エピローグ
忙しかった日々も終わり、新しい年まで残すところあと五日という日。
オルフェリアはアルムデイ宮殿の一室に通された。傍らには正装したフレンが付き添っている。
オルフェリア自身も濃い紫色のタフタのドレスに身を包まれ、胸元には大粒のダイヤモンドの首飾りが輝いている。耳飾りもおそろいの物だ。ドレスのデザインは簡素だが、胸元のレースと光沢のある生地が降り混ざり、オルフェリアの持つ十代特有の若々しさと絶妙に合っている。大粒のダイヤモンドの周りには小粒のダイヤモンドで飾られ、ずっしりと重い。この重さは伯爵家の歴史の重さでもある。
現在のローダ王朝が起こった際、メンブラート家とローダ家は争いこそしなかったものの微妙な力関係にあった。和平の意味も込めてローダ家から一人の姫が降嫁した。当時の姫が降嫁の際身につけていた首飾りと耳飾りが現在オルフェリアがまとっているものである。普段は実家の宝物庫の奥底に眠っている歴史的逸品を持ちだしてきたのは、オルフェリアの母カリティーファだった。
王家から本当に届いたオルフェリア指名の晩餐会の招待状を読んで泡を吹いた母カリティーファがなぜだか首飾りと耳飾りを持参してミュシャレンへとやって来た。
「な、なんだか大変なことになってごめんね。ととととりあえず、これ持ってきたから。箔つけて頑張って」と言われたが、決して自分が代わりに参加しますとは言わないあたり母の上がり症は筋金入りだった。
晩餐会まではまだ余裕のある時間だ。
招待状はメンブラート家本宅とオルフェリアが現在ミュシャレンで厄介になっている叔母夫婦の邸宅と、両方に届けられた。オルフェリア宛てのそれにはレカルディーナ直筆の手紙も添えられていて、「せっかくだから晩餐会の前に少しコーヒーでも飲みましょう」と書かれてあった。
「緊張している?」
「今は平気」
フレンの問いにオルフェリアは簡潔に答えた。
「フレンは緊張している?」
オルフェリアは不思議に思って聞き返した。オルフェリアよりも十以上も年上で、いつも憎たらしいほどに余裕綽綽な彼でも緊張することはあるらしい。
「まあ、ね。だって王家の晩餐会だよ? 私には一生縁のないことだって思っていたからね」
フレンは笑顔を作ったが、いつものものよりも固いものだった。
オルフェリアだってまさか十六の年でこんなものに参加するなんて思ってもみなかった。それもこれも冒険の旅に出かけて絶賛行方不明中の父のせい。今頃どこでなにをしていることか。そもそも現在フレンと偽装婚約しているのだって元をたどれば父が出奔して伯爵家が立ちゆかなくなってきたせいだ。
「大丈夫よ、オートリエ様からこの日のために指南を受けてきたんだもの」
晩餐会への出席が決まってから、オートリエは何かと世話を焼いてくれた。晩餐会特有の食事作法や礼儀、しきたりを教えてくれたし、教師を呼んでくれてパニアグア侯爵家で食事マナーの練習を繰り返した。
とくにフレンはフラデニアの食事作法が身についているため矯正するのが大変そうだった。同じ文化圏の国同士とはいっても肉料理の食べ方一つ、細かいところでナイフとフォークの使い方が違うことがあるのだ。
「よりによって今年から叔母上が出席しないなんてね」
「そろそろ長男夫婦に任せようと思って、って。思い切り喜んでいたわね。年末の苦痛から解放されたーって」
「そうだね」
オルフェリアはふと目線を下にやった。膝の上に乗せた左手の薬指には婚約指輪が光っている。
色々と忙しすぎて、ミネーレの指摘で婚約指輪を貰っていないことに気がついて大慌てで用意してもらったものだ。本当につい先日届いたばかりの物で、いままで何もなかった指に当たり前のように嵌まっているそれを視界に入れれば、胸のあたりが少しだけむずがゆくなる。
「でも、わたしは平気よ。エルメンヒルデ様からもお手紙もらったもの」
「へえ、どんな?」
「最後は伯爵家の人間として堂々とふるまえば大丈夫だって。オートリエ様もおっしゃっていたものね。堂々としていればいいって」
「きみは強いね」
オルフェリアの言葉にフレンは相好を崩した。
フレンのタイにはオルフェリアの婚約指輪とおそろいの意匠で象ったピンが刺してある。彼のピンもオルフェリアの指輪と同じ、ダイヤモンドを取り囲むように紫水晶がちりばめられたもの。
どうして彼がオルフェリアとおそろいのタイピンを作る気になったのかわからない。尋ねてもきっと演出の一環と一蹴されるに決まっている。それなのに、なぜだか胸の奥がざわざわとする。
ざわざわするといえば。
結局フレンはレカルディーナに気持ちを伝えないつもりだろうか。
オルフェリアは口をぎゅっと結んでフレンを見上げた。
なんだか聞くにきけなくなってしまって、ずっとこの調子だった。彼の少し憂いを帯びた瞳を見るのが嫌だったから。
「どうしたの」
「フレン……あなた……」
でも。聞くなら今しかないのかもしれない。
なのに口が重い。言葉を出そうとするのに何度も逡巡していると、いまさらながらに緊張しているとでも思われたのか、膝の上に置いているオルフェリアの左手にフレンが自身のそれを重ねてきた。オルフェリアの身体がぎゅっと縮こまった。
「別に、二人きりなんだから演技なんてしなくてもいいのよ」
口から出てきた言葉は自分でも自覚があり過ぎるくらい可愛くない台詞だった。
その台詞を耳にしたフレンは少しだけさびしそうな微苦笑を浮かべた。それを目にしてオルフェリアは自分から言った言葉なのに、胸の奥がずきりと痛んだ。
◇◇◇
「二人とも久しぶりね。わあ、オルフェリアとってもきれいよ。ドレス似合っているわ。わたしだけこんな恰好でごめんさない。着替え前なの」
明るい声で入ってきたレカルディーナはオルフェリアの正装姿をほめた後、すこしだけ恥ずかしそうに肩をすくめた。晩餐会用の正装へはこのあと着替えるのだろう。レカルディーナは襟の詰まった昼用の室内ドレス姿だ。
「あ、ありがとうございます。ほんち、本日はお招きいただきありがとうございます」
開口一番にドレス姿をほめられたことに感激したのか、オルフェリアは噛んだ。顔が真っ赤になっている。おそらく心中穴の中にもぐりこみたいとか思っているに違いない。
女官らは飲み物とお菓子を運び終えるとあらかじめ指示を受けていたのだろう、退出をした。現在室内にいるのはフレンとオルフェリアとレカルディーナの三人きりだった。
フレンは王太子の人となりを少しだけ知っている。
あの、妻溺愛で狭量な男がオルフェリアが同席しているとはいえ、フレンもいる場によくレカルディーナを一人きりで寄こしたな、と感心した。ちなみに以前エルメンヒルデが主催した夜会にレカルディーナがおしのびで訪れた時、実は王太子もいたのだ。それも近衛騎士の服装を着て、である。エルメンヒルデが怖い顔をして隣室へ押し出してしまっていたため、遅れてやってきたオルフェリアは気付いていなかったが。
「ベルナルド様にはね、子供たちと遊んでもらっているの。この間オルフェリアのことを怖がらせちゃったから、厳重に言い含めてきたのよ」
フレンの視線で彼女はこちらの意図を察したらしい。そんな風に説明をしてきた。
「そんなこと! わたし、次は絶対に戦って勝ってみせます」
「ふふふ、頼もしいわね」
「いや、そこは戦うって。変な風に意味取られたらどうするんだ」
なんの決意表明かわかららないがオルフェリアの意味不明な言葉にフレンは突っ込みを入れた。憧れの王太子妃を前にして早くも彼女は自我が崩れ始めている。
どうやら晩餐会の緊張とレカルディーナとの対談の二段攻撃に本人の自覚以上に色々ときているらしい。
「そうそう、このコーヒーわたしのお薦めなのよ」
レカルディーナは自身の前に置かれたグラスを持ち上げた。
牛乳と砂糖を入れたコーヒーの上にはたっぷりと泡だてられたクリームが乗っている。その上にかけられているのはココアだ。
「おいしいです」
「でしょう。やっぱり甘いものっていいわよね」
言われるままにオルフェリアはクリームがたっぷりと乗ったコーヒーを口に運んだ。
女性二人が秘密事を語り合うようにささやかに笑い合った。
フレンの前には一般的なコーヒーが置かれている。フレンとしてはこちらのほうがありがたい。
少ししたらオルフェリアの緊張も解けてきたようで、場の空気は春の日差しのように暖かい空気に包まれた。話題は主にここ一月ほどの近況報告である。
「舞台とてもよかったわ。本当はあの場で直接感想を言いたかったんだけど色々と忙しくって」
「こちらこそ。レカルディーナ様に足を運んでいただけて嬉しかったです」
オルフェリアは恐縮しきりな様子でぶんぶんと両手を振った。
「オルフェリアの歌もよかったわ。ここだけの話ね、わたしちょうどあなたくらいの年齢のころね、女優になりたかったのよ」
「えっ!」
レカルディーナはとっておきの秘密ね、と言って片目を瞑った。いたずらっ子が種明かしをするような、隠し事をばらすような笑みを浮かべている。
「そうだな。おまえ会うたびに女優になる! って喚いていたよな」
「もう、フレン兄様ったら。でもフラデニア時代のことを知っている人ってみんな分かっていることなのよね。オルフェリアが羨ましいわ。わたしも一度でいいから舞台に……ってこれ絶対にベルナルド様には内緒よ。あの人拗ねちゃうから」
「ええと……」
レカルディーナが話す王太子像にオルフェリアが困惑している。
「拗ねるって……、レカルが話すと天下の王太子殿下も同じ人間に思えてくるよ」
フレンは笑った。
レカルディーナはこの三年、とても幸せそうだ。今だって、本気で舞台に立ちたいと望んでいるわけではない。彼女は自分の意思で王太子の隣に立つことを選んだ。
でなければ今こうして周りを明るく照らすような笑みを浮かべてはいないだろう。
「あら、彼だって普通の人よ。わたしベルナルド様が大好きよ。あまり感情が表に出なくて、ちょっと誤解されやすいけれど。とても繊細で、優しい人」
そう言って頬を染めるレカルディーナには悪いけれど、フレンにはとてもそうには思えない。どのあたりが繊細なのか、こればかりは一生ものの謎だと思う。
無自覚にのろけをまき散らすレカルディーナの言葉を受けてオルフェリアはフレンの方をうかがってきた。その瞳は複雑そうに揺らめいていた。
彼女はここ一カ月の間ずっとフレンに何かを言いたそうだった。何か、ではない。ちゃんとフレンは気付いている。そして、それを片付けないと前に進めないことも。
「レカル、いま幸せなんだな」
「ええ、そうよ。……どうしたの急に?」
レカルディーナは唐突なフレンの言葉を受けて首をかしげた。
「いや。大事な従妹が幸せそうで何よりって話。俺、おまえのことが好きだったんだ。もうずいぶんと昔の話だけど」
言葉は自分が思っていた以上にすんなりと口を滑って出てきた。
もっと言いよどむと思っていた。三年前に言えなかった言葉だった。言えなかった、ではない。言うのを避けた、逃げ出した言葉。
レカルディーナはフレンの言葉を受けて目を丸くした。
少しの間、その言葉の意味を吟味していたのだろう。じっとこちらの意図を探るように、フレンの瞳の奥にある感情を読み取ろうと見つめてきた。フレンはその瞳から逃げずに、家族が親愛の情を見せるような笑みを返した。
「ありがとう、フレン兄様。わたしって幸せ者ね。大事な従兄にそんなふうに言ってもらえて。でも、婚約者の前で仮にも従妹とはいえ、そんなこと言ったら駄目よ。誤解されちゃうわ」
レカルディーナにはおそらく伝わったのだろう。けれど、彼女はゆるりと唇を持ち上げ、従妹として言葉を返した。後半はご丁寧に少し厳しい口調にして。
「大丈夫。オルフェリアはこんなことくらいじゃ妬かないよ」
そう言ってフレンがオルフェリアの手を握ればオルフェリアは慌てたように頭を上下に動かした。フレンの突然の告白劇に一番驚いていたのはオルフェリアだったのだ。
「まあ。フレン兄様からのろけを聞くことになろうとはね」
「ご所望とあればこれからもっと聞かせてあげるよ」
最後はいつもの軽口の応酬である。
傍らのオルフェリアはまだ呆けたように二人のやり取りを眺めている。
フレン自身不思議だった。
本当は言うつもりはなかったのに、最後の最後でレカルディーナに伝えようと思ったのはオルフェリアがいたからだった。
彼女はフレンのために一生懸命だった。フレンがオルフェリアのことを信じ切れなかったときだって、彼女はフレンを許した。心の中では失望していたに違いないのに。フレンの謝罪を受け入れてくれた。
最後はフレンのむちゃぶりにつきあって舞台まで上がってくれた。準備期間が無い中で。彼女の気持ちに向き合いたい、ちゃんと信頼関係を築きたい。
そう思ったらやることは決まっていた。
もう三年も経っているのだ。思い出話として、笑い話にしたっていい頃合いだろう。実際にレカルディーナは受け流してくれた。時間が、あの時言えなかった想いを別のものに昇華してくれた。
オルフェリアはなんて言うだろうか。
きっと彼女だったからフレンは色々と前向きになることができた。過去にきちんと別れを告げることができて、本当の意味で吹っ切れることができたと思う。
今隣にオルフェリアがいてくれることがフレンには嬉しかった。
ひとしきり三人きりで話しをして、レカルディーナは晩餐会の準備のために退出した。
「よかったら遊戯室や音楽室にも顔を出してね。撞球台もあるし、今日は演奏家も来ているのよ」
そんな風に言われたがさすがに顔を出す気にはなれなかった。古だぬき、もとい老獪な貴族連中の懐に好き好んで飛び込むよりも、今はオルフェリアと二人きりでいたかった。
レカルディーナが退出して、少しした後。オルフェリアがぽつりと漏らした。
「びっくりしたわ。まさかフレンが気持ち伝えるなんて」
「気持ちっていうか、過去の思い出話だよ。何度も言ったけど、俺の気持ちは決着がついているって。でも、まあ、すっきりしたよ。オルフェリアが後押ししてくれたおかげかな。ありがとう」
素直な気持ちを伝えるとオルフェリアは今日一番の驚き顔をした。
「ありがとうって、フレンが言うなんて! やめて、雪が降るわ!」
そしてそんな可愛くないことを言う。
「言ってくれるね」
相変わらず憎まれ口ばかり言う偽装婚約者だけれど、フレンは知らずに口の端を持ち上げた。彼女のこういうところが嫌いではない。
二年ぶりに王家の晩餐会に姿を現したメンブラート伯爵家の人間は当主ではなかったものの、その場に居合わせた貴族らを驚かせた。噂通りフラデニアの実業家の男性を婚約者として同伴し、国王夫妻と王太子夫妻の前で堂々とした立ち居振る舞いを披露した。
その胸元には大粒のダイヤモンドの首飾り。
ダイヤモンドの宝石言葉は永遠の絆。その昔同じ意味を込められて王家の姫とともに贈られた至宝だ。王家への変わらずの親愛を示した伯爵令嬢は、少女らしい初々しさと、身にまとう伝統とで、女神のようだったとはとある貴族の弁である。




