ラムネ瓶と金木犀
「はあ…退屈ね…」
セレーネは水中に浮かびながら呟いた。
真っ暗な深い海の底は落ち着くけれど、10年もいれば飽きてくる。
最近は傍を通った魚を突いては迷惑そうな顔をされて去られるという日々を繰り返していた。
「ん?」
尾びれに重みを感じた。振り返ってみると尾びれに何かがのっかっている。それは通りかかったチョウチンアンコウの光を反射して輝いていた。
「へえ…キラキラしているわ。人間の落とし物かしら?なら、届けなくてはね!」
セレーネはその物体を掴んだ。細長くて表面はなめらかだけど、ところどころへこみがあった。
そして、最大の速度で水面へ向かった。水面へ近づくほど周りが明るくなっていった。セレーネはこれを見るのも好きだ。
周りが明るくなって、物体を見てみると、上に穴が開いていて、入れ物であることが分かった。うっすらと水色のガラスでできているっぽかった。
陸の近くでひょっこりと顔を水面から出すと、男の子と目が合った。彼は目を見開いて持っていた本を地面にぼとりと落とした。
* * *
「はあ、」
海翔は日光に照らされて輝く海を眺めてため息をついた。最初はあんなに美しかった海も、今は見慣れた景色となってただそこに在るだけだ。今の季節は海に入るには寒すぎるだろうし。
最近、何をやってもつまらなく感じていた。勉強もスポーツもいろいろ試してみたし、いろんなジャンルの本も読んでみたし、バンジージャンプとか絶叫系の乗り物にだって乗ってみた。でも、所詮、人が作り出したものだってわかっているからか、心から楽しめない。
もしかしたら非現実的なものを求めているのかもしれない。そんなもの、存在しないだろうけど。
もう帰ろうと思って立ち上がって一応持ってきた本を拾った。ファンタジーの本で何もしないよりはましだと思ったのだ。
この本のように人魚とか妖精とか存在してたらいいのに。
海に背を向けた瞬間、バシャッと音がした。思わず振り返ると、海から女の子が顔を出していた。
彼女の顔は息をのむほど美しく、右で緩く編んであるアクアブルーの髪はサラサラで水から出てきたはずなのに乾いていた。彼女の美しい深い青の瞳と目が合って海翔は持っていた本を落としてしまった。
「え?」
すると、その女の子は慌てて近寄ってきた。
「ごめんなさい!驚かせるつもりはなかったの!」
その声は澄んでいてよく響く声だった。
「い、いえ、大丈夫です」
海翔がそう答えるとその少女はホッとしたよ
うに笑った。
「よかった~あ、これ!あなたの落とし物じゃない?」
そう言って彼女はラムネの瓶を持ち上げた。その細い手首には鱗がついていた。
「鱗…?」
海翔がそう呟くと彼女はパッと己の手首を見た。
「あ、これ?人間って鱗ないんだっけ?あ、絶対に引っ張らないでよ?無理やり引っこ抜いたら寿命縮んじゃうんだから!」
そう言われて海翔は唖然とした。
目の前に人ではない何かがいる。
たしかに非現実が欲しかったけれど、急に与えられるとびっくりする。
「それで、これ。あなたのじゃない?」
彼女はそう言ってラムネの瓶を揺らす。
海翔は首を振った。
「僕のではないです。あの、どこで見つけたんですか?」
「海底よ?落ちてきたの」
「それなら、かなり前に落ちたものなんじゃないですか?深海までかなり深さありますよね?」
海翔がそう言うと彼女はハッとした顔になった。
「そうじゃん!物が落ちるスピード忘れてたわ…」
そして、鼻まで水につかってブクブクと息を吹いた。
「じゃあ、僕が捨てておきますよ。たぶんもう忘れられたものでしょうし」
「ほんと!?助かるわ」
彼女はにっこりと笑ってラムネの瓶を差し出した。
明るい笑顔に海翔もつられて笑った。
* * *
セレーネはガラスの瓶を渡した後、男の子の傍の岩に腰かけた。尾びれの半分ほどは海に浸かったままだ。
「人魚…なんですね」
男の子が呟くように言った。どこか信じられないような、かみしめるような言い方だった。
「そうよ。私はセレーネ。あなたは?」
「僕は海翔です。羽田海翔」
セレーネは微笑んだ。久しぶりに人間と話すからうれしかったのだ。
「なるほど、カイトね。あ、カイト、いつまで敬語でいるの?普通に話せばいいじゃない」
すると海翔は視線をそらした。
「あ…うん。そうするよ」
「あ、カイト、私に人間の生活について教えてくれない?最近ずっと深海にいたから気になっちゃって」
セレーネは前のめりになり、目を輝かせながら言った。この人から面白い話を聞けばいいと思いついたのだ。
「いいよ。何が知りたい?」
セレーネはう~んと首を傾げた。
「最近あったこととか?」
すると今度は海翔が首をかしげる番だった。少し考えた後、海翔はポンと手を打った。
「昨日、金木犀の花のポプリを作ったよ」
「キンモクセイ…?ポプリ…?」
セレーネが聞いたことのない言葉ばかりでなにがなんだかよくわからない。
「あ、ポプリは部屋の中でいいにおいがするもので、金木犀はこの季節に咲く花なんだ。木に鮮やかなオレンジ色の小さな花がたくさん咲くんだよ」
それを聞いてセレーネは驚いた。海から見た地上しか知らなくて、地上はあまり色がない世界だと思っていたのだ。
「へえ~地上も色がたくさんあるのね。海の中だけだと思っていたわ」
「数えきれないほどの色であふれてるよ。海もそうなの?」
「ええ、そうよ。魚、海藻、珊瑚…美しいものであふれてるわ」
どうやらお互いよくわかっていなかったみたいだ。
「新しいことが知れてよかったわ」
「うん。僕もだよ」
その時、セレーネの顔がオレンジに染まった。日が沈みだしてきたのだ。
「カイト、そろそろ戻らなくて大丈夫?」
セレーネが聞くと、海翔は慌てて周りを見渡した。
「えっ。あ、やばいかも。あ、また明日も話せますか?」
そう言われて、セレーネは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「明日も話してくれるの?もちろん。金木犀の話ももっと聞きたいわ」
「あ、じゃあ明日もってくるよ。この瓶に詰めて」
海翔はセレーネが拾った瓶を揺らした。
「ありがとう。また明日ね、カイト」
「うん。また明日、セレーネ」
海翔の返事を聞くと、セレーネは尾びれを翻して海へ潜っていった。
両手でうれしそうな顔をはさみながら。
* * *
海翔はセレーネが去った後、しばらく海をぼーっと眺めていた。
夕日を反射したブルーグリーンの尾びれが、宝石のような鱗がすごく美しかったのだ。
つまらない日々に落とされた非日常を象徴しているみたいであの情景が頭から離れない。
「海翔、あんたこんな時間まで何してんの?」
後ろから声をかけられた。海翔が振り向くとそこには母がいた。エプロンをしていて片手にお玉を持っていて、夕飯の準備をしていたことがわかる。
「ごめんね、お母さん。海を眺めてたんだ」
「そうなのかい?でも、もう夕飯出来たから戻ってらっしゃい」
「うん」
海翔は母の後を追って家へ向かう。
「あんた、そんなに海が好きだったっけ?」
「そうだね、好きになれそうだよ」
海翔は頬をかいて視線をそらした。なんだか照れくさい。
すると、母はふっと笑った。
「なんかよかったよ。海翔、前より生き生きしてて」
そう言われて海翔はパッと母を見た。そう見られてたとは思わなかったのだ。
「なんか楽しみでもできたのかい?」
海翔は目を細めて微笑んだ。
「うん」
その日、ご飯を食べてからも、お風呂に入ってからも、夕暮れに見たセレーネの姿が頭から離れなかった。
* * *
次の日、セレーネはすごくワクワクしていた。
金木犀を見れるのはすごく楽しみだったし、海翔と話すのも待ちきれないほど楽しみだった。
海翔が金木犀を持ってきてくれるならと思ってセレーネは貝を持っていくことにした。前に集めた美しいものの中から一番大きくてきれいなものを選んだ。
お昼過ぎ、セレーネは水面へと泳いだ。
「カイト?」
ひょっこりと水面から顔を出して辺りを見渡しても誰もいない。
間違った場所に出てきたのかと思ったが、昨日座った岩があるから間違っていないはずだ。
セレーネは唇を噛んだ。
海翔はきっとセレーネとの約束なんて忘れてしまったのだろう。セレーネとの約束は日常の中の楽しみと比べたら到底及ばないものだったのだろうか。
この約束を楽しみにしていたのは私だけかもしれない。
そう思うとセレーネは泣きそうになった。せっかく仲良くなれると思ったのに、結局セレーネは二の次なのだ。
セレーネは岩の裏へ行くと腰まで水に浸かったまま岩に寄りかかった。
空を見上げると雲一つなく、澄んだ快晴だった。
誰かと見たらさぞ美しかったんだろうとセレーネは思った。それがさらに気分を落ち込ませた。
気がつくと太陽は空を下り始めていた。人間の概念でいう午後の時間なのだろう。
もう帰ろうとしたとき、セレーネを呼ぶ声が聞こえた。
「セレーネ!どこにいる?」
その声を聞いてセレーネの表情はぱっと明るくなった。
「カイト!」
海翔はセレーネの顔を見るとうれしそうに笑った。
セレーネは頬を膨らませて言った。
「どこにいたのよ?今日来ないのかもしれないと思ったじゃない」
すると海翔は困ったように笑った。
「今日は学校があったんだ。終わってすぐ来たんだけど、ごめんね」
学校という言葉は聞き覚えがあった。
「学校って人間が学ぶところよね?」
「うん、そうだよ」
その時、セレーネは海翔の手の中の瓶を見つけた。中にはオレンジの何か少し入っていた。金木犀だろうか。
「ねえ、カイト!それって金木犀?」
海翔は瓶を持ち上げた。
「そうだよ。家の庭から持ってきたんだ」
「すごく鮮やかな色してるのね!珊瑚以上かもしれないわ」
セレーネは興奮気味につぶやいた。
海翔は人差し指を立てるとにやりと笑った。
「金木犀ってそれだけじゃないんだよ」
セレーネは驚いた。こんなにも色鮮やかなのに色や見た目以外にも魅力があるというのか。
セレーネは海翔をじっと見て続きを促した。
海翔はそれに気がつくと瓶を覆っていた透明な膜を取り外した。するとふわりと甘い香りが漂ってきた。
「これは金木犀の香り?」
「そうだよ」
「へぇぇ…いい匂いね。海では嗅いだことのない匂いだわ」
セレーネはしばらくその匂いを堪能した。
スーッと吸い込むたび甘い香りが気分をふんわりとしたものにしてくれる。海では気分が落ち着いていいけれど、陸はわくわくが多そうで楽しそうだ。
セレーネは顔を上げてにっこりと笑った。
「ありがとう、カイト。すてきなものを教えてくれて」
海翔は一瞬驚いた顔をしたが、そのあと微笑んだ。
「喜んでくれて良かった」
* * *
海翔はベッドで体育座りで考え込んでいた。いや、ぼーっとしていたという方が正しいかもしれない。
今日もセレーネの姿が、表情が、声が、頭から離れないのだ。
海翔を見つけた時の嬉しそうな顔、遅いと頬を膨らませて怒る顔、金木犀を見たときのキラキラと輝く瞳、金木犀の匂いを嗅いだときの目を伏せて頬を少し赤らめさせた綺麗な顔、そしてありがとうと言った満面の笑み。
その全てが美しく愛らしく感じた。
あと、セレーネの澄んだ声はとても聴き心地がよかった。
そして、セレーネとまた明日も話そうと約束ができてこの上なくうれしかった。
セレーネのことを考えれば考えるほど鼓動が速くなっていく。
海翔がどれだけこの感情の正体を探ろうとしてもしっくりくる言葉が見つからない。
憧れ?感動?敬愛?
どれもなんだか違う。
あきらめて寝ようとしたとき、ふとある言葉が浮かんできた。まるでパズルのピースがカチッとはまるように納得できる言葉だった。
そうか、これは恋か。
* * *
セレーネは海底付近で漂いながら考えていた。
今日初めて陸上の花を見て、香りを嗅いでみて、自分は陸の上の世界を全然わかっていなかったんだと知った。
これまで人間の漁船について行ってみたり、そこの人と少し話したことはあったけれど、陸に近づくことはあまりなかった。
陸はつまらない世界だと、美しいのは海だけだと思っていたのだ。
でも、海翔のおかげでもっと美しいものを知ることができた。
「カイト……」
セレーネは胸に手を当てた。鼓動が早い。
なんだか恥ずかしくなって、セレーネは傍を通った魚を抱きしめ、顔を埋めた。その魚はやれやれといった顔でされるがままになっていた。
セレーネは眠りにつくまで海翔のことを考えていた。
* * *
それから二人は毎日話すようになった。最近あったこと、面白かったこと、好きなこと、やってみたいことなどいろいろなことを話した。
お互い、毎回が楽しみでこれまでの人生で一番楽しい時間だと感じていた。
* * *
春のある日のこと。
海翔はセレーネに会うために、今日も家を出た。
今日はカバンに本を数冊詰めた。セレーネが読んでみたいと言っていたからだ。
海翔はカバンのひもをぎゅっと握って軽い足取りでいつもの道を進んでいく。
その時、地面がぐらっと揺れた。今まで感じたことのない揺れだった。
「地震!?」
海翔はバランスを崩した。地面が氷の上を滑っているみたいに横に揺れている。カバンの中のスマートフォンから警報が鳴り響いていた。
揺れは一向に収まる気配がしなくて、海翔は四つん這いのままあたりを見渡した。
揺れる視界の中で落ちてくるものがないか確認する。
大丈夫そうだ。
海翔は頭を守って丸まった。そして、揺れが収まるのを待った。
やっと揺れが収まり海翔が顔をあげると、あたりは大惨事になっていた。
3軒に1軒は建物が崩れ、看板や置物は道路の上で瓦礫の山になっていた。奥の方では煙が漂っているのが見える。
「これはひどいね…」
海翔はそっとつぶやいた。
だが次の瞬間、みんなが逃げていることに気づいた。
海翔は嫌な予感がして振り向いた。
すると、少し奥の浜辺。その奥の海が引いていた。
海翔はそれを見て一目散に走り出した。少しでも早く高台へ向かわなければと必死に足を動かした。
* * *
海翔に会うために上へ泳いでいたセレーネは違和感を感じた。
水の流れがいつもと違う。大きな波が戻っている感じがする。
嫌な予感がして慌てて水面から顔を出すと、町が水で覆われていた。
次の瞬間、水が瓦礫、車、船、電柱を巻き込み戻ってきていた。
その中に必死に瓦礫につかもうとして失敗している人影が見えた。
「カイト!」
セレーネは悲鳴に近い声を上げた。
瓦礫と車の間、海翔が水から顔を出して足掻いていた。
だけど、瓦礫も何もつかめずどんどん沈んでいっている。
セレーネは水に抗って海翔の方へ泳いだ。押されても必死に尾びれを動かして。
顎、口、鼻とどんどん沈んでいく海翔。
完全に沈む直前、セレーネは海翔と目が合った。彼はふっと目を細めると、水中へ消えていった。
* * *
冷たさに沈んでいく。水面がどんどん遠ざかっていく。
海翔は最後に見たセレーネの姿を脳裏に浮かべていた。
必死にこちらへ手を伸ばして泳いできていた。海翔はあんなに必死なセレーネは初めて見たと思った。セレーネも大切に思ってくれているんだとわかって海翔はうれしくなった。
だけど、それを知るのがこんな時じゃなくていいのに。
息を止めているのも苦しくなってきた。
横から車が流れてきた。それが当たって肩が痛い。
海翔はカハッと息を吐いた。
意識が薄れてきた。
海翔は最後にセレーネが見れてよかったなと微笑みながら目を閉じた。
* * *
セレーネは水中にもぐった。
そして沈みゆく海翔の体へ急ぐ。
「カイト!」
セレーネは必死に手を伸ばして海翔の手を掴んだ。それは水の中でも異常なほど冷たかった。
「カイト…」
海翔を抱えると、セレーネは水面へ急いだ。
水面から海翔の体をだし、セレーネも顔を出した。
そこは海翔とセレーネがいつも会っていた場所だった。
波はすべて引いて半壊の町が広がっていた。
セレーネは海翔を草の上に寝かせると、海翔の胸に耳を当てた。
なにも音がしなかった。
セレーネの顔からサーっと血の気が引いた。
信じられなくてもう一度聞いてみる。
やはり無音だ。
セレーネは視界がぼやけるのを感じて唇をかんだ。
海翔を助けられなかった自分が情けなくて、起こったことを信じたくなくてうつむいた。
ふと、自分の腕の鱗が目に入った。
セレーネは鋭く息をのんだ。
人魚に伝わる秘術を思い出したのだ。
まだ元気な人魚の鱗を一枚とって、それを海水に混ぜ込むことでなんでも生き返らせられる秘薬を作れるというものだ。
だけど、元気な鱗を取ってしまうと体に大きな負担がかかる。おそらく不死を手放すことになってしまう。
セレーネはこぶしを握りしめ、海翔の血の気のない顔を見た。
海翔がいない世界で不死の力があったって何の意味もない。海翔が生き返れるのなら、不死くらい手放せる。
セレーネは自分の腕へ手を伸ばした。
ぎゅっと目を閉じて思いっきり引っ張る。
腕に鋭い痛みが走った。目に涙がにじむ。
でも、セレーネは止まらず、鱗を持っていない方の手で海水を掬い上げた。
そこへ鱗を落とす。液体を両手へ移して少し回していると鱗が溶けて液体中へ消えた。
無理やり剥いだ鱗は脆く、すぐに崩れるみたいだ。
セレーネは深呼吸をした。
セレーネはその液体を自分の口に含んだ。もちろん、飲み込まないように気を付けて。
セレーネは海翔の口元へ顔を近づけた。
唇が重なった。
そして、その液体を海翔の口へと流し込んだ。
* * *
海翔はふわふわと暗闇の中を漂っている気がした。
セレーネはこのような場所で暮らしているのかと思うと、すごく居心地がよかった。
きっと自分は死んでしまったのだ。もちろん悲しいけれど、後悔とかあまりないかもしれない。
最後にセレーネを見れて、自分はすごく幸せ者だと思う。
そっと目を閉じて流れに身を任せようと思ったとき、ぐいっと上に引っ張られる気がした。暗闇の中だけれど、ぐんぐん上へ進んでいる気がする。
そして、寝ているところを引っ張り起こされたかのような感じがして海翔は目を開けた。
慌てて体を起こすと、せき込んだ。
「げほっ、ごほっ」
口から海水なのか胃液なのかよくわからない液体がこぼれた。
「ちょっと、無理しないで」
隣から凛とした声が響いた。
顔をそちらへ向けるとセレーネがいた。
海翔がセレーネを見るとセレーネはふわっと微笑んだ。
「おはよう」
海翔はこれが都合のいい夢なのかと思った。死んでしまった後の幸せな夢なのかと。
すると、それを感じ取ったのかセレーネが海翔の頬を摘まんだ。
「夢じゃないわよ」
海翔はつねられた場所をおさえた。
「痛い…」
「でしょう?」
海翔は混乱していた。
たしかにあの時死んだはずだった。なのに、なぜか今生きている。
セレーネを見ると、彼女は陸に肘を置いて頬杖をついていた。腕の鱗が太陽を反射してきらりと光った。
でも、一か所あるべき所に鱗がなかった。周りは鱗があるのに、穴のようにそこだけ肌が見えていたのだ。
海翔は恐る恐る尋ねた。
「セレーネ、その、腕の鱗どうしたの…?」
セレーネは慌てて水中へ腕を隠そうとした。
だけど、その前に海翔がセレーネの腕をつかんだ。
セレーネは気まずそうに顔をそらした。
「あ~ちょっと必要で…」
「必要?取ったら寿命縮むのに?」
セレーネはまっすぐ海翔の目を見つめた。
海翔はセレーネの美しい瞳と目が合ってドキッとした。
「不死以上に必要なものだったの」
「…そっか」
海翔はパッとセレーネの腕を離した。
セレーネが不死だったと聞いて驚いたけれど納得もできた。セレーネは毎回姿が変わっていないのだ。
「ちなみに、何に使ったのか聞いてもいい?」
セレーネはすぅと息を吸い込んだ。
「聞いてもなんとも思わないでね?私がやるって決めてやったことだから」
「う、うん」
セレーネは海翔に背を向けて、尾を自分の前に浮かばせた。
その背中は少し震えていた。
海翔はそんなに言いにくいことなのかと首を傾げた。
「海翔をね、生き返らせるために必要だったのよ」
消え入りそうな小さな声だった。
これを聞いて海翔は衝撃を受けた。
自分はセレーネのおかげで生きているのだ。彼女は自分の不死の力を差し出してまで海翔を生き返らせようとしてくれた。
それがとてつもなくうれしくて、でもすごく悲しくて、そんなセレーネが愛しくて、海翔はセレーネを後ろから抱きしめた。
セレーネはビクッと肩を震わせた。
「ありがとう、セレーネ」
海翔が呟くと、セレーネはホッとしたように笑った。
「どういたしまして」
* * *
数日後、二人は一緒に夕日を見ていた。
町は復旧を始め、地震当初よりは綺麗な状態となっていた。
地震が起こった日、生き返った海翔は第2波が来るかもしれないと思って高台へ避難した。
そこで家族と再会した。海翔の両親は泣き崩れ、海翔を抱きしめた。
セレーネはこの話を海翔から聞いてふんわりと微笑んだ。
二人はオレンジの光に照らされてしっかりと手を握ってた。もう離れないようにと。
「海翔。これからも私とお話してくれる?」
セレーネが微笑みかけると、海翔も笑みを返した。
「うん」
すると、後ろからドタバタと足音が聞こえた。
「海翔!」
海翔はバッと振り向いた。
「お母さん!」
「海翔、もう暗くなるから戻りなさい……ってそこのきれいなお嬢さんは…?」
水面から突き出している、夕日を反射する尾びれと腕の鱗。それを見た海翔の母が目を見開いた。
「あんた人魚かい!?」
「うん。そうよ。はじめまして」
すると、海翔がセレーネの手を強く握った。
「お母さん、彼女が僕を助けてくれたんだ」
海翔の母はセレーネの握られていないもう片方の手を両手で握った。
「ありがとう、人魚さん。あたしの息子を助けてくれて…!」
海翔の母は温かい目でセレーネを見た。人魚がいて驚いたけど、息子を助けてくれたことの方が大事だったのだ。
両手を握られたセレーネは困ったようにあわあわと海翔を見た。
海翔は苦笑して海翔の母の肩を叩いた。
「お母さん、セレーネが困ってるから」
海翔の母はパッと両手を離した。それから片手を頬に当てて眉を下げた。
「ごめんなさいね。セレーネさんだったかい?ありがとうね」
セレーネはにこりと笑った。
「ううん。私がやりたくてやったことだから」
海翔の母はセレーネに向かってほほ笑むと、海翔の方を向き直った。
「さあ、海翔。そろそろもどりなさいな」
海翔は名残惜しそうにしぶしぶ立ち上がった。
「じゃあ、また明日、セレーネ」
「ふふ、また明日」
そして海翔は町の方へ、セレーネは海へ帰っていった。
これから何があるかはわからないけど、二人一緒なら大丈夫だろう。
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