10 蛍の光
石段を上りきったら、提灯の灯りや夜店が見えて、ひなたの顔がぱあっと明るくなった。
「歩くん! 金魚すくいしたことある?」
「え、あるけど……」
「あたし初めてなのっ。あれ、やろう!」
僕の手をひっぱるようにして、ひなたが金魚すくいに向かう。
小さい頃から病気がちだったひなたは、こういう所にくるのは初めてだと言った。それなのにひなたは二匹すくい、一匹もすくえなかった僕は、おじさんに小さな金魚を一匹もらった。
「リンゴ飴もあるー! 買ってもいい?」
こんな子どもみたいにはしゃいでいるひなたは、初めて見た。なんだか今夜は、初めてのことばかりの不思議な夜だ。
「これ大好きなんだ。あたし」
ひなたはリンゴ飴を二つ買って一つを食べた。もう一つはひかりの分だという。いつも、お祭りに行けないひなたのために、ひかりがリンゴ飴を買ってきてくれるそうだ。
「今日はね、あたしがひかりちゃんに、買ってあげるの」
「ほんとに仲がいいんだね」
ひなたが真っ赤なリンゴ飴を見つめて、ほんの少し微笑む。
二人並んで石の上に腰かけて、輪になって踊る人たちを眺めた。しばらく黙り込んでいたひなたが、やがて僕に向かって言う。
「歩くん。ひかりちゃんの嘘、わかってるでしょ?」
「え?」
「あたしが歩くんと出かけられるように、ひかりちゃん、嘘ついたの、わかってるでしょ?」
僕は何も答えなかった。ひなたがかすかに笑って、そんな僕から目をそらす。
「ひかりちゃんって、時々、そういう嘘つくの。優しすぎる嘘……」
ひなたの横顔に、提灯の灯りがほんのりと当たる。まとめた髪から伸びた後れ毛が、夜風にふわりと揺れている。
「いつまでも、頼ってばかりじゃ、だめだよね?」
金魚の袋を目の前に持ち上げて、ひなたは金魚にでも話しかけているかのようにつぶやいた。
「あたし、そんなひかりちゃんに頼ってばかりだから……ひかりちゃんも、きっとうんざりしてるよね……」
「そんなこと、思ってないよ」
ひなたのためなら、なんでもできる――あの言葉が嘘でなければ。
「僕は兄弟がいないから……頼る人も、頼られる人もいないから、そういうの、ちょっとうらやましい」
ひなたが僕に微笑んだ。僕はひなたの笑顔を見ながら、そこにひかりの笑顔を重ね合わせる。
あいつ、今ごろ、何してるんだろうな……。
「歩くん。そろそろ帰ろうか?」
立ち上がり、ゆっくりと歩き始めるひなた。僕は薄闇の中に浮かぶひなたの黄色い帯を、ぼんやりと目で追っていた。
自転車を引っ張り出した僕に、ひなたは「歩いて帰りたい」と言った。
「でも、疲れるよ?」
「大丈夫。疲れたら、また後ろに乗せてもらうから」
ひなたがにっこり微笑んで、金魚とリンゴ飴をぶら下げながら、薄暗い道を歩き出す。僕はその後を追いかけるように自転車を押す。
かすかに流れてくる盆踊りの音と、草むらに響く虫の声以外は、何も聞こえなかった。
もし今ごろ、僕がまだ東京にいたら、塾で退屈な授業を受けていたか、部活の仲間とコンビニの前で、くだらない話をしていただろう。
街はまだ騒がしくて、コンビニの照明は眩しくて、僕はアイスなんか舐めながら、意味もなく時間をつぶしていただろう。
少し前を歩くひなたの白いうなじを、僕はただ見つめて歩く。夜風がかすかに吹いて、夏草がさらさらと揺れる。
「あ……」
突然ひなたが道端にしゃがみこんだ。
「どうしたのっ?」
「見て、歩くん! ほら、蛍」
自転車を止めて、ひなたの隣にしゃがみこむ。田んぼの脇を流れる小川に目を凝らすと、いくつかの小さな光が瞬いている。
「ほんとだ……よく見つけたね」
「あたし、視力だけはすごくいいの」
ひなたがそう言って、小川を見つめたまま笑う。僕はそんなひなたの横顔を眺めた後、ゆっくりと視線を移す。
雑草の上で点滅している、緑がかった黄色い光。それが風と共に、ふわっと一斉に舞い上がった。
「歩くん。蛍の寿命って、どのくらいか知ってる?」
僕の耳に、ひなたの透き通るような声が聞こえてくる。黙って首を振る僕に、ひなたがほんの少し微笑んで続ける。
「蛍ってね……成虫になって、十日くらいで死んじゃうんだって」
「十日か……短いんだね」
「うん……短い」
僕たちはそれきり黙り込む。草むらにしゃがみこんでいる僕たちの後ろを、自転車に乗った小学生たちが、騒ぎながら通り過ぎる。
「知ってるのかな? 蛍は……自分が短い命だってこと、知ってるのかな?」
いつの間にか、盆踊りの音は聞こえなくなっていた。草むらを通り抜ける風の音さえ聞こえるほどに、あたりは静まり返っている。
蛍が死ぬように、人間もいつか死ぬ。そんな当たり前のことを、僕は今まで考えることもなく過ごしてきた。
ひなたの手が、そっと僕の手のひらを包む。僕はその手を、ぎこちなく握り返す。
女の子の手って、こんなに柔らかいんだ……そんなことを思いながら、僕たちはいつまでも、飛び交う蛍の優しい光を見つめていた。