五章 唄う伯爵令嬢7
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それからの二日間は怒涛の展開だった。
オルフェリアはまず発声練習から始めて歌の練習に入った。セリータ役は舞台演出家指導の元いくつか修正点が入り、極力歌のみで構成されることになった。
オルフェリア出演については緘口令が敷かれ、そして。
◇
「お嬢様! とってもきれいです。これならお嬢様が主役でもいいくらいの出来栄えですよ」
ミレーネが自身の頬に手を添えてうっとり頬を染めた。
自分の作品に酔っているのだ。
「そこは主役になったらダメなところだから」
ミレーネと比べるとオルフェリアの表情は硬いままだった。
当然だ。このあと本番なのだから。
ミレーネがミュシャレン中を駆け巡り探してきたのは濃い緑色の簡素なドレスだった。飾りといえば胸元のクルミボタンとスカートの下の方に施された花の刺繍くらい。他にも同じくいくらか色を抑えたドレスを抱えて戻ってきて、試着をし他の登場人物との色合いをみて、この衣装に決まった。
「わたしのお嬢様はとっても可愛らしいですから」
いつのまにかミレーネのものになったらしい。どうひいき目に見ても衣装はユーディッテの方がきらきらしている。ミレーネの言葉はあくまで彼女の主観で、それでも力強く言われるとオルフェリアも嬉しい。力づけられているのがわかるから、少しだけ顔に赤みが戻った。
「準備できたかしら、オルフェリア様」
姫君役の姿をしたユーディッテが現れた。金色の髪に大きな花を飾っている。舞台用の化粧を施した彼女はいつもとは別人のようだった。
「はい」
「あら、可愛らしいわ。大丈夫よ、わたしたちがついているから」
にっこり笑みを浮かべたユーディッテは自信たっぷりな表情をしている。オルフェリアという未知な異分子が紛れ込んでいるのに、その表情に憂いや迷いはまるでなかった。この舞台が成功することを信じている。
朝から食べ物なんて喉を通らなくて、この二日間オルフェリアは自分が本当に生きているのかも分からないくらい何か別のものに身体を乗っ取られたような感覚の上にいた。
「はい」
「あらら、緊張している?」
ユーディッテはオルフェリアの顔をまじまじと覗き込んだ。
ユーディッテは本番直前のぴんと張り詰めた糸の上にいるような空気が大好きだけれど、オルフェリアにとっては初めての経験だ。
会場には招待客がぞくぞくと姿をみせていた。
普段静かな公園は今日に限っていえば臨時の社交場と化している。
ファレンスト商会があらかじめ精鋭した招待客が銘々着飾り座席を埋めていく。
オルフェリアは舞台裏の控え小屋にいるから、その様子までは分からない。今現在どのくらいの人間が席を埋めているのかも、どんな顔ぶれなのかも知らない。けれど濃い人間の気配が舞台裏まで届いてくるような気がする。
大丈夫。フレンができるって言ったから。突貫工事だけど、オルフェリアだって二日間必死に練習した。もともと歌詞は頭に入っていた。ずっと練習を見守ってきたのだから。
それでもいざ自分が歌うとなれば、勝手が違って最初の方は音程を外したり歌詞を間違えたりもしたけれど、何度も繰り返していくにつれて昔の勘を取り戻してきた。
毎日毎日習い事ばかりで、本当に役に立つ日が来るのか疑問だったけれど、家令に感謝することにする。人生なにがどう繋がるか分からない。
オルフェリアは深呼吸をした。
ここまできたのだからあとはままだ。
「やあ、オルフェリア。緊張している?」
いつの間にかユーディッテの代わりにフレンが控室へとやってきたようだった。
「それは、もちろん。しないほうがおかしいわ」
こんなところで虚勢を張っても仕方ないのでオルフェリアは素直に答えた。
「そろそろ最終打ち合わせの時間だよ」
今朝も早くから舞台の上で直前練習をした。最後の打ち合わせでは、立ち位置や歌の出だしの確認など細かい部分を確認し、全員で円陣を組むと聞いている。
「ええ」
オルフェリアはフレンに導かれるように小屋から外へ出た。きっと彼は気付いたかもしれない。オルフェリアの手が小刻みに震えているのを。
「ああそうだ。これお守り代わりにもっているといいよ」
フレンは唐突に自身の袖口からカフスボタンを取り外してオルフェリアの掌に置いた。
緑色のきれいなカフスボタンだ。フレンの瞳と同じ色の大きな緑玉がついた華美ではないが品があった。
「お守り?」
「知ってる? 緑玉の石言葉は幸運っていう意味があるんだ。他にも色々と意味はあるんだけど、私の瞳と同じこの石は昔からのお気に入りでね。私の幸運をきみに貸してあげるよ。だから大丈夫。思い切り楽しんでおいで」
力強い言葉に押し出されるようにしてオルフェリアは頷いて、そのまま他の出演者たちの元へと走って行った。
「オルフェリア様、これから最終打ち合わせを始めるよ」
「血色戻ってきたようだね」
リエラらは優しくオルフェリアのことを迎え入れてくれた。
オルフェリアはフレンから渡されたカフスボタンをそっとドレス内側に滑り込ませた。
◇◇◇
舞台のはじまりはオルフェリアの歌から始まる。
オルフェリアは舞台の上で歌を紡ぐ。
楽団の奏でる繊細な旋律の上をオルフェリアの歌声が滑るように伸びやかに響いていく。
始まりの歌。
不思議だった。怖くて震えていた心が、いまは嘘のよう。客席には大勢の人があふれているのに、オルフェリアの心は凪いでいた。
オルフェリア以外の時が止まっているように、彼女の歌声だけが世界に音を与えているかのように四方へとしみわたっていく。
始まりは幼い日々から。姫君と二人の騎士の出会いと成長、友情を静かに語り、そして。
年頃へと成長した三人の人間関係に変化が訪れる。
(不思議……。まるでわたしじゃないよう……)
心と体が話されたような不思議な感覚だった。オルフェリアの口は確かに歌を紡いでいるのに、どこか空の高いところから俯瞰して自分を眺めているような、どこか夢と現のはざまを泳いでいるような錯覚に陥る。
演目は滞りなく進んでいく。
姫君と騎士たちの淡い恋心。姫君は二人の魅力的な青年の間で揺れ動く。
セリータはアゼルを想い歌う。
オルフェリアはフレンのことを頭に浮かべた。
あなたの瞳はとても切なげだった。あなたは今幸せなの?
レカルディーナ様のことは忘れたって、それはほんとう?
アゼルに思慕するセリータのように、オルフェリアはまるでフレンに恋をしているかのように彼を想って感情を歌に乗せる。
普段は意地悪で大人ぶっていて、いちいち気障なくせに。肝心なところで臆病なオルフェリアの契約婚約者。
彼が渡してくれたカフスボタンが熱い。彼の想いがボタンに宿っているかのように、ふわりとオルフェリアを包み込む。その熱に浮かされるようにオルフェリアは声を、想いを、ありったけの想いをこめて歌に乗せる。
自分でも最後はよくわからなかった。
ただただ、がむしゃらだった。
気がつけばオルフェリアはユーディッテに抱きしめられていた。そのユーディッテに腕をまわしているのはリエラとウルリーケだ。
割れんばかりの歓声がどこか遠くの出来事のようにオルフェリアの耳に届く。
舞台裏である。本番が終了し、演者一同が舞台袖に掃けたのだ。
「オルフェリア様! おつかれさま。さあ、アンコールよ。最後はみんなで歌いましょう」
ユーディッテが歓声に負けないくらいの大きな声を出す。
「よくやったねオルフェリア様。正直あれだけの声を出すなんてびっくりしたよ」
まだ夢の中をただよっているような感覚のオルフェリアはユーディッテに手をひかれて舞台上へと連れ出された。
改めて舞台へと戻ってきて、そして沢山の観客たちを目の当たりにして。
初めてオルフェリアは舞台に立ったということを実感した。実感したら急に足が震えてきた。




