山田鈴子の訪問
……昨日の夜か。
浴槽で殺された猫をその後どうしたか、聞かずとも解った。
聖は黒い箱に視線を落とす。
「もう頭が変になりそうで。捨てても焼いても、また戻ってくるに違いない……こんな話誰にも相談できません。狂人扱いされるに決まってる」
「途方に暮れました。それでね、死骸を捨てるから戻ってくるんじゃないかと考えたんです。主人に、いっそこのまま家の中に見える場所に置いといたらどうかと言いました」
しかし、死骸は腐敗する。現実的な解決方法ではない。
そして閃いた。剥製にしたらどうかと。
「剥製、で検索したら霊感剥製士が出てきました。私は祈祷だの悪霊払いだの、ああいうイカガワシイ世界とは無縁に生きてきたが、化け物を始末するには、これしかないと思ったんですよ」
聖は、自分はイカガワシイ部類かと、ちょっと傷ついた。
「お願いします。剥製にして、ここに飾っといてください。そしたら、もう二度と私たちのところには帰って来れない。ね、そう思いはるでしょう?」
すがるように妻の方が言うと、
男が財布から金を出し始めた。
半分腰が浮いている。
金と黒い箱を置いて引き上げるつもりか?
まだ引き受けるとも言ってないのに。
第一、名前も連絡先も聞いてない。
「スバル。帰るわよ」
妻が息子たちの方へ行く。
「もうこんな時間だ」
男は腕時計を見て眉をしかめ、
非難するように聖を一瞥して、おもむろに立ち上がる。
「ちょっと待ってください」
と聖が声を出したのと、
作業室の中でシロが大きくワンと吠えたのと、
入り口のドアが開いたのは同時だった。
ドアを開けたのは新たな来客だった。
「なんや、にいちゃん、おるやんか」
なんと山田鈴子が入ってきた。
高級ブランドと一目で分かるキャリーバッグと一緒に。
「社長? なんで?」
不測の事態に言葉が出ない。
「なんで突然くるんやと、文句言いたいやろうけど、何回電話しても出ないからやで」
スマホをマナーモードにして……パソコンの前に置いたから着信に気づかなかったのだ。
「日が暮れてしまうから、来たんや」
そんな事より、
鈴子が開けたドアから、名前も知らない一家が出て行ってしまったじゃないか。
「社長、すみません、」
聖は外へ駆け出る。
四人は、もう吊り橋を渡り切っていた。
「ちょっと待ってください」
聖は叫ぶ。
川の音に消されて、声が届いたかどうかは解らない。
一番後ろをいく男の背中が、グリーンのポロシャツが、
木立の中に消えていく。
鳥たちが短く鳴く。
吊り橋の下では岩の上でカラスが数羽、こっちを見てカアカアいう。
聖は追って行かなかった。
見慣れた山の景色に大きな歪みがあるような、不安な感覚が足を竦ませた。
「ふつうに、夕暮れだよな」
口に出した後でブルッと震えがきた。
(もうこんな時間)と男は言っていた。
(日が暮れてしまう)と鈴子は言っていた。
時計を見ると、五時半だった。
「……嘘だろ」
聖は午後一時に昼食を食べた。四人を吊り橋で見たのは食後すぐだった。
「俺は、猫の話、四時間も聞いてたか?」
時間の経過に納得できない。
彼らが工房に居たのはせいぜい三十分だと認識していた。
「兄ちゃん、はよ、この子窮屈なとこから出したって」
背中に鈴子の声。
ドアを半開きにして叫んでいる。
(この子……また何か持ってきたの?)
キャリーバッグを開けると、茶色い毛がみっちり詰まってた。
「あ」
聖は毛の中から顔を探り当て、見覚えがある犬だと分かった。
「今朝な、用事があって(前に聖と一緒に行った)アパートに、行ってん。そしたらな、この<熊犬>の臨終に鉢合わせたんや」
鈴子の所有するアパート近くで飼われていた老犬だった。
雑種の大型犬で小熊のような体型から<熊犬>と鈴子は呼んでいた。
「かわいいなあ。名前コロだっけ。犬小屋に書いてた」
「そうなんか? うち名前はしらんけどな、長年アパートの番をしてくれてたからな、感謝してるねん」
「飼い主はこの子を剥製にしたいんですか?」
大型犬の剥製依頼は珍しい。
「いいや。どこに埋めたらいいか困ってたからな、貰ってきたんや」
「へっ?……つまり、ここに持ってきたのは、埋める為、ですか?」
「何言ってるんや。兄ちゃんが、この犬気に入ってたから、喜ぶやろうと思って貰ってきてあげたんや。剥製にして、ここに置いといたらいいやんか」
と言って鈴子は微笑む。
レモン色のシフォンのブラウスの胸でトパーズのペンダントが揺れる。
指にも大粒のトパーズの指輪。
黒い光沢のあるスリムなパンツに金色のミュール。
聖は鈴子という人を改めて眺めた。
「つまり、俺が欲しがると思って、わざわざ、貰ってきて呉れた、わけだ」
……俺、犬の死体をプレゼントされたんだ。
驚きを通り越して、感動してしまった。
「剥製にすると、飼い主には伝えてあるで。喜んでたよ。どこかで可愛がってもらえるなら嬉しいってな。年寄り夫婦で子供がないねん。車もないしお金もない。庭はコンクリート敷いてるから埋められへん。困ってはったんや」
喋りながら、時計を見て、
「あかん、もう帰らな」
さっさと出て行ってしまった。
聖は慌てて後を追った。
「県道まで送ります」
山道を一人で返せない。
いつも側に居る、白いスーツで金髪の男が、吊り橋にいた。
ヒトではない。
鈴子には見えていない。
そして山の生き物が、彼を怖がってるのも知らない。
動物たちが怖がる黄色と黒の服着て、
山を恐れていない、いや何も恐れていない鈴子も
驚異に違いない。
だから(山の生き物たちの為に)自分が同行しようと思った。
県道に黒いベンツが停まっていた。
運転手の沢田が降りてきてドアを開ける。
「兄ちゃん、さっきの客は前払いか?」
後部座席に乗り込みながら、ふと思い出したように鈴子が聞く。
「えーと」
なんと答えていいか分からない。
<黒い箱>や<化け猫>のコトが
<鈴子>と<熊犬>の登場で、頭から飛んでる。
でも、なんでそんな事を聞くのか?
「おせっかいかも知らんけど、もし後払いやったら損するで」
鈴子の悲しげな目が何を意味するか、
気づいた時には車は発進していた。
山田鈴子は死に神が見える人だった。




