれいね」
「ありがとう叔母様」
「ファレンストさんももうすぐ到着すると思うわ。あの人はまだちょっと支度中なの」
ヴィルディーはそう言って上を向いた。なるほど、叔父はまだ上の階で支度中ということか。
ヴィルディーの結婚相手インファンテ卿は子爵家の次男だ。後継ぎではないため、実家からの年金と投資の利息で生計を立てている。現在はいくつかの名誉職にもついている。投資家というだけあってフレンと打ち解けるのも早かった。ファレンスト家は優れた投資先を見つけ出すのが上手だそうで、もしかしたらオルフェリアとの婚約を一番に喜んでいるのは叔父かもしれない。




