薫の汗
「カオルの話では、父親は、スバルの進級が危うくなった年末頃から、<一家心中>の四文字が頭の隅にあったらしいよ」
「ソラ君の不登校も、悩みの種だったんでしょう?」
「ソラの事は、とっくに諦め、なるべく存在を忘れようとしてたって」
「まるで、ソラ君なら死んでも良かったみたい。ヒドイね」
「うん。浦上は、葬式の最中に隣に居るのがソラと判った。早合点して、大きな間違いをしたと気づき、死んだのは優秀な息子だった事実に絶望して一家心中の旅に出た、と思うだろ?」
「違うの?」
「浦上はね、死んだソラが蘇ってスバルに取り憑いたと、一番最初に思ったんた」
「そうなの? ソレって、殺しても捨てても戻ってくる化け猫と似てるかも」
セレモニーホールから家に帰ると、
(すぐに出かけるから、着替えを鞄に詰めなさい。この家は化け物が取り憑いてる)
妻と一人の息子に言った。
どこへいくの?
言われた二人は聞けなかった。
血が上った赤ら顔に
なんの表情もない。
質問も反論も許さない雰囲気が怖かった。
妻に、死んだのは昴とは教えなかった。
妻は、空を昴と呼び続けるしかなかった。
空は昴のふりをやめられない。
「浦上は、家を出たとき、戻ってきたソラを自分の手で、ちゃんと成仏させなきゃいけないと思ったんだって」
「じゃあ、剥製猫のように、死んだのに戻ってきたソラ君を捨てに行ったわけ? 遺体が一つ、生きてるのはソラ君、なら死んだのはスバル君と、ちょっと考えたら事実はわかるでしょうに」
「考えなくてもわかるさ。でも受け入れられない。スバルの成績不振の事実から眼を背け続けたのと同じように、耐えがたい事態を受け止めるのを拒否したんだ。……カオルは、先に、一家心中を覚悟していて、そこに至るまでのストーリーを自分が楽な方に、こしらえたんだと分析してたけど」
「……ちょっと、それ、わかんないよ」
「浦上は死んだのに蘇ったソラを、一人で逝かせる気は無かった。父も、母も一緒に涅槃に同行してやる、つまり、結果的には一家心中だろ? 」
「うん。そうよね」
「ちゃんと事実はわかってる。そして家族に未来は無い、死のうと決めている。
……惨めで追い詰められて死ぬより、荒唐無稽な超自然な理由で、生死の境を跳ぼうとした。
自殺に至るひとは、それぞれの、現実からズレた物語の主人公になってるみたいだと、コレもカオルが言
ってたけどね。<美しい、ロマンのある死>を掴んじゃうとヤバイって」
浦上は、月ヶ瀬ダムに、車ごと突っ込むつもりだった。
しかし、春休みで快晴。目的地まで大渋滞。……疲れた。急ぐ死でも無い。民宿で一泊した。浦上は元々酒好き。その晩はかなり飲んだ。
翌朝、若干気分が変わった。死ぬ意思が揺らぐ程ではないが、もう金を使い果たしてもいいんだと気がつく。
カードローン使っても返済しなくていいし。自由なんだと。
「ありがちなことね。それから、最後の贅沢な旅が始まったのかな」
「そういう事。京都や神戸の高級旅館に泊まったりね。いよいよ金が尽きて、月ヶ瀬ダム近くに舞戻った夜に、また<化け猫>が出現した」
「タイミングを見計らって、お母さんがホテルの風呂場に置いたのよ。怖かったでしょうね」
「そう。怖くて、ここに来たわけ。でもさ、結局死にきれないで、車で寝て過ごしてたんだ。世間から離れて三人で過ごす間に、浦上は現実を受け入れ、死ぬ以外の未来を、新たな物語を描くことができたのかも」
「お母さんは、それも見抜いていたのよ、きっと。息子の一人が突然亡くなって、一番辛かったでしょうに、凄いわよ。結果的に<一家心中>は回避できたんだもの」
聖は、マユの推理は正しい気がした。
案外、ここに浦上が来たのも妻の誘導かもしれないと
今では思う。
「ねえ、死んだのがスバル君と分かっても、自殺だと、両親は思ってたのかしら?」
「それは全く疑っていなかったらしい」
「ソラ君も黙ってたし」
「言いそびれたんだろ。自分がスバルじゃないとも言えなかったくらいだから。それにあの子は生きていく気力を無くしてたからね。元々、自殺を企てたのをスバルに邪魔されたんだから」
「ところで、その後、スバル君は、どうなったの?」
「それがさ、」
言いかけたら
シロが吠えた。
バタンと大きな音を立ててドアが開き、
五分刈りで四角い大きな顔が中を覗く。
結月薫だ。
「……ひいいっ」
なんで、突然来る?
しかも、またマユがいるときに……、
「驚かせたか。電話もでえへんし、ノックしたけど、返事ないから」
太い八文字眉の右だけが下がる
白い長袖のポロシャツに黒いGパン。
腰回りがすっきりしてる。
仕事中ではない。
聖は応接セットのソファに、座っていた。
薫が入ってきたドアに背を向けた位置に。
マユは向かいに座っている。
薫と、まともに合わせるポジションだ。
マユはまだ居る。
少々困惑した表情で。
「お前、山ん中の一軒家でも、玄関に鍵付けといた方がいいんちゃうか」
薫は、ハンカチで顔の汗を拭きながら、ドアの構造を確認して言う。
神流剥製工房の入り口に、鍵は無い。
最初から無い。
だから、
コイツとか、山田鈴子とかが、(聖にすれば)忽然と現れるのか、
と、初めてわかり、今更ながら、納得した。
薫は、聖の隣に座った。
正面にはマユ。
その姿が見えていなければ、不自然な座り位置だ。
「浦上のおっさん、家の前でマスコミの取材に応じてる動画が、凄いアクセスらしいで」
薫は、聖に上体を向けて、言う。
「そうなの? なんで?」
マユが興味をそそられた表情を見せたから聞いた。
浦上空が浦上昴を殺した事件について
聖はネット上の情報を全く見ていない。
「私のせいです。双子の息子の一人が、亡くなったのは、父親の責任です。全て私の、大きな間違いが招いた不幸です。……世間をお騒がせして申し訳ないです。どんな責めも罵倒も甘んじて受けます。私は命あるかぎり、残された息子が、世間様にご迷惑をかけないよう責任を持ちます……、どうか、ご安心ください」
薫は、スマホの動画を聖に見せた。
イチジク台の浦上家の前で父親が喋ってる。
がっしりした身体に似合わない細い高い声は、
柔らかく優しい。
オーバーリアクションもなく、
淡々と語る姿は
坊主か神父のような
聖職者のオーラに包まれている。
「なあ、聖、この世の中には不可思議な事も、多々あるみたいやな。……この浦上の動画を見て、『救われた』というツィートが、メッチャ多いらしいんや」
「救われた、のか?」
意外だった。
「深刻な問題を抱えて、一家心中一歩手前の家族が、それだけ多いっていうことやろ。家庭内の揉め事です、世間様に迷惑はかけません、というメッセージがな、家の中ぐしゃぐしゃで、縮こまって生きてる人たちの救いになった、みたいやで」
メッセージの内容だけじゃない。
何を語るかは、
何者が語るかより重くない。
浦上の謝罪動画が
数十万再生されているのは、
見てしまう、声を聞いてしまう魅力があるからだ。
特別なオーラが双子の父にはある。
「名門中学に通ってた自慢の息子は死んで、そのうえ、残った不登校の、出来の良くない息子は人殺し……状況は最悪。なのに、父親は、元気そうじゃん」
率直な感想を薫にいう。
正面でマユがうなずく。
「あ、それがな、今になって父親がな、スバルは自殺やと言い出した」
「はあ? どういう事? 本人が殺したと言ってるのに。……ソラは供述を変えたのか?」
「いいや。一貫して自分が殺したと言ってる。状況説明にブレもない。でも物証がない」
「自白は重大な証拠扱い、なんだろ?」
「けどな、スバルの検死したドクターがな、自死と診断したのを曲げないんや」
「他殺を疑わなかったんで、見落としたんだろ?」
「とは、絶対認めない。それにな、両親が首にコード巻いてるスバルを発見したとき、部屋にソラはいなかったと言ってる。しかも部屋には鍵が掛かっていたと」
「ソラが叫んだから、部屋に入って来たんだろ?」
「ソラは、そう言ってる。大きな相違点やな。両親の供述に証拠はない。が、虚言やという証拠もない」
「けど、ソラは正直に自白してるんだし、」
人殺しの印があるとは言えない。
「……あの子、<咳止めシロップ>中毒やねん」
「咳止めシロップ?」
聖はソラの口から、自殺の前に<咳止めシロップ>を飲んだと聞いた。
忘れてはいないが、刑事に迂闊には喋れない。
「不登校で引きこもりやった事実もある。精神疾患の疑いが出てくる訳や。そうなると、妄想、乖離の可能性もある。死んだ弟に成り代わってたのも、異常行動と捉えられる」
「そう、なるのか」
「少年やからな。すべてにおいて慎重に、時間を掛けて対応していくことになるなあ。……まあ、何はともあれ、浦上が一家心中を思いとどまってくれたのは不幸中の幸いや」
思いとどまって、完全にふっきれたのか?
浦上の嘘は
空のためか?
それとも人殺しの息子を受け入れがたく、
新たな妄想が沸いてきたのか?
分からないが
マスコミのカメラの前で淡々と語り、
何度も頭を下げる男は、愛する者を守る盾になろうとしてるには違いない。
生きる道を選び、
家族を守るためには手段を選ばぬ、そんな気配が伝わってくる。
浦上は新たな物語を得たのか?
エンディングが<死>でないなら救いはあると言えるのか。
この、一見地味な男の意思や願望は
周りに影響を与える。
時には時間感覚を狂わせる程に。
心霊の世界がイカガワシイと言っていた本人は
自分の能力に全く気づいてないだろうが。
「浦上のおっさん、完全に戦いモードになってる。世間の好奇な目に晒されながらも、家からも職場からも逃げんと、踏ん張ってるからな。
……もう、背中に死神も憑いてないしな」
薫は最後の言葉を
マユを見て言った。
コイツ、マユと話すつもりか?
動揺の次に、
薫の言葉に、引っかかる。
……背中に死神?
比喩か?
それとも、<死神>も見えるのか?
「ところで、お前、こんな話する為にわざわざ来たのか?」
いろいろ聞きたいが、それはマユの居ないときにして欲しい。
今は、とっとと出て行ってくれ。
そんな思いで語気が荒くなる。
「いや、お前に届け物があった」
さらりと言って腰を上げた。
「何?」
手ぶらだ。
「臭いから、外に置いてある。ソラの母親が、お前に、セットで引き取ってくれって。亭主には内緒でな」
「……?」
「また、来るで。そうやな……あと1回は、お前に会いに来るで」
結月薫は
額の汗を拭きながら出て行った。
聖も、外に置いてある届け物を取りに一緒に。
闇の中
薫は中型のオートバイにまたがって、
吊り橋を、ゆっくり渡っていく。
ガサガサと反応する鳥と獣の気配。
梅雨最中に珍しく晴れた夜。
下弦の月と白い星がくっきり見える。
ドアの横には、ポリ袋に入った<剥製猫たち>があった。