5 ひなたのために
「あーゆーむー!」
名前を呼ばれて足を止める。振り返るとひかりが、店らしき建物の前で手を振っている。
「ここだよー! スーパー!」
確かにぼうっとしていたけれど、その店はスーパーというより、古びた小さな雑貨屋で、僕が通り過ぎてしまったのも無理はない。
のろのろとUターンをして、店の前に自転車を止める。するとひかりが僕を見て、ぺこっと頭を下げた。
「ごめん。からかったりして」
「……別に、もういいよ」
「まさか歩が、泣いちゃうとは思わなかったからさ」
とっさに頬に手を当てた。汗だか涙だかわからない液体を、あわてて腕で拭う。
ひかりはそんな僕の手に、タオル地のハンカチを握らせる。そして、ほんの少しだけ僕に笑いかけ、店の中へ入っていった。
「こんにちはー! 今日も暑いですねー」
ひかりの明るい声が耳に響く。店の中にいたおばあさんと、楽しそうに話し出すひかり。
ここに越してきて、まだ三か月だと言っていたのに、その姿は、ずっと前から住んでいる人みたいな雰囲気だ。
あきれたような、うらやましいような気持ちを胸に、僕はハンカチで汗を拭って、ひかりのもとへ駆け寄った。
ママチャリに雑貨屋で買った荷物を載せて、砂利道を走る。僕の前には、来た時と同じ、鼻歌を歌うひかりの背中。
真上に昇った太陽を睨みつつ、腹が減ったことに気がつく。もうお昼か……。ハンドルを握る手にも、汗がじんわりとにじむ。
「妹は?」
あんまり暑くて、何か気をそらすことはないかと思い、前を走るひかりに何気なく尋ねる。
「妹は……家にいるの?」
ふふっと笑ってひかりが振り向く。
「なに? ひなたのこと、そんなに気になる?」
「そんなんじゃないって! あんたら、いつも一緒なんだろ? 妹はついてこないのかって、聞いてんの!」
「ひなたは……」
ひかりが前を向き、少しだけスピードを緩める。
「病気なんだ。だから、毎日家にいる」
「……病気?」
なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、思わず黙り込んだ僕に、ひかりが言う。
「あたしがさー、お母さんのお腹にいる時、全部いいとこ取っちゃったみたいなんだよねぇ」
僕は黙って、空を見上げるひかりの背中を見つめていた。
「だから……あたしのせいなんだ。あたしのせいで、ひなたは病気になっちゃって……ほとんど学校にも行ってない」
そんなの……あんたのせいじゃないだろう? 口を開こうとした僕を遮るように、ひかりが自転車をキュッと止める。
「ここは空気がいいでしょ? のんびりしてて、景色もいいし。だからあたしたち、ここに引っ越してきたんだ」
「ひなたのために?」
ブレーキをかけながらつぶやいた。何でそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。
「病気のひなたのために、東京からこんな田舎に引っ越してきたわけ?」
ひかりが僕の顔を見ていた。その真っすぐな視線に、なぜか胸がざわざわする。
「そうだよ。あたしも、あたしの家族も、ひなたのためなら、なんでもできる」
ひかりがそう言って笑った。いつものように、何の悩みもないみたいにあっけらかんと。
そしてひかりはまた自転車を走らせる。蝉の鳴き声に交じって、ひかりのちょっと音程はずれな歌声が聞こえてくる。
僕は――僕はひかりみたいに笑えない。僕は、本当は恨んでいるから。
僕をこんな田舎に追いやった、父さんと母さんのことを。
僕のことをきっと忘れてしまう、中学の友達や理紗のことを。
そして、流されるままにそれを受け入れてしまった、自分のことを。
「ひかりっ!」
ペダルをぐんっと踏み込んでスピードを上げる。前を見つめたまま走っている、ひかりの隣に並んで、その顔をのぞきこむ。
「うわぁ、なんなの?」
ひかりが僕を見て、甲高い声で笑う。
「いや……別に」
「へんなの。やらしーなー、もう」
「どこがやらしいんだよっ!」
ひかりが逃げるようにスピードを上げた。僕はそんなひかりの後を追いかける。
もしかしたら、ひかりが泣いているのかもなんて思ったのは、どうしてだろうか。