13 夜空
雨上がりの蒸し暑い風が、窓から吹き込む。僕は布団に寝ころび、ずっと天井を眺めていた。
眠ろうと思っても眠れない。さっき見てしまった、ひなたの涙が頭から離れない。
僕は部屋から抜け出すと、縁側から庭へ出た。
あたりは真っ暗で静まり返っていた。庭から砂利道へ出て、ひかりたちの家を見る。部屋の灯りはもう消えていて、虫の鳴き声以外は何も聞こえない。
僕は振り返り、ひかりの家とは反対方向へ歩き出した。別に行くあてなんかなかったけれど、なんとなく一人で歩きたい気分だった。
――だってさ、どこまでも歩いてみたかったんだもん。
いつかのひかりの言葉が頭をよぎる。
なんだ。やってることはあいつと同じだ。そう思ったらおかしくなって、なんだか笑えた。
その時ふと人の気配がして、僕はビビって足を止める。
「……ひかり?」
暗闇で目を凝らすと、そこに立っていたのはひかりだった。いつもみたいに、タンクトップにショートパンツ姿で、きょとんとした顔をして。
「歩? なにやってんの? こんな時間に」
「だから、それはこっちが聞きたい」
僕はともかく、あんたは一応女の子だろう? 都会にいるような変質者はいないとしても、こんな真っ暗闇の中をたった一人で……。
「星を……見てた」
ポツンと響くひかりの声。
「こんな綺麗な夜空、寝てたらもったいないよ」
ひかりと一緒に空を見上げる。僕たちの上に瞬くいくつもの星。東京の空とは違う空。『夜空』というのはこういうものなんだと、あらためて僕は気づく。
「いつも、見てるの?」
空を見ながらつぶやいた。
「いつも、一人で見てるの?」
「たまにね。眠れない夜とか」
「あんたでも、眠れない夜なんかあるんだ」
僕の言葉にひかりが軽く笑って、ゆっくりと歩き出す。僕はそんなひかりの背中を、黙って見つめる。
細くて小さくて、僕なんかよりずっと弱い、女の子の背中を……。
「自分のこと、忘れられちゃうのって悲しいよね」
夜風に乗って、ひかりの声が流れてきた。
「自分だけがいなくなって、みんなから忘れられちゃうのって……寂しいよね」
ひかりが前を向いたまま、ひとり言のようにつぶやく。そして小さく息を吐くと、僕に振り向いて言った。
「ひなたの病気ね……あんまりよくないんだ」
僕はただぼんやりと、その声を聞いていた。
「ここに越してきたのはね、ひなたの最後の願いを叶えてあげて、少しでもたくさんの思い出を作って欲しいと思ったから」
「最後のって……」
ひかりが暗闇の中で僕を見た。ひかりは笑っていなかった。
「……ごめん」
ひかりの指先が、僕のTシャツをつかむ。ぎゅっと握りしめたその手が、かすかに震えている。
「ごめん……ちょっとだけ」
「ひかり……」
ひかりの頭が、僕の胸にぶつかった。Tシャツを握りしめたまま、ひかりは声を押し殺すようにして泣いていた。
いつもうるさいほど明るくて、世話好きで偉そうで、誰の前でも笑顔を絶やさなかったひかりが……。
頭の中に浮かんだ「泣くなよ」も「頑張れ」も、声に出すことはできなかった。
だってひかりはいつだって、泣かずに頑張っていたことを、僕は知っていたから。
言葉の代わりに、右手でひかりの背中をなでる。ひかりは鼻をすすりながら、もっと強く、頭を僕に押し付けてきた。
神様――僕はひかりの背中に手を当てたまま、空を見上げる。
どうして……どうしてこんなことになったんですか?
ひかりも、ひなたも、こんなにお互いのことを想っているのに……どうしてこんなに苦しまなければならないんですか?
夜空から視線を移した闇の中に、小さな光が動いた。
「蛍だ……」
僕の声にひかりがゆっくりと顔をあげる。
草むらから飛び立った蛍が、僕たちのそばにすうっと近寄る。そっと伸ばしたひかりの手を、かすめるように蛍はまた消えてゆく。
――蛍は……自分が短い命だってこと、知ってるのかな?
いつか聞いたひなたの声が、静かに僕の耳を通り過ぎていった。