夢からの目覚め
恥ずかしそうに俯いた小さな女の子の背中を、隣に立っていた母親らしき女性がポン、と軽い動作で叩いた。
あまり強い力ではなかったものの、まだまだ幼い女の子にとっては、体のバランスを崩すには十分な強さだったために、その小さな体は一歩分前へと大きくよろめいた。
「ほら、ちゃんと挨拶しなさい」
「う、うん」
頷いてみたはいいが、なかなか次の言葉が出ない。
チラチラと、正面に立つ初めて見る人間を見ては口ごもり、ぎゅう、とスカートの端を強く握り締める。
女の子の目の前には、母親と同じ年頃の女性と、これまた女の子と同じ年頃に見える小さな男の子がいた。
女性は緊張したようにモジモジとする女の子を微笑ましそうに見ていて、男の子はといえば、笑顔を浮かべるわけでもなく、ただじぃっと女の子を見つめているだけで、何かをしようとはしない。それは女の子の母親も同じだった。
男の子の視線は、この女の子は誰なのだろう、という疑問からくるものではなく、何かを見定めるような、それでいて友達になりたいというような意思も感じられない、なんとも不気味なものだった。
女の子は幼いながらに、その視線の異様さを感じ取り、得も知れない不安に苛まれ、あれだけ家を出る前に母親と練習した挨拶が中々口から出てこなかった。何度か口を開いては閉じてを繰り返し、大きく息を吸い込んで、俯いていた顔を勢い良く上げた。そしてそのまま真っ直ぐに、自分を見つめている男の子を見つめ返す。
バチッ、と視線が勝ち合い火花が散ったような熱を感じて、女の子は思わず視線を逸らそうとし、―――――――
「………っ!」
男の子が、それを許さないとばかりに女の子の手を両手で掴んだ。突然の出来事に肩を震わせ、咄嗟に体を引こうとして、出来なかった。女の子の意思は逃げようとしているのに、どういうわけかその体は微動だにしなかった。
まるで金縛りにあったみたいに、一寸たりとも動こうとはしない。
不安に揺れる女の子の瞳を見て、男の子は形のいい唇を弓なりに釣り上げた。
「……ぁ…っ」
男の子が、初めて笑った。
その、笑顔に、女の子は―――――――、
夢を見ていた。ずっとずっと昔の夢だ。閉じた瞼の奥にふわふわと浮かぶのは過去の記憶で、これが走馬灯ってやつなのかと、ぼんやりと思った。
どれもこれもあいつと一緒にいる記憶ばかり。
楽しいことなんて一つもなかった。
日記に書いた出来事は全てが嘘っぱちで、あいつに盗られたものを埋めるために書いていたようなもので。
親友なんて、本当はいなかった。みんなに同情もされていなかった。みんなみんな、嘘っぱち。すべて、架空の存在。出来事。
ほんとうは、みんなわたしのことがきらいだった。
いつもあいつの隣にいられて、幼馴染っていうだけで特別扱いされて、誰よりも長くあいつと過ごしていられて。
誰もが思っていた。
羨ましい、妬ましい、鬱陶しい。彼に気に入られて好かれて、さぞかし幸せなんでしょうね。実際に言われたこともある。
そう言われるたびに、わたしは耳を塞いだ。目を閉じた。口を噤んだ。何も感じない人形に徹することにした。
でも、本当は聞きたかった。
ねえ、それは本当に幸せなの?って。
わたしは、あいつと一緒にいるとき、一度も楽しいなんて思ったことはない。それこそ、幸せだと感じたことも。
だって、それって、つまりはあいつとしか一緒にいなかったってことで。あいつとしかいれなかったってことで。
誰がそんな生活を望むの?
あいつはわたしのことを気に入ってはいるけれど、気にしてはくれない。そんなの、わたしの感情なんてないようなものじゃないか。
わたしの世界には、家族でも、ましてや弟でもなく、あいつだけが君臨していた。あいつがわたしのちっぽけな世界を支配していた。
わたしには、皮肉なことにあいつしかいなかったのだ。
友達なんて、一人もいなかった。
家族でさえも、あいつがいれば安心だと笑った。こうやって、わたしは死んでしまったのに馬鹿みたい。ほんと、馬鹿ばっか。わたしも、みんなも。
あいつがいなければ、誰もわたしを相手にしてくれない。誰も見向きもしてくれない。
なんでなんでなんでなんで。
わたしはわたしなのに、誰も認めてくれない。それって、生きてるっていえるの?生かされてるの間違いじゃなくて?
だから、わたしは死んで当然なのかもしれない。だって、価値なんてなかったのだから。
ふわふわと浮かんでは消えていく記憶。涙はでなかった。悲しくなんてなかったのだから、当たり前だろうけど。
でも、それでも。
ーー死にたくなんて、なかったーー
こんな、最後は嫌だった。
こんな、人生は嫌だった。
もっと、幸せな。胸を張って楽しいと言えるような。そんな生活がしたかった。
だから、わたしは。
今度こそ、と。
キツく結んでいた瞼を上げて目を覚ましたわたしの目の前には、新しい世界が広がっていた。