三章 仮婚約者と王太子妃5
「きみのことだよ。黒い髪に黄色いバラを挿しているお嬢さん」
もう一度声がした。
黒髪に黄色いバラ……。「今日のお嬢様は薔薇の妖精さんです」というミネーレの声が蘇った。ちなみにドレスの胸元にも薔薇の花をつけている。
「もしかしてわたしでしょうか」
オルフェリアは恐る恐る振り返った。
「そうだよ。きみしかいないだろう。どうして一度目で振り向かなかったんだ」
今度は開口一番に文句を言われてオルフェリアは面食らった。
「美しいお嬢さんなんて、そんな言葉で振り返ったらわたし自分が美人だって思い込んでいるナルシストみたいじゃないですか」
淡々としたオルフェリアの返事に男性はぐっと押し黙った。
初老の男性が目の前にたたずんでいた。オルフェリアは首をひねった。
こんな知り合いいただろうか。年を感じさせない男性だった。腰は曲がっておらず背筋をぴんと伸ばしている。年を感じさせないのは姿勢だけで、あいにくと頭の方は残念だった。はるか後方部まで髪が後退している。
「これはまた、ずいぶんと威勢のいいお嬢さんを相手に選んだようだな、ディートフレンは」
「フレンのお知り合いですか?」
「ディートマル・ファレンスト。わたしの兄が彼の祖父に当たるんだ。彼から見たら大叔父にあたる」
「はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。オルフェリア・レイマ・メンブラートと申します。父は伯爵です。フレンの大叔父様とはつゆ知らず失礼しましたわ」
「ああ調べさせてもらったよ。ご当主は現在行方不明なんだって。なんでも冒険家になりたいとか夢見がちなことを言って借金だけ残して出奔したそうじゃないか」
ディートマルは顔に笑みを浮かべた。くつくつと喉を鳴らしてさも可笑しそうに口元を歪めている。
オルフェリアは今すぐこの男を視界から葬り去りたくなった。悪意に満ちた笑みだ。
「それはわざわざご苦労なことです」
オルフェリアはさっさとこの場から退散しようとディートマルの横をすり抜けようとしたが、それは叶わなかった。
彼の横を通り過ぎようとしたとき、無遠慮な彼の手がオルフェリアの二の腕を掴んできたからだった。
「可愛いお嬢さん。もう少し話をしようじゃないか。可愛い又甥が選んだお嬢さんじゃないか。私とも親交を深めたっていいだろう」
この人酔っているのだろうか。けれど酒の匂いはしてこない。
ということはディートマルは悪意を隠すつもりはない、ということだ。
「フレンが待っているわ。お話なら三人でしましょう」
「ふうん。ディートフレンとはてっきり金だけの関係だと思っていたけど。実際のところどうなんだい? あいつを手伝ったら領地の立て直しを手助けするとか言われたんじゃないのか? いくら出すと言ってきた」
「いい加減にしてください。そんなことあるわけないじゃないっ! わたしとフレンはれ、れ、恋愛結婚なのよ!」
ほぼ正確にディートフレンの手の内を読んできた目の前の老人が急に恐ろしくなってきた。オルフェリアはディートマルのつかむ手を振りほどこうと腕を振った。
「恋愛結婚ね。お嬢さん嘘はよくないなあ」
「ちょっと最初から嘘って決めつけるなんてひどいじゃない」
「私の方に付くならやつの出す金の倍を出そうじゃないか。どうせ金銭が絡んだ関係だろう」
おまけに話を聞いてくれない。
しかしここでオルフェリアが失敗すればあとで叱られるのは彼女自身だ。オルフェリアは精いっぱい虚勢を張った。
「あなた言っていることが意味がわからないわ。人の話を聞くことを覚えたほうがいいんじゃなくて」
「なんだと」
オルフェリアの言葉にディートマルは目に見えて顔を赤くした。つるりとした頭の上まで真っ赤になっている。
オルフェリアは内心たじろいだ。なんだってフレンの親族に目をつけられないといけないんだろう。面倒な親戚がいるんだったら最初に忠告しておくべきだ。
なんのための偽装婚約契約書なのか。
「ディートマル大叔父上。人の婚約者になにをしているんです?」
張りのある声があたりに響いた。
「フレン……」
オルフェリアはほっとして口元をほころばせて、はたと気づいて慌てて口元を引き結んだ。そもそもフレンの側の問題だ。登場するのが遅い。
ディートマルはゆっくりと振り返った。
フレンは剣呑な目つきでディートマルをとらえていた。
「なあに。おまえが婚約したって聞いたからどんな娘が相手かと思って挨拶しに来たんだよ。人の孫娘との話を蹴っておいて、こんなアルンレイヒ人なんぞ選びおって」
「それは何年も前に説明したでしょう。お互い縁がなかったと。とにかくずいぶんと前に済んだ話です。オルフェリアに余計なことを吹き込まないでほしい」
「ふんっ。相変わらず可愛くない。一人で大きくなった顔をしよって。おまえさんがミュシャレンで何をするつもりか知らんが、見ものだよ。せいぜい足掻くといい」
大叔父と又甥は随分と長いことにらみ合っていた。
やがてどちらからともなく視線をそらし、ディートマルはその場から姿を消した。
「私は大叔父に育てられた覚えもないんだけどね」
フレンはひとり言のように呟いた。
ディートマルが去るとフレンは足早にオルフェリアに近づいてきた。
「大丈夫だった? 大叔父が何か言ってきたんじゃないか。彼とは色々と関係が複雑でね。早い話、彼は私のことが好きではないんだ」
「それは十分すぎるくらい伝わってきたわ」
何しろ初対面でオルフェリアに対しても喧嘩を売ってきた。
「彼に何を言われた?」
「あなたとの関係はお金だろう、と。ほぼ正確に検討をつけてきたわ。倍額払うからこちらにつけって」
オルフェリアはその前、自分の家族のことについて言われたことは黙っていた。
フレンは少しだけ考えるそぶりをみせた。
「なるほど、ね。で、きみはなんと答えた?」
「恋愛結婚です、と」
「ふうん。恋愛、ね」
「なにを笑っているのよ。そもそもあなたが指示したことじゃない」
フレンが楽しそうに返してきたからオルフェリアは面白くなくて彼の腕を小さく小突いた。なんだかからかわれている気がする。
「それでフレンはどうしてここに?」
「そうだった。侯爵夫人から呼ばれたんだ。私とオルフェリア、リエラとユーディッテ。どうやらレカルディーナが到着したようだよ」
「王太子妃様が?」
オルフェリアは驚いた。
「ああ。イグレシア侯爵夫人は彼女のためにわざわざ夜会を開いたんだよ。イグレシア公爵邸ならば狭量な王太子もしぶしぶ外出を認めるからね」
フレンが王太子のことを話す際、狭量というところでまずいものでも噛んだような顔をしたのが印象的だった。
◇◇◇
別室にはすでにオルフェリア以外の全員が到着していて、いままさに王太子妃が長年大ファンだったというリエラとの感動の対面をしているところだった。
「あ、あの……!わ、わたし十代のころからずっとリエラ様のファンだったんです。今日お会いできてうれしいです」
レカルディーナは少女のように頬を赤く染めていて片時も目をそらさずにじっと憧れの存在だったというリエラのことを見つめていた。
リエラ・ドルテア恐るべしだ。
「こちらこそ、ご尊顔を拝謁し至極経悦にございます王太子妃殿下」
リエラは片膝を地面について騎士が姫君に忠誠を誓うようにこうべを垂れた。
「そんな……敬称ではなく、レカルディーナって呼んでください」
蚊の泣くように小さく、必死に絞り出したような可憐な声だった。
リエラは凛凛しく微笑み立ち上がった。
「それでは。レカルディーナ様」
リエラの言葉を受けてレカルディーナは両手で口元を押さえた。目元がうるんでいる。感動して声も出ないのだ。