二章 メンブラート家の子供たち3
◇◇◇
フレンと双子姉妹らがヴェルニ館の食堂へと戻ってくると、そこには先客がいた。
オルフェリアである。
フレンは無意識に眉をひそめた。
オルフェリアの左隣に見知らぬ男が座っていたからだ。右隣りには不機嫌さを隠しもしないリュオンが頬杖をついて座っている。
オルフェリアの後ろにはミネーレが迫力の笑顔を張り付かせたまま控えている。
「オルフェリア、おはよう」
フレンはつとめて明るく声を出した。
「オルフィー、おっはよう! あれ、先生もいる。毎日ご苦労だね。今日は大晦日だっていうのに」
後ろから現れたリシィルがそれぞれに挨拶をした。
「先生?」
フレンはリシィルから、彼がフレイツとレインの家庭教師をしていることを聞いた。
「フレン」
オルフェリアはほっとしたような表情を浮かべた。
フレンを目にして、安堵した顔をしたのを見れば、フレンはなんとなく嬉しくなった。
けれど、腑に落ちないこともある。
どうして弟妹の家庭教師とオルフェリアが仲良く談笑をしているのか。
あくまでフレンの視点であるが。
「おおおっ。あなたが噂の婚約者さんですか。お噂はかねがね」
ダヴィルドが大げさな声を出した。
「筒抜けなのね」
オルフェリアが苦虫を噛んだような顔をした。
「そりゃあもう。ミュシャレンに行った伯爵家の三番目のお嬢様が電撃婚約をした、って街では持ちきりですよ。しかも相手はあの、ファレンスト商会の御曹司! 実は僕、元はフラデニア出身でして。ファレンスト商会といえば鳴く子も黙るフラデニア随一の大商会ですからね」
ダヴィルドはまるで自分の手柄を披露するように、得々と説明をした。
ファレンスト商会を褒められればフレンは悪い気はしない。
「へえ、きみフラデニア人なの」
「ええ。ルーヴェ大学で歴史学を専攻しています。学生ではなく、教授の助手ですね。こちらへは研究の一環として、夏の前くらいから滞在しています」
それからダヴィルドはどのような研究をしているのか説明しようとしたが、絶妙の間合いでリシィルが口を挟んだ。
「先生。それはまた今度ね。そろそろフレイツに授業する時間じゃない? 今日はレインのほうはいいの?」
「レインお嬢さんの授業はお休みですよ。一緒に授業を受けているポリーナ嬢がお休みなので」
ダヴィルドはカップに入ったコーヒーを飲みほしてから席を立った。
「それでは、お嬢さんご清聴ありがとうございました」
ダヴィルドはオルフェリアの手を両手で握った。そのままぶんぶんと大きく上下させて握手する。
「え、ええ……」
オルフェリアは目を白黒とさせていた。
フレンが同じようなことをしたら絶対にすぐに怒るのに、不公平ではないか。
「今度はぜひ、ゆっくりお話ししましょう。実はまだタペストリーの講義がまだなんですよ。鎧だけでもこれだけ奥が深いんです。タペストリーについても……」
「失礼。きみはいつまで私の婚約者の手を握っているつもりなのかな」
フレンは我慢できなくなって、オルフェリアの手を握るダヴィルドのそれに自身の手を添えた。
「ああっと。ごめんなさい。つい」
ダヴィルドはふにゃりと笑って頭をかいた。
邪気のない、人のよさそうな笑顔である。この男は何も考えていないのか、いや、そんなことあるものか。こういう手合いが一番たちが悪いのだ。
フレンはじろりとダヴィルドのことを睨んだ。
ダヴィルドはフレンの視線から目を逸らしつつ、そそくさと食堂から出て行ってしまった。
「許してあげてよ、先生ったら女性に免疫がなさすぎるあまりに礼儀ってものをあまり知らないんだ」
リシィルが苦笑して言い添えた。
「礼儀がなっていないにもほどがあるだろう! よくあれをカリストが許したな」
フレンが口を開くより先にリュオンが厳しい声を出した。
「ま、あれでも頭のいい先生みたいだし。先生フラデニア人だからアルンレイヒ人より公平な歴史学を教えるってカリスト気に入っているんだ。あと彼ロルテーム語とリューベルン語もペラペラらしくて」
「そうかよ……」
リュオンはまだ面白くなさそうな顔をしている。
フレンはオルフェリアの隣に着席した。
小間使いがやってきて、ダヴィルドの飲みほしたカップを片して、フレンのための朝食の準備を整えていく。
「きみも、もう少し自覚してくれないと」
少しだけ険のある言い方になってしまったかもしれない。
フレンはオルフェリアの手に、今度は自身のそれを重ねた。唯一の救いはオルフェリアが手袋をつけたままだったということか。素肌に触れていたら、と思うとフレンは内心怒りがふつふつと湧き出てくるのを感じた。
「あれは……不可抗力だわ。あの人、歴史の話になると人の話まるで聞かないんだもの」
「しかし、ね。私の気持ちも考えてほしい。婚約者の手を取られて黙っていられる男なんていないよ」
フレンは演技も交えて熱っぽい視線をオルフェリアに送った。
ついでに彼女の頭をなでてみる。
「おい! 姉上に気安く触るなよ!」
その言葉にオルフェリアはこの場の状況を再確認したらしい。顔を赤くして慌てて席を立って食堂から消えてしまった。
演技もへったくれもないオルフェリアなのだった。
◇◇◇
広大な敷地を誇るヴェルニ館の森のなかにオルフェリアはいた。
一族の墓地がある場所だ。鍵は借りていない。鉄製の柵で囲まれた墓地を外側から眺めている。
つい先ほどまで、カリストと大叔母に捕まっていた。
彼にヴェルニ館の離れに滞在してる大叔母のもとに連れていかれて、カリストと大叔母二人がかりで小言を頂戴した。
中身は大方予想がついていた通り、勝手にフレンと(偽装)婚約したオルフェリアの軽率な行動に対する苦言だった。
大伯母は生粋の貴族だ。考え方も前代的で、以前王太子妃の短髪をきっぱりと否定していたくらいだ。由緒正しい伯爵家に生まれたからには、ふさわしい品格と教養を身につけ、ふさわしい相手に嫁ぎ子を成すべし、が彼女の考え方だ。
残念ながらこの教えを実践している娘は今現在直系筋にはいない。
『まったく、エルが家臣筋の農場一家に嫁いだのだけでもとんでもないことなのに、そのうえあなたまで三代はさかのぼれないような商売人と勝手に婚約をするなんて。ああいやだ。オルフェリア、あなたメンブラート伯爵家の面子をつぶす気かしら。潰すといえばバステライドにも困ったものだわよ。あの子の教育がなっていないから、リルもエルも、おまえも、まったく……』
というような小言が延々と続いた。
『まったく、リシィル様もエシィル様も長女次女だというのに、まるで自覚がなく、おまけに三女のオルフェリア様までもがこうも勝手な行動ばかりされますと、レインお嬢様への示しもつきません。伯爵夫人にも困ったものです』
途中絶妙な間合いでカリストも口を挟できた。
年寄り同士こういうところの息はぴったりと合っている。嫌なら毎年律儀に帰省などしなければいいのに、とオルフェリアは思うのだが、リシィル情報によると大叔母は偏屈が過ぎて長男夫婦と折り合いが悪いらしい。すでに爵位を継いだ長男夫婦と言い合いが絶えないから何かにつけてメンブラート伯爵家に滞在する。
実家の権威を自分の孫に見せつけたいから、次男や娘の孫を連れてくる。
『わたしとフレンは愛し合っているの。お父様もお母様と愛し合っていたから幸せそうだったわ。だからエル姉さまもセリシオと結婚したのよ』
と、反論してみたのがよくなかった。
『所詮、バステライドは後継ぎ教育もされていない次男ですからね。お気楽な次男が伯爵を継いだから、こんなことになったのですよ』と大叔母が言えば、『エシィル様とリシィル様があんな調子なのでオルフェリア様にはしかるべき良縁をと、いくつかエルシダ様と一緒にお相手を見繕っていたところでした。本来なら修道院で過ごすはずだったお嬢様が実家で教育を受けることができたのも、ひとえに良い縁談をまとめてもらうためであり、決して商売人の男と結ばれるためではございません』
代々の慣習を嫌って子供たち全員を手元で育てると宣言したのは両親だ。むしろカリストは反対していた。
オルフェリアは顔には出さなかったけれど、内心顔を引きつらせた。フレンと偽装婚約していなければ、勝手に縁談を進められるところだったのだ。
『そもそも、あなた様はこの、メンブラート家に恥じぬ生き方をしなければなりません。それが、お亡くなりになられた弟君に対する誠意というものではないのですか』
『そうですよ。カリストの言うとおり。おまえは弟の分までこの家のために生きなきゃなりませんよ。それが……まったく……』
オルフェリアはたっぷり二時間以上も彼らの話に付き合った。
解放されて、伯爵家敷地奥の一族の墓地へとやってきたところだった。
「ただいま……」
オルフェリアは小さく呟いた。
「そしてごめんなさい。わがままなお姉さんで。実家に帰りたくない、なんて言って。逃げるようにミュシャレンへ行って……」
フレンがヴェルニ館への入場を止められた時、オルフェリアは安堵してしまったから。
これで、実家へ帰らなくて済む、と。
オルフェリアはじっと墓石をながめた。
ここにはオルフェリアと一緒に生まれてくるはずだった弟が眠っている。
カリティーファが二度目に身ごもったときも双子だった。代々、双子が生まれやすい家系のようで、カリティーファの親戚筋にも双子が幾人かいるくらいだ。
しかし、初産と違ったのは、双子のうちの一人が死産だったということだ。
オルフェリアの後に生まれた弟は息をしていなかった。蘇生を試みた医師たちの努力もむなしく、小さな弟は産声をあげることはなかった。
跡取りの死を前に、当時存命だった祖父母は嘆き悲しんだ。
そして。
女であるオルフェリアが生きているという現実を、祖母が拒んだ。
みんな言う。
おまえは死んでしまった弟の分まで立派に生きなければならない。
弟から、本来なら嫡男となるはずだった彼から命を奪って生まれてきた。
亡くなったオルディーンに恥じない生き方をしろ。
みんなオルフェリアのことを監視しているようだった。小さなころからずっと、ずっと見られてきた。オルフェリアが道を外さないか、自分たちの思い描くような道を歩んでいくか。
祖母は死ぬまでオルフェリアのことを抱きしめることはなかった。
狭い世界で、息をするのが苦しかった。
いつも監視をされているようで、カリストや使用人たちがオルフェリアのことを見定めているような錯覚に陥った。
姉たちや両親だけがオルフェリアの味方だった。
伯爵家の次男だった父バステライドは小さなころから親戚筋の家に預けられて育っていた。年の近い男兄弟が生まれると、代々よそに出される。無駄な相続争いに発展しないように。長男に万が一のことがあった場合のために代わりになる男兄弟はほしいが、多くてもいけない。
娘だって同じだ。育てるにも嫁に出すにも金がかかるから、必要以上に生まれれば修道院や分家筋に送られることになる。代々の土地や財産を分散させないための工夫だった。
長男が不慮の事故で亡くなり、バステライドは十八のころ急遽メンブラート家の後継ぎとして本家へ呼び戻された。以来、彼もこの家の中で戦ってきた。
父は生まれたこどもたち全員を手元で育てることを宣言した。もちろんカリストら古参の人間は大反対をした。
彼らは変わることを否とする。
代々伯爵家に仕えてきた使用人の家系の人間たちだ。
狭い箱庭の世界。
いつからか、父は悲しそうにつぶやいた。オルフェリアは、箱庭という言葉がやけに印象的に頭の中に残った。
両親の庇護の元、姉弟たちは自由に育った。自由すぎるくらいだが、バステライドはこどもたちそれぞれの個性に目を細めていた。過ぎるいたずらにも寛容で、リシィルとは一緒に罠を作ることもあったくらいだ。
きっと、彼なりの反抗だったのだと思う。
けれど、父は一人で出奔してしまった。
オルフェリアは一人取り残されて、狭い世界で次第に息をするのが辛くなっていった。
姉たちのように自由になんてふるまえない。
結局オルフェリアも逃げるようにミュシャレンへ一人引っ越した。カリストらに知られると反対されることくらい分かっていたので、ぎりぎりまで母とリシィルにしか言わなかった。
逃げても、結局オルフェリアはメンブラート伯爵という名前からは逃げられない。
この地にやってくると、生きている罪悪感でいっぱいになる。
オルフェリアはしばしの間瞑目して、祈りをささげた。




