春・風・猫
季節は早春。
風の無い日。
猫が訪れた。
彼女と共に。
俺のもとへ。
風道市。周囲の地形や気候の関係で、一年中強い風が吹いていることで有名な町だ。その特性を活かすために市中いたる所に風車が立てられており、名物になっている。
しかし、逆に言えばそれぐらいしか特筆することが無い辺鄙な所である。しかも今日に限って言えば風が吹いておらず、風車の意味を成していない始末だ。
「何度見ても変わらぬこの風景……いい加減飽き飽きなんだが」
俺は、いつもとなんら変わるところが無い窓の外の景色――窓のすぐ傍に生えている木、民家の屋根、そして、家々の間を縫うように聳え立つ風車を見て呟いた。
俺が今いるのは、市立風道高校の部室棟の一室。
市立風道高校とは、風道市にいくつかある高校の中で最も古い高校だ、ちょっとした高台の上に立っており、風道市を一望できる。といっても見えるのは風車だけだが。
そんな高校の部室棟の一室で俺は一人、景色を見つめていた。何故なんて明確な理由はなく、ただ単に暇なだけである。なんせこの部室に来るような特異な人間は今では俺一人だからだ。
「はあ……暇だ」
現状を憂いてみるも何かが起こる訳もなく、何かを起こす気もなく、日々が無情に過ぎていくのみ。
「置いてある本は一周したんだけど……もう一回読んでくか」
俺が本棚に目を向けた瞬間、何かが窓からの光を遮った。
ん? なんだ? と呟きながら窓に目を向けるとそこには――
「みゃぁ」
――猫がいた。
毛並みは全身真っ黒で、瞳は黄金色に輝いている。まるで魔女の使い魔のようだ。魔女の使い魔なんて見たことないけど。
「お前なんでこんな所に入ってきたんだ? ここは二階だから不可能じゃないが――いや、前にもいたな」
俺の言葉にもお構い無しに、猫は我が物顔で部室に侵入してくると真っ直ぐに俺に向かって来た。
普通は警戒するはずなんだけど、人に馴れてるのかな? なんて考えてるうちに、猫が俺に擦り寄ってくる。
「いやいや、いくら人に馴れてるっつっても初対面でこれはおかしいだろ」
猫は基本的に警戒心の強い生き物だ。
初対面の人間には近付かないし、時間をかけたって懐かないことも多い。野良猫なら近づくことさえ難しい。
「ん? なんだ、飼い猫か」
黒い毛に隠れてわからなかったが、よく見れば首元に紺色の首輪をしていた。黒猫に紺の首輪とは変な趣味をしているな。
子猫の頃から人に飼われていると、人に対する警戒心が弱くなる。人が怖いものだと思わないからだ。この猫が飼い猫なら、いきなり擦り寄ってきたのもわかる。
「迷い猫なら、お前のご主人様はどこにいるんだ?」
俺の問いかけに意味ありげな視線を返しながらも、足元からは動こうとせずに甘えた声を出す。答える気はないらしい。
とりあえず猫を抱え上げ、撫で回す。うむ、満足そうな顔が拝めて余も満足じゃ。……口調すら変えるとは猫の魔力は恐ろしい。
「しっかし、どうすっか。親探ししないとなあ」
俺が今後の予定を練ろうとした時、人が来るはずのないこの部室にノックの音が響いた。
思わず猫を床に落とす。落とされた猫は何事も無かったかのように着地し、何事も無かったかのように擦り寄ってくる。こいつはいいやつだな、飼い猫じゃなかったら飼いたいくらいだ。
なんて現実逃避しても状況は逃がしてくれず、再度扉がノックされる。
……なぜ動揺なんてしたんだろうか。返事を返すだけなんだから、何も気負うことはない。
「ど、どうぞー」
「あ、し、ししし失礼します!」
……緊張なんてしてないし、どもってもいない。コミュニケーション障害などでは断じてない。
部屋へと入ってきたのは、この学校の生徒だった。上履きの色から一年生ということがわかる。
「この部室に何か用が?」
「えっと、そ、その……あ、いた!」
俺の質問には答えず、女生徒は一点を指さす。その指の先には、猫がいた。
「あ、こいつの飼い主かな?」
「もう、探したんだからね! 急に走り出したと思ったら窓から入っちゃうし、全く」
俺の質問には答えない方針らしい。
俺を無視して猫に詰め寄る女生徒。対して猫は、先程までと百八十度変わって物凄く嫌そうな顔をしている。同じ猫とは思えない渋面だ。
と、よっぽど女生徒が嫌だったのか、猫が俺に隠れるようにして位置を変える。すると猫へ近づいていた女生徒の視界に俺が入ることになり、まあ、やっと俺が認識してもらえるわけだ。
「ああ! ご、ごめんなさい!」
「大丈夫、気にしてないから」
「あ、そうですか」
……なんだろうか。短時間……いや、目が合っただけの相手にこうまで嫌われるものだろうか。
俺が人とのコミュニケーションについて悩んでると、女生徒はまた猫に話しかけた。
「なんで君はその人にくっついてるのかな? 私には触らせてくれないのに!」
嫌われた理由が発覚した。
しかし、このままでは話が進まないから、無理に女生徒と目を合わせるようにして話しかける。
「猫の事は置いといてさ、君が飼い主かな?」
「あ、違います。私もこの子を拾ったんですよ」
「拾った?」
「ええ、歩いてたら道端に倒れてて。私それ見て放っておけなくて、連れて帰って手当してあげたんです。その時に飼い猫だってことがわかって、今日は飼い主を探そうと思って連れてきたんです。それで一緒に歩いてきたらこの辺りにきていきなり走り出して、慌てて追いかけてきたんです」
……俺が嫌われたわけじゃなく、まず人の話を聞かない子みたいだ。まあ、知りたいことは大体わかったからいいけど。
「飼い主を探すのに猫を連れて来たのか?」
「はい、そうです。この子が連れてってくれるかなと」
「……それより前に張り紙をしたりとか、人づてに聞きこみをしてみるとかは考えなかった?」
「……ほら、案内してもらった方が早いと思うので」
「猫は三日で恩を忘れるって諺があってな、帰属意識がかなり低いんだ。自由気ままな生き物だから、飼い主の元まで案内してくれるとは思えない」
「……こ、この子ならきっと!」
物凄く不安だ。たぶんこの女生徒、一時的とはいえ動物を飼うことの意味すら分かってない。そんな人に猫を任せたくないんだが……どうしたものか。
「あ、あの……」
「ん?」
「猫のこと詳しいんですか?」
「まあ、そこそこ」
「猫のこと教えてくれませんか!?」
それは思っても無かった申し出だ。どうやら、わかってないだけで覚えようとする気概はあるらしい。
「別にかまわないよ。何が知りたい?」
「全部です!」
思い込んだら突っ走り、周りのことは見えなくなる。熱意だけは一人前と。なんて傍迷惑な女生徒だろうか。
しかし、そんなのも嫌いじゃない俺がいる。ここ最近は静か過ぎたんだ、うるさくなるのも悪くない。
「全部か……じゃあまずは、五冊程読まなきゃいけない本があるな」
「え゛っ」
「ぷっ……本は嫌いか?」
「い、いや、ほら、五冊も揃えたらお金無くなります!」
「ああ、その辺は大丈夫。周りをよく見てみな」
ようやく自分がどこにいるのかわかったのか、女生徒の目が徐々に驚きに染まっていく。
一方の壁側には本棚が並び、生物図鑑から動物の飼い方指南書、果ては解剖学書まで生き物に関する書籍がずらりと揃っている。もう一方の壁側には鳥籠、虫籠、小動物用のケージなどがごろごろ転がっており、隅の方にはペット用のトイレも積んである。部屋の中央には机と椅子、ソファーまで完備だ。ソファーの上にはクッションやペットのおもちゃがいくつも置いてある。総じて、動物を飼うためにあるかのような部屋だ。
「こ……これは?」
「うちはそういう部活で、ここはそういう部室なんだよ」
「は、はあ……」
戸惑っているみたいだが、俺には分かる。彼女は思い込んだら突っ走り、周りのことが見えなくなるが、熱意だけは人一倍なんだ。
「うちの部に入ればそこの本が読み放題、俺も知ってる限りのことを教える」
「……本当ですね?」
「ああ」
ふと吹いてきた風が、俺と彼女と猫を包み込む。
これまでの退屈な日々が、変わる予感がした。
「私、ここに入ろうと思います」
「ようこそ、風道高校生物部へ」
俺の退屈な日々。
懐かしむ日々は。
君と猫が壊した。
俺の楽しい日々。
忘れない日々は。
君と猫のくれたもの。
季節感無視です。




