三章 仮婚約者と王太子妃2
「お姉さま、わたくしがいたしますわ」
「あら、いいのよ。エルメンヒルデ」
お……お姉さま。二人はどういう関係なのだろう。
もしかして王都ではそういう遊びが流行っているのだろうか。二人の関係にただならぬものを感じたオルフェリアは困惑してしまった。
「わたくしはレカルディーナ様と同じ寄宿学校に通っていたのですわ。先輩と後輩の間柄で、その頃のくせがいまだに抜けなくて。つい私的なところではお姉さまって呼んでしまうの」
オルフェリアの困惑顔に気がついたエルメンヒルデが説明をした。
「そ、そうなんですか……」
(奥が深すぎる、寄宿学校……)
「それよりも、あのながーい間一人身を貫いたフレン兄様がやっと結婚する気になったのよ。わたしそれを聞いた時、あなたにどうしても会ってみたくなって。急な招待に応じてくれてありがとう。聞けば最近までずっとルーヴェにいたんですって」
「はい」
ここまで親しげな態度を取ってくれる王太子妃をもだましているのか、と思うとオルフェリアは別の意味で胃がきりきりしてきた。絶対に一年後、婚約破棄をしたら王宮に呼びだされて詰問されること必死だ。
どうして偽装婚約引き受けたかな、自分。
いまさらながらにオルフェリアは自問した。
「フレン兄様のお嫁さんならわたしにとってもお姉さま……この場合でもお姉さまでいいのかしら? これからも仲良くしてくれると嬉しいわ」
「はい。ありがとうございます」
憧れの王太子妃のお姉さま! とんでもない発言にオルフェリアは吃驚した。
貴族の令嬢の間でもレカルディーナの人気は高い。普段は取り巻きの婦人らが周りをしっかりと固めているからおいそれと声をかけることはできないのに。
表面上オルフェリアはいつものように冷静沈着な顔つきをしていたが、胸の中は次々と色々な感情が迫ってきて非常に忙しかった。
「そうだわ。兄様とはどういういきさつで出会ったのかしら」
「それはわたくしも興味がありますわ。フレン様はわたくしも昔から面倒をみていただいていましたのよ」
「ええと……最初に出会ったのはとあるお茶会で。そこで同じ本が好きだということで意気投合しました」
このあたりのくだりはもう何回も答えているのですらすらと出てきた。
その後もいくつか質問を受けて、返して。
彼女たちからは他の貴族から感じる毒とか嫌な雰囲気は一切感じられなかった。純粋に兄のように慕っているフレンの婚約を喜んでいるのだろう。オルフェリアへの質問もあらを探すというよりは恋の話をするのが楽しいというのが強いようだった。
「フレン兄様は優しい?」
レカルディーナはオルフェリアのカップにお茶のお代わりを注ぎながら聞いてきた。
ふわりとした笑顔を眺めているとほっとした。
「ううん……。ときどき、いや、割と意地悪です」
オルフェリアの答えにレカルディーナとエルメンヒルデが同時に噴出した。
あ、あれ。まずかっただろうか。二人の砕けた空気に流されてしまいつい本音を漏らしてしまった。
(やっぱり、優しいですって言った方がよかったのかしら)
オルフェリアの狼狽に気づくことなくレカルディーナは笑い声をかみ殺しながら口を開いた。
「ごめんなさい。ただ、ね。仲がいいのねって思って。フレン兄様って、ちょっと女心を分かっていないところがあるから……。これってわたしの旦那様も同じなんだけど。ふふ、みんな同じことで悩むのね」
「え……そうなんですか?」
「そうよ。殿下と初めて対面したときなんて、とっても怖かったのよ。あの人あまり笑わないの。あ、わたしが殿下のこと怖いって言っていたのは、もちろん内緒よ」
そう言って彼女は人差し指をぴんとたてて口元に持っていく。
レカルディーナは夫である王太子のことをいくらか話してくれた。一見すると怖そうだけれど本当は優しいとか、子供たちの面倒もよくみてくれるのよ、とかだ。もしかしたらのろけられているのかもしれない。
そうやってお互いの伴侶のことを一通り話し終えると話題はフラデニアへと移った。
レカルディーナは今でもフラデニア文化が好きなようで、エルメンヒルデと一緒にメーデルリッヒ女子歌劇団関連の特集記事を追いかけていると話してくれた。
「わたしもルーヴェで鑑賞しました。初めて見たんですけど、とってもとっても素敵で、男性役の方もかっこよくって」
「そうでしょう! 懐かしいなあ。結婚してからはふらりとルーヴェに行くことできなくなっちゃって」
レカルディーナはさびしそうに笑みを浮かべた。
さすがに一国の王太子妃が観劇のために外国に行くことはできない。
「わたくしも女組は大好きですわ」
「実は今、フリージア組の女優の方がこちらにいらしているんです」
「それ本当?」
「まあ!」
レカルディーナとエルメンヒルデは同時に声をあげた。
「どなたがいらしているの?」
「リエラ様とユーディッテ様です」
一番人気の二人は名前に様づけがルーヴェっ子の間では一般的だ。オルフェリアも敬意を表してこの呼び方を真似るようになっていた。というか恐れ多くて軽々しくリエラだなんて呼べない。
「ウソでしょう。あのリエラ様が……! 実はわたし昔からリエラ様が一番好きだったのよ。あの頃はまだ二番手、三番手を演じていたの。けれどあのときからきらりと光っていたわ」
そのあとオルフェリアはレカルディーナとエルメンヒルデからリエラ・ドルテア物語を延々と聞かされた。内容は主にデビュー時からの彼女の足跡だ。
フレンからは二人がミュシャレンに滞在していることは話してもいいが、ファレンスト銀行がらみの公演については内密に、と厳命を受けていた。
この分だとファレンスト銀行ミュシャレン支店開設記念特別興業を知ったら大変な騒ぎになるに違いない。
二人の知識量に圧倒されながらもお茶会は和やかさを保ったまま終了の時間になった。たっぷり用意されていたお茶とお菓子がちょうど無くなった頃合いだ。
「今日はありがとう。また近いうちに遊びに来てね。というかわたし絶対に時間を作ってリエラ様たちに会いに行くわ。絶対よ!」
どうやら今日のお茶会で王太子妃のメーデルリッヒ女子歌劇団愛が復活してしまったらしい。力強く宣言をするレカルディーナの横でエルメンヒルデも頷いている。
三人で回廊を歩いていると前方から男性の集団が近づいてくるのが確認できた。
若い男性たちだった。一部の人間は帯剣している。
もしかしたら王宮に勤める騎士かもしれない。
「殿下。どうしたんですか、こんなところで」
レカルディーナが近づいてきた人物の正体に気がついて声をあげた。
オルフェリアは心臓が別の意味で強く脈打つのを感じた。
オルフェリアからほんの数歩というところで立ち止まった集団の真ん中には一人だけ明らかに高い身分を示す男性の姿があった。簡素な衣装を身にまとっているが、仕立てがまるで違う。
また、彼が身にまとっている雰囲気が他の人間と違っていた。他を圧倒するような威圧感。オルフェリアは手が汗ばむのを感じた。殿下と呼ばれる人間は現在このアルムデイ宮殿に一人しかいない。レカルディーナの夫、王太子その人だ。
「メンブラート伯爵家の人間を呼ぶと言っていただろう。まさか本当に現れるとは思わなかった」
黒髪に薄茶の瞳をした精悍な男が無感情にオルフェリアを見下ろしていた。
「とても可愛らしい方でしょう」
レカルディーナが言い添えた。エルメンヒルデも彼女の言葉に頷いた。
オルフェリアは動くことができなかった。
この場にいる全員がオルフェリアの動向を、メンブラート家がどういう態度を取るのかと注目している。