プロローグ
オルフェリア・レイマ・メンブラート。
それはこの夏王都に残った上流層の人間らの間を賑わせている令嬢の名前だ。
この春領地より王都ミュシャレンに出てきたという深窓の伯爵令嬢は、高飛車な言動から同じ年頃の少女たちから敬遠されがちだった。陰でいじわる令嬢などと揶揄されている。
六百年も続くといわれる伝統ある名家、格式のあり過ぎる家格。冷たい印象の紫の双眸に見つめれると足がすくんでしまう、などと噂される令嬢が将来の伴侶として選んだ相手を知った人々はさまざまな憶測をした。なにしろ彼女の選んだ男性は隣国の、爵位も何も持たない、青年実業家だったからだ。
◇◇◇
(さあ、今日こそはフレンをぎゃふんと言わせてやるんだから)
午後の公園散策にしてはいささか物騒な言葉を心の中でそっと呟いてオルフェリアは婚約者に導かれるようにゆったりと歩道に足を滑らせた。
アルンレイヒ王国、王都ミュシャレンの一角。上流階級専用の公園。
日差しの陰った夕方、公園内には年齢層を問わず多くの人間たちで賑わっていた。
「さて、わかっていると思うけれど、くれぐれもにこやかに。ついでに台詞は感情をこめて、瞳は常に熱っぽく」
オルフェリアの頭の上から彼女にしか聞き取れないような小さな声が聞こえてきた。少しだけ低い、恋人に聞かせるよりも家庭教師が教科書を音読するような硬い声だ。
声の持ち主の名はディートフレン・ファレンスト。
オルフェリアの婚約者だ。婚約者という割に声が甘くないのは、二人の関係がこれっぽちっも甘くないからだ。
「わかっているわ」
「ならばいいけれど。昨日は頬がひきつっていたから。あれじゃあ恋するっていうより親の仇でも見ているような視線だったよ」
「うるさいわね」
オルフェリアも隣だけに聞こえるようにささやき声で応酬した。
そうこうしているうちに噂の二人に気がついたのか、すれ違う何人かが会釈をしてくる。
オルフェリアは咄嗟に顔面に笑顔を張り付かせる。フレンから何度も指摘をされているから、精一杯口角を上げて、にこりと笑った。
「あら、噂のメンブラート伯爵令嬢とファレンスト卿ではないですか。噂は聞きましてよ、おめでとうございますわ」
二人の姿を見つけたとある貴族の令嬢が足早に近づいてきた。
これがオルフェリアが一人で歩いていても絶対に向こうから声などかけてくることはないのに、婚約したとたん多くの人間が声をかけてくるようになった。
「あ、ありがとう」
オルフェリアは無難にお礼を言った。この言葉が一番あたりさわりがなくていい。
「あら、わたくしからもお祝いを言わせてほしいわ。それにしても恋人がいる気配など微塵も感じさせなかったのに。わたくしちっとも気がつかなかったわ」
もう一人の令嬢が口を開いた。金の髪をきれいに結いあげ、少しだけ毛先を垂らした髪の毛の房がぴょんぴょんと跳ねている。
「あなたたちこれまで一度もわたしに話しかけてきたことなんてなかったじゃない。だったら知らないのも当然じゃないかしら」
これまで人のことを勝手に澄ましているとかお高くとまっているとか噂をして遠巻きに見ていたのはどこのどいつだ。つい本音が漏れてしまい、いけないと思い慌てて目の前の令嬢二人に視線をやると、案の定彼女らは絶句していた。
「そ、それはオルフェリア様が話しかけずらい態度をずっと取っていたからですわ」
「わたくしたち、ずっとこうしてお話したいと思っていましたのよ。それに、メンブラート家は特別ですもの。わたくしたちから話しかけるなんて……そんな……」
一瞬絶句した令嬢二人は素早く形勢を立て直してきた。
主にオルフェリアのことを貶める形で。
そうやって言われるとオルフェリアもつい反論をしてしまう。
「別にわたしの家は特別ではないわ」
「そうかしら。メンブラート伯爵家と言ったら現王家よりも長い歴史がおありだもの」
少女たちはいつもオルフェリアと自分たちは違う、ということを強調したがる。
王家よりも長い歴史を持った特別な一族。だからお高くとまっている、と。
「彼女は照れているだけで、本当は皆さんとも仲良くなりたんですよ。これからはあまりメンブラート家の名前に怯えずに話しかけてやってください」
話の雲行きを見かねたフレンが明るい声で会話に割って入った。
「ええ、当然ですわ。わたくしたちも何か誤解をしていたようですものね」
もう一人の少女はオルフェリアの隣にたたずむフレンの存在に今気付いたかのように取り繕った声を出した。
それではごきげんよう、とお決まりのあいさつをして二人の令嬢はそそくさと元来た方向へと戻っていった。
二人を見送ったオルフェリアは大きく息を吐いた。
「減点」
上から不機嫌な声が落ちてきた。
オルフェリアは眉根を眉間に寄せて上を見上げた。
「向こうが私のことを勝手に悪者にしようとするのよ。不可抗力よ」
「そうかな。最初に喧嘩を売ったのはきみだと思うけどな」
「だって、本当のことだわ。それなのに白々しい。わたしと彼女たち、一度だってお友達だったことなんてないもの」
オルフェリアはぼそぼそと言い訳をした。
何か言うとすぐに「伝統あるメンブラート伯爵家のご令嬢ですものね」という言葉が返ってくる。
「それでも、だ。あんなの適当に受け流しておけばいいことだろう」
それがオルフェリアには難しい。ついはっきりと思ったことを口に出してしまう。
「次はうまくやるわよ……」
「よろしく頼むよ」
二人は公園中央の広場へと足を踏み入れた。
◇◇◇
馬車に乗り込んだとたんにフレンは苛立った声を隠そうともせずに口を開いた。
「まったく君はもうすこし話術ってものを学んだ方がいいんじゃないかな」
フレンが小言を言えばオルフェリアも負けずに言い返す。
ここで黙っていられる性格ではないからだ。
「お言葉ですけど、これでもわたしすっごく努力しているわ」
「だったらもっと努力するべきだね。私たちが偽装婚約をしてから人前に出るのは今日で五回目だよ。五回目。これが私の秘書官だったらとっくにクビだね」
「だったら今すぐにわたしのこともクビにすればいいじゃない」
ふたりは馬車が走りだす前からこの調子だった。
「そうやってすぐに婚約解消をちらつかせてくるんだから、きみはまるで子供だね。婚約解消したら困るのはきみだって同じだろう」
「そうかしら。別にわたしはかまわないわ。あなたこそ、わたしに逃げられたら理想の相手を一から探さないといけなくなるんじゃないの」
「その言葉そっくりそのままお返しするよ」
二人きりの馬車の中は甘い雰囲気などどこにもなくひたすら二人による応酬合戦が繰り広げられていた。
「大体、偽装婚約を持ちかけたのはあなたの方よ! わたしはまだ、こ、恋なんてしたこともないんだから……、もう少し多めに見てくれたっていいじゃない」
オルフェリアはたまらず叫んだ。
生まれて十六年。当然のことながら恋の経験なんてあるはずもない。
「わかっているよ。ここで論じているのは恋がどうこうっていう話じゃない。オーブリエ男爵夫人の好奇心にばか丁寧に付き合う必要はないってことだよ。もっとうまいかわし方を覚えてもらいたいところだね。それから同年代の同性に対する態度も」
オルフェリアの反撃もフレンはあっさりと返り討ちにする。
公園の広場でオルフェリアはフレンの知己だという男爵の夫人にしつこく二人のなれそめや婚約してからの行動について聞かれた。妙な迫力に負けて正直に聞かれるままに答えて言ったら、他の婦人たちからも同じように質問攻めにあい、フレンが助けてくれるまでそれは延々と続いた。
(わたしだって慣れない中渾身の演技をしているのに)
オルフェリアは心の中だけで反論をした。
「だったら次は台本でも用意しておいてほしいわ。そうしたらもっとすんなりと言葉がでてくるもの」
「ああそうさせてもらうことにするよ」
お互い目線が合って、にらみ合って、最終的にぷいっと同時にそっぽを向いた。
車内の重苦しい空気など無視するかのように馬車は王都ミュシャレンの街を軽快に走っていく。車内には馬の蹄と車輪の回る音だけが響いていた。
やがて馬車は一軒の邸宅の前で停車した。
御者が馬車の扉を開けるとフレンは先に降り、先ほどまでの不機嫌顔をどこか遠く荒野にでも置き去りにしてきたかのような完璧な笑みを浮かべて優しく手を差し伸べた。
オルフェリアは内心嫌で仕方なかったけれどフレンの手を取った。
屋敷から侍女のミネーレが出迎えにやってきている。彼女は知らないのだ。
オルフェリアとフレンが相思相愛の演技をしているだけで、実は一年契約の偽装婚約をしているだけだということに。