五章 舞踏会へようこそ2
一方のミリアムは。
最近情緒不安定である。屋敷のお嬢様の機嫌が悪いととばっちりを受けるのは彼女に仕える使用人一同である。普段は寄宿学校にいるため、そこまで害はないのだが舞踏会に合わせて休学した彼女はずっと侯爵家の町屋敷に身を寄せている。
そうなると彼女の機嫌を窺って仕事をしなければならない侍女たちは毎日が戦々恐々である。何しろミリアム・ジョーンホイルという令嬢は下の身分の者には容赦がないからだ。貴族に仕える侍女に遠慮をしてどうする、というのが彼女の言い分である。主人の機嫌に付き合うのも仕事のうちというわけだ。
「ちょっと、あなた。ドレスが皺になっているわよ。どういう手入れの仕方をしているわけ?」
「ああもうっ! なんだってこの屋敷にはもっと気のきく侍女はいないのかしら」
「『レスト・ローク』で断られたですって。わたしはジョーンホイル家の人間よ。侯爵家の人間をないがしろにするだなんて! ちょっとあなた予約を取れるまで帰ってこないで!」
などなど毎日当たり散らされていた。
ミリアムの機嫌も相当に悪かった。
何しろ最近上手くいかないことだらけだからだ。婚活仲間だったメイナには先を越されるし、彼女は婚約した途端にミリアムを切った。もっともらしい屁理屈をこねて。
カリナだってそうだ。あっさりと掌を返してメイナの側についた。メイナにしても自分に張り合おうとしないカリナの方がこの先付き合っていて楽だと踏んだらしい。オルフェリアのことだってはっきりと彼女とは張り合う必要がないと言いきったくらいだ。
結婚に際してこれまでの友達付き合いを変更するのはままあることだ。
けれど、あっさり切られた側は面白くない。
花嫁教育で潰されればいいのよ、あんな子。とミリアムは彼女を呪った。このくらい思いたくもなる。
どちらにしろメイナはこの舞踏会が終わったらデイゲルンに移動する。しばらく顔を合わさずに済むのはミリアムにとっても都合がいい。しかしこの分だと彼女の結婚式に呼んでもらえるかどうかは未定だ。ミリアムとしては結婚式に出席するだろう各国の賓客と人脈を築けない方ことのほうに未練が残る。
彼女の結婚式が終わるまではもう少し穏便に過ごしていればよかったと後悔しなかったといえば嘘になるが済んでしまったことは仕方ない。
舞踏会に向けて準備することはいくらでもある。
体の手入れもかかせない。爪を磨き肌を整え、髪の毛だって艶やかにしたい。そのため南国からわざわざ高級海綿を取り寄せたし、肌に良いという触れ込みの海藻のパックも購入した。領地に使いをやって侯爵家に伝わる宝飾品もいくつか取り寄せた。亡くなった母の愛用していた物もある。こればかりは兄嫁に使われるわけにはいかない。いずれ彼女の物になるのだとしても、ミリアムが嫁に行くまでは自分の物だ。そうやすやすとすべての権利をよそ者に渡してなるものか。母の遺品のいくつかは嫁入りの際身支度品として持っていくつもりでもある。
宝飾品に合わせてドレスも決めないと。
「ああもうっ! イライラするわ」
「お嬢様ったら。最近少しお疲れ気味ですわね」
ミリアムがここ最近の口癖を口にすると、今日は返事が返ってきた。
一番新入りの侍女である。彼女の化粧術は筋がいいからミリアムは彼女の顔を覚えている。確か名前は……
「あらわたしに口をきくなんて珍しい子もいるのね。ええと……」
「リタ・ロシューと申しますわ」
「そうそう。リタだったわね」
ミリアムは珍しく彼女と話してみる気になった。古参の侍女ではない分愚痴を吐く相手としてはちょうどいい。なにしろ最近のミリアムは同じ階級の令嬢たちからすっかり距離を置かれてしまっている。メイナが表立ってオルフェリアを庇った一件はあっという間にミュシャレンに残る同じ年頃の少女たちに知れ渡ってしまった。メイナがいなくなるまではこの状況は変わらないだろう。
こちらとしても無理に格下相手の令嬢たちに媚を売ろうとは思わない。どうせメイナは結婚してアルンレイヒから出て行く。厄介事に巻き込まれたくないなどと、静観を決め込む公爵家の令嬢だっているのだから、数カ月もしたら勢力図だってまた変わるだろう。
「ちょっと腹の立つことがあってね。どうしても気に食わない相手っているものでしょう」
「ええ。もちろん。わかりますわ。そこにいるだけで妙に心をかき乱される相手って必ず一人や二人現れるものです」
リタはしたり顔で頷いた。
ミリアムは自室の長椅子にくつろいだ体勢で座っており、リタはその傍らに立ったままである。
珍しくミリアムが怒鳴り散らさないで侍女を話し相手にしている。リタ以外の侍女は遠巻きにこの珍事を観察している。その胸中はいつリタがミリアムの機嫌を損ねてしまわないかで震えあがっていた。
「あら、話が分かるじゃない。ちょうどわたしにもそういう娘がいるのよ」
侍女たちの心配をよそに話は進んでいく。
ミリアムはリタを相手に目下目の上のたんこぶであるメンブラート伯爵家の令嬢がいかに嫌味な女かを語って聞かせた。ミリアムの主観がたっぷり入った言い分である。
「とにかく綺麗な顔を鼻に掛けた嫌味な子なのよ。自分は俗世のことに興味はありませんなんて澄ました顔をしちゃって。腹が立つったらないわ!」
「まあまあそれはなんとも腹立たしい存在ですわね」
リタはミリアムの言葉に律儀に相槌を打つ。人間共感されると嬉しくなるもので、ミリアムもご多分にもれず普段なら歯牙にもかけない労働者相手に素面で管を巻く。今この場に酒はない。
「それにドレスだって! あの子婚約者に頼んでわざわざルーヴェから人気の仕立屋を呼び寄せたのよ。なんなのよっ」
「まあ、鼻につく行為ですわね」
ミリアムは散々これまでのうっ憤をぶちまけた。
令嬢としてはいささか品位に欠けるけれど、別にここには貴族の子息もいないのだしどうでもいい。いつも淑女の仮面を取り付けていたらこちらも疲れてしまう。
「本当……なにか起こればいいのに。当日に恥をかくような何かが」
ミリアムは暗い声を出した。
そうだ。舞踏会当日にちょっとした事件でも起こって出席できなくなればいいのに。それともドレスになにか仕掛けをする?
「でしたらわたしにお任せくださいな」
リタはこともなげに言い放った。
「あなた何を言っているの?」
ミリアムは訝しんだ。
「お嬢様のお心を晴らすために、少しの間だけ件の令嬢には舞踏会から退場していただくだけですわ」
「あなたね……。わたしに疑いがもたれたら元も子もないわよ」
ミリアムはリタを睨みつけた。この状況でオルフェリアに何かがあればきっとメイナはミリアムを疑うだろう。昔、メイナの家の侍女の振りをさせて自身の侍女をインファンテ卿の邸宅に使いに出したことがある。あのときは園遊会の開始時間が変更になったと伝えさせて結果オルフェリアはイグレシア公爵家の園遊会に遅刻した。
同じ手は使えない。今回はファレンストというパートナーだっているのだからなおさらだ。
「あら。わたしを舞踏会に連れて行ってくれて頂けるのなら、少しくらいの足留めでしたらできると思いますわ。わたしこれでも昔芝居をかじっていたことがありますの。それくらいの意趣返しでよければ協力できますわ」
「ふうん……。芝居、ね……」
侍女の思わぬ経歴を聞いてミリアムは考え込んだ。
確かに彼女の口調はいささか芝居がかっている。妙な丁寧言葉を使ったり、変なところで度胸があったり。変わった経歴を持っているものである。
「考えておくわ……。あなた、結局は舞踏会に行ってみたいだけではなくて?」
「あら、そんなことはございませんわ。もちろん、興味がないと言えば嘘になりますけれど」
お屋敷のお嬢様相手に堂々と嘯く態度である。普段なら怒るだろうミリアムだったが、今日に限ってはミリアムはいささか口の過ぎた侍女に機嫌を損ねることもなかった。
あからさまな嫌がらせは出来ないにしても、少しくらい恥をかかせるくらいなら。
ミリアムの思考が誘惑に飲み込まれていく。
そう、ほんの少し。恥をかけばいい。たとえば、最初の挨拶に遅れるとか。ドレスに染みをつけるとか。(でもきっとそういうときのために何着かドレスを用意しているに違いない)ミリアムのイライラはオルフェリアに起因するものだし、ちょっとくらい嫌な目に会えばいいのに。ミリアムは長椅子に持たれながら頭の中でいくつかのパターンを組み立てて行った。
侍女のリタはそんなミリアムの様子を満足そうに眺めて、やがて一礼をして部屋から出て行った。