学生証
滝のような雨だった。
吊り橋が揺れるほど風もキツかった。
雨音は変わらないのに、
たどり着いた場所は、静かだった。
風が木々を揺さぶる音が近い。
なのに、此処は巨木の、新しい葉が分厚い屋根となっているようだ。
空気が動いていない。
聖とシロまで、天空からの水滴さえ、届かない。
カオルが出て行ったあと、
言い残した言葉に、鳥肌が立った。
髪をかきむしり叫び……その次に工房を飛び出した。
向かった先は、マユの死骸が散乱している場所だ。
シロは自分の意思でついてきたらしい。
ゲンノショウコ、スイカズラ、ヒヨドリバナ……。
懐中電灯の光の筋に、白い花の群れが浮かび上がる。
初夏に、この山に咲く野花の
白いのだけが固まって、分厚い絨毯のようだ。
マユの骨は見えない。
散乱していた衣類も無い。
雨風に朽ち果てたのか、
森のイキモノが盗んでいったのか、
それとも、
一冬たまった落ち葉に埋もれ、
可愛らしい白い花が、隠す下で、土と化したのか。
「シロ、これなら大丈夫だよな」
聖は、カオルの言葉が、まだ怖かった。
幽霊が見えるらしい刑事が、
捜索願の出ている、山本マユを見てしまった。
マユを特定するのも、時間の問題かもしれない。
……それから、カオルはどうする?
幽霊なんだと思ったなら、死んでいるとは解ってる。
…次に死体を探すのではないか。
……<神流剥製工房>の近くを疑うかも。
人里離れた山の中、死体の一つ二つ、あっても不思議じゃ無い。
聖は、マユの骨が山から回収されてしまったら、
二度と会えないのではないかと、
それだけを、恐れていた。
でも、マユの遺骸は、白い花に隠され、簡単に見つかりそうもない。
安堵し、土砂降りの中、工房に戻った。
……思いがけず、
……マユが居た。
カオルの出現で、マユとの時間は切断された。
想定外の他者の出現で、去ってしまったのだと思った。
聖は、少なくとも今夜は、会えないと諦めていた。
マユはダウンコートに両手をつっこんで、剥製棚の前に立っていた。
「ねえ、ちょっと、思いついたことがあるの」
と、ずぶ濡れで入ってきた聖に、言う。
帰りを待ちわびていたようだ。
「一人か、二人でか、わからないけど、猫の剥製を造ったのは双子よね。少なくとも三体。生ゴミに出したのを入れたら四体。四体とも、父と、母の、目につくところに置いたんだ」
「うん。親を怖がらすために、そうしたんだろう?」
「そう、最初は思ったんだけど……違う気がしたの。もっと簡単な理由じゃないかなって」
「……簡単な理由って、何?」
マユの<墓場>から戻ったばかりの聖は、
二度と会えないのでは無いかと泣きそうになったのに、今ちゃんと目の前に居るのが嬉しい。
どうしても、マユが語る言葉より、マユ自身に気持ちがいってしまう。
「セイ、ちゃんと、聞いてる?」
叱られて、耳に入った言葉を頭の中で反芻する。
「怖がらせる為じゃ無い、簡単な理由か。……それは、結果から逆算すればいいのか。結局剥製猫は、どうなったか。それが双子の目的って事?」
剥製猫は、どれも……捨てられた。
「そうなのよ、それが目的だったかも。
単純に、ただ、処分したかったんじゃないかと。理由は今は解らない。
剥製猫を処分するきっかけが、双子の一人が死んだ時点だと仮定してみたの。
通夜や葬式で、ばたばたしてるよね。
空君は、自由に外に行ける状況じゃ無かった。
……親の目につくところに置けば、処分してくれる、と考えたんじゃないかと、そんな気がしてきたの」
「昴が死んで、剥製猫が不要になった。……なぜ?」
「そこは、解らないんだけどね。猫の気味悪い剥製を造った訳を考えてみない? まだ、生きてる間に皮を剥いだ、それだけなら、とても残酷。……けど、イチジク台で、野良猫たちは駆除される運命だったと、セイは、聞いてきたんだよね」
「うん。保健所に頼んだといってた」
「じゃあね、生皮を剥がされた猫は、近いうちに殺されると決まってたんだ」
「殺されると知って、その前に皮を剥いだ、と言いたいの?」
「可愛い猫を、生きたまま皮を剥ぎ取るなんて、残酷すぎるよね。……中学生の男の子が平気で、面白がってやったんだと、思いたくないヨ。思いたくないからね、猟奇的な惨殺以外の、可能性を考えてみたの」
聖はマユの言ってることが、すんなりと頭に入らない。
「あと一点……気になってるのが、川に流された猫のこと」
「何、それ?」
「セイから聞いたんだよ。浦上さんが来たとき、初めに言ったこと。
『殺しても、埋めてもコイツは戻ってきた。川に流しても帰ってきた、焼いても、アカン』
浦上さん夫婦は剥製猫を、給水塔にすて、河原に埋め、生ゴミで出し、此処へ持ってきた。
殺した、埋めた、焼いたは現実と重なってる。生ゴミで出したのが、焼却されたから、焼いた猫よね。河原にも、確かに埋められてた。そして、風呂場で薬品で殺したのが、ここに持ってきたのでしょう?家の前で、車に轢かれた猫。これも、時間の差はあるけど、作り話じゃなかった。……よおく考えてみると、川に流した猫が不明なの。浦上さんの話の中だけに存在するのよね」
聖は、浦上に応対したときに控えたメモを見る。
確かに、川に流しても、と、言っていた。
「片耳の欠けた猫が現れ、殺しても捨てても戻ってきた。セイが聞いたエピソードは語られていない部分が多いし、順番も怪しい。けど、全くの妄想、作り話では無いと、イチジク台へ言って、わかったんでしょう?」
「……うん」
確かに、話通りに、橋の下に埋められた一体も見つけた。
「見つからない、川に流した猫が、そもそもの発端、一番最初に起こった事じゃないかと、思ったの」
「……でも、俺には、もう何もできないよ」
聖はカオルがマユを特定して、自分が尋問されるのではないかと危惧している。
その不安が、今は頭の中で大きな面積を占め、
浦上一家とか
剥製猫とか、ホント、どうでも良かった。
「そうでも、ないのよ。空君は、セイに助けを求めてるんだから」
マユは、アリスをちょっと触った。
聖は、マユの指が触れると、くすぐったいようにアリスが仰け反るのを、見た。
「おい、動きすぎだろ」
近づく。
ふと、
ここ数日、アリスを見る機会が多いと気づく。
「みて、アリスの下」
マユは微笑んで小首を傾げた。
マユは今、透き通っていない。
淡い色だが、実態として、側に居る。
見上げる顔が近い。
(そうか、意外と背がたかいんだ)
と、聖は発見する。
180センチ近い自分との差は15センチ以内、だと計る。
「私じゃ無く、こっちを、見てよ」
チャンスとばかりに近くで、見つめすぎてしまっていた。
マユは、大きな黒目を動かし、聖の視線をアリスに誘導した。
「学生証か?」
<浦上昴>の紫星学園の学生証が、あるではないか。
「置いて行ったんだ、よな?」
「なぜだが、解るよね? ……聖に助けを求めてるんだよ。此処に来たのも、双子の意思だったのよ」
学生証の裏に、連絡先の携帯電話番号があった。
「今……10時20分か、遅すぎるな」
しかし、忘れ物を、発見したのが、訪問の日から、随分過ぎている。
<一家心中>しそうな行方不明家族。
夜分だからと、躊躇していられない。
直ぐに電話を掛けた。
出なければ、二三回で切ったらいい。
明日、また掛ければいいと。
ところが、ワンコールで、
「はい、ウラガミです」
元気な声で、すぐ父親が出た。
(え、あ、……無事なんだ)
涙が滲むほど、聖は嬉しかった。