4 ペンケースのアライグマ
何もすることがないので、ばあちゃんに頼まれた物を買いに、自転車を走らせる。かなり、いや、恐ろしく年季が入ったこのママチャリは、母さんが昔、乗っていた物らしい。
そして僕の前で、気持ちよさそうに自転車をこいでいるのは、ひかりだ。
「スーパーまで連れてってあげる。ついておいで」
親切なのか、暇人なのか、朝からずっと、ひかりは僕につきまとっている。というか、見た目、ついて回っているのは、僕のほうかもしれないけれど。
「あんたも暇だね。せっかくの夏休みなのに、友達と遊ぶとか、デートするとか、そういうのないのかよ?」
日焼けするのも気にならないのか、今日もタンクトップ一枚で、のん気に鼻歌なんか歌っているひかり。その背中に、ちょっと意地悪く言ってみる。
「友達かぁ……あたし、物心ついた頃から、ずっとひなたと一緒だったからな。ひなたがいればそれでいい」
双子ってそういうものなのか? 双子どころか、兄弟もいない僕には、さっぱりわからないけれど。
「それより、歩はどうなのさ? 東京に、彼女置いてきちゃったんじゃないの?」
「彼女なんて……いるわけない」
そう、理紗は『彼女』じゃないし。「好き」とか「付き合って」とか、言ったことも、言われたこともない。
「じゃあ、これは?」
突然ひかりが自転車を止め、振り返る。その指先にぶらぶらと揺れているのは、理紗が作ったマスコット……。
「なっ……なんでそれ持って……」
僕は、僕が思った以上に動揺していたようだ。乗っていた自転車をひっくり返し、ひかりの手からそれを奪い取る。
「可愛いね。合格祈願のタヌキさん?」
「タヌキじゃねぇよ……アライグマだよ」
ひかりがにやにやと笑っている。
「さっき歩のポケットから落ちたから」
「だったら、すぐに教えろよっ」
「なにさ、せっかく拾ってあげたのに。大事な物なんでしょ? 感謝してくれたって、いいじゃん」
僕はさりげなく、アライグマをポケットに押し込む。確かにタヌキにしか見えないアライグマのお腹に、『合格』って縫いこまれている、下手くそなマスコット。
理紗のペンケースにぶら下がっていて、僕はそれをいつも横目で眺めていた。
『なにそれ? タヌキ?』
『違うよっ! アライグマなのっ!』
確か理紗とも、そんな会話をした。タヌキでも、アライグマでも、どっちでもよかった。理紗と、話すきっかけが欲しかっただけなんだ。
自転車を立て直し、ゆっくりと走らせ、ひかりを追い抜く。
「あ、ちょっと待ってよ! 歩ー?」
その声には答えずに、前だけ見て自転車をこぐ。
真っすぐ真っすぐ続いている田舎道。後ろからキコキコと音を立てて、ひかりが僕を追いかけてくる。
汗が額からじわじわと浮き出て、頬を伝って流れ落ちた。それが汗ではなくて、涙なのだと気づいてしまい、自転車をこぐ足をあわてて速める。
「転校しても、メールするし」
「遊びに来いよ。またカラオケ行こうぜ」
一学期最後の日、クラスの連中や、テニス部だった仲間は、僕に気を使ってそう言ってくれた。だけど、僕はわかっている。
みんなにはいつも通りの毎日が続いて、文句を言いながらも受験勉強をして、高校に受かって、また新しい生活が始まる。
僕のことなんか、きっとすぐに忘れてしまう。
みんなと別れて一人で歩いた。道の先で固まっている女子の集団。すると突然、その中の一人が振り向いて、僕に駆け寄ってきた。
「歩っ。これ!」
目の前に現れたのは理紗だった。少し息をきらして、ポニーテールを揺らしている。
理紗は素早く僕の手をとると、その手の中に柔らかなものを握らせた。
「……元気でね」
すぐに理紗は背中を向けた。笑っていたのか、泣いていたのか、わからない。僕も、どんな顔をしていたのか、わからない。
理紗は走って友達の中に交じると、何事もなかったかのように行ってしまった。
僕はその場に立ち止ったまま、ゆっくりと手を開く。理紗のペンケースについていたアライグマが、僕の手の中にあった。