少年の幽霊
聖は、何のせいだか、ぐったり疲れた。
工房に戻ると、まず作業室に閉じ込めたままのシロを解放した。
シロはじゃれつき、聖の身体と、あたりの臭いを嗅ぎ回る。
閉め忘れたドアから日暮れのヒンヤリした風が入ってくる。
シロは一度外へ出て工房内に戻り、
山田鈴子が置いていった、
熊犬の死骸が入ったキャリーバッグの臭いを嗅いでいる。
応接セットのテーブルにある黒い箱には無関心だ。
「やっぱ、そっちが気になるか」
聖もそうだった。
化け猫話は妄想めいている。
箱の中に獣の存在を全く感じない。
可愛らしい熊犬の処理を優先したい。
「シロ、この子は無理だな。お前もそう思うだろう?」
熊犬は剥製に出来る状態ではなかった。
劣化がひどい。
撫でてやると、ごっそり毛が抜ける。
これでは毛皮を剥ぎ取れない。
「お前、一体何年、生きた?」
歯を見る。
所々欠けていた。
「……二十年か。この大きさなら十年が平均寿命だよな」
剥製に出来ない、腐敗が進んでいる身体を、キャリーバッグから抱き上げる。
すると、山田工務店と印刷された茶封筒が、ひらりと舞い落ちた。
中には三十万の小切手が入っていた。
が、聖はそれを見ずに、
熊犬を焼却炉に入れた。
大きすぎて身体ごと埋められない。
工房の周りの土は粘土質と石で堅い。大きな穴は掘れなかった。
夜のとばりが山に降り、
窓の外は真の闇になった。
熊犬が骨と灰になるまでの間、シロと夕食を済ませる事にした。
調理は作業室でしている。
ガスコンロ、電子レンジも作業室にある。電子レンジは毛皮を解凍するのに使う。犬、猫の毛皮を保管している業務用冷凍庫から、買い溜めしている食材を漁る。
ドライカレーとハンバーグは自分用。ローストビーフ用牛肉の塊はシロと、取り出す。
簡素な食事と、ワインをパソコン前の狭いスペースに置いて食べる。
足下でシロは主人の食べ物より高い肉を、まずは舐め回している。
聖はインターネットで、発売予定のゲームの情報を見る。
ありきたりの夕食タイムだった。
それが、今の聖にはとても必要だった。
「シロ、すっごい、嫌な感じ、分かるか?……あの一家、ヤバいよな」
不可思議な、何度死んでも戻ってくる猫の話を聞かされてる間に、
信じられない早さで、日が暮れてしまった。
「そんで、オバサンが怖いこと言ってただろう? 後払いなら損するって。わかるか? あの人は死に神が見えるんだ。つまり依頼主は剥製を受け取りに来れない……近いうちに、死ぬ。もしかしたら、もう死んでるかも。帰り道に事故にあってとか」
大きく身震いして、応接セットの低いテーブルの上の……黒い箱に目をやる。
「でもさ、後払いじゃないよな。あの人、金を置いてってる。最後に財布から出してたんだ。……それが、どう見ても千円札数枚、だろ?」
数千円は剥製料金に満たない。
と、言えなかった自分も、若干もどかしい。
「話聞いて、妄想としか思えなかったんだ。お前も、箱は空だと知ってるんだろ? 置いてった金は、お祓い料金の相場だな。だから、貰っても、まあいいかって、思うだろ?」
果たして、とっさの判断にミスはなかったのか?
不安があるから……シロに同意を求めてしまう。
箱の上には八千円あった。
そして、山田鈴子からの剥製料にも気がついた。
剥製に出来ないのに、これは受け取れない。
すぐに電話で事情を説明すべきだ。
となると、
鈴子の別れ際の言葉を
ついでに確認してみたいと思ってしまう。
「そうか。とうに寿命は尽きてるのに、生き長らえてアパートの番してくれてたんか。知らんかったわ」
剥製に出来ない事を申し訳ないと謝る。
聖が熊犬の剥製を作りたいにちがいないと、思い込んでる。
小切手は書留で返すと伝えると、
焼いた骨を山に埋める、埋葬料だという。
「多すぎますよ。あんな大金受け取れないですよ」
ヤクザともつながりのある鈴子が、まだ少し怖かった。
大金を受け取って、怪しい仕事を断れなくなるのはまずい。
「浮いたお金で、損する分を埋めたらいいやんか。商売なんやから、な」
電話を切ろうとする。
「社長、教えてください。あの一家の、……男の人が、死んじゃうって事ですか?」
「……」
気の短い鈴子がすぐに答えない。
「奥さんの方、ですか?」
息子の一人かもしれない。家族の誰が亡くなったとしても、ペットの剥製など忘れ去られると、鈴子は考えたのかも。八千円は、申し込み料と解釈して。
「それがな、気の毒なことに……みんなや」
みんな?
真っ先に双子の可愛らしい横顔が頭に浮かぶ。
胸のあたりが苦しくなる。
「一家四人死んじゃうってコトなんですか?」
……やっぱり事故なのか。
此処を出て、帰り道かも。
「厭ですよ、そんなの」
悲惨すぎて、聖は泣きそうになった。
「落ちつきいや。にいちゃんのせいや、ない。……ただ黒い影は薄かった。今まで見た中で一番薄かったからな、まだわからん、かも」
この先の運次第で、助かるかもしれないと鈴子は言う。
「そうか、四人ともってコトは病気じゃない。事故に違いないですよね。それなら回避できる可能性はあるんだ。ねえ、そうですよね?」
「まあ、そうなんやけど……言いにくいんやけど……」
とまた黙ってしまった。
「何です?」
一人で聞くのが怖いから、通話をスピーカーにしてシロにも聞かせる。
「あんな、四人ちゃうで。三人やったで。夫婦と紫星中学の子三人やで。兄ちゃんが見たもう一人は、幽霊ちゃうか」
……嘘だろ。
双子が触っていた剥製のアリスに聞く。
「二人いたよなあ。一人は制服で一人はジャージ。あんなにはっきり見えてたんだ」
しかし、一人は居なかったと、鈴子は言ったのだ。
シロが短く吠える。
まだドアを閉めないでいるから
風で、黒い箱の上から千円札が散ってると、知らせてる。
聖はドアを閉め、床に落ちた札を拾い集める。
たったそれだけの動作がキツい。
死者の骨を集めてるみたいな感覚に襲われてしまう。
黒い箱にはまだ触れていない。
「シロ、空っぽだよな」
動物の死骸に犬が無関心の筈はない。
が、箱を指で軽く押した感触で、
何か入っていると解ってしまった。
「うわ」
驚いて叫ぶのと同時に
反射的に蓋を開けていた。
「えっ? なに、これ?」
中に入っていたモノを両手の平に挟み、しばらく……息をするのも忘れて見入った。
初めて見る、とても変わった、猫の剥製に、見えた。
紙粘土で作った、(歪な)座っている猫型の上に、
(生の)猫の毛皮を、ボンドで貼り付けている。
毛皮は所々弛み、頭部は芯が小さすぎで魚の顔のようになっている。
正視に耐えない、グロテスクな、素人が作った剥製だった。
聖は臭いを嗅ぐ。
「塩素?」
薬品の臭いが、毛皮に残った獣臭さを消している。
だからシロは近づかない。
「しっかし、コレを、生きた猫と思ったのかなあ」
話の通り、キジトラで片耳が欠けていた。
「なあシロ、剥製にしてくれって持ってきたのが、剥製だったんだぞ、俺どうしたらいい?」
聖は愛犬にぼやきながら、
不吉な気配に包まれたような不安から、
助けて欲しいと、
マユを求めていた。