処刑前夜の悪徳令嬢。婚約破棄で私を追い落とした聖女を前に、人生抹消級の暴露トラップを仕掛けたら、王宮が燃え落ちそうになってるんだけど!
処刑は、夜明けと決まっていた。
地下牢の床は座っているだけで背骨から冷えていく。ロザリーは膝を抱え、鉄格子の向こうの闇を見ていた。手首の枷が動くたび、かたんと鳴った。
遠くで鐘が鳴る。ひとつ、ふたつ。数えるのをやめた。その合間に、ときおり、鉄を短く三度叩く音がまじる。貧民窟の夜回りが、合図に使っていた音だ。
その鐘の下から、地鳴りのようなものが這い上がってくる。大勢の人の声だ。何日も前から、街はずっと腹の底で唸っている。
「パンをよこせ!税を返せ!王を出せ!税吏に毛布まで持っていかれて、粉屋の娘が先月凍え死んだぞ。」
衛兵たちが、このごろ妙に苛立って、牢の囚人を蹴っていくのは、たぶん、それを恐れているからだ。
夜が明ければ、私の首が落ちる。街がどれだけ唸ろうと、その前に、自分は終わる。
廊下の奥に、松明の火が揺れた。
よく知っている香りが、先に届いた。すみれの香水。この牢には、ひどく場違いな匂い。
「──まあ。こんなところにいたのね、ロザリー様」
エマだった。
男爵家の娘。半年前まで、王太子の隣に立っていたのはロザリーだった。その場所に、いまはこの娘がいる。社交界は彼女を「聖女」と呼ぶ。──嫉妬に狂ったロザリーが、身重のこの娘を階段から突き落とし、腹の子ごと殺そうとした。そういうことに、なっている。ロザリーを断頭台へ送ったその証言も、涙ながらに、この娘自身がしたものだ。
真珠を縫い込んだ白いドレスを着て、けれど顔だけは、大広間の真ん中にいるときと同じ、隙のない笑みだった。お腹はもう、ゆるやかにふくらんでいた。付き添いの侍女に松明を持たせ、鉄格子の手前で、彼女は品よく足を止める。汚れが移らないように、というふうに。
「ごめんなさいね、夜分に。でも、どうしても、今夜のうちにお会いしたくて」
エマは胸に手を当てた。
「明日の朝には、もう、お話もできなくなってしまうでしょう?」
ロザリーは、答えなかった。
「かわいそうなロザリー様」
エマの声は、わざとらしいほど、やさしかった。
「あんなにご立派なお家柄だったのに。婚約者の殿下も、領地も、お名前も、ぜんぶ失って。……ああ、そうそう。弟君は、もう、お聞きになった?」
ロザリーの指先が、わずかに動いた。
「テオ様。かわいそうに、あなたの共犯にされて、この牢の、ずっと奥にいるのよ。……夜が明けたら、姉君と並んで、同じ処刑台に上るんですって」
エマは、心底いたわるように眉を寄せた。
「毎晩、泣いていらっしゃるそうよ。お姉様、お姉様、って。この石壁のどこかで、ずうっと」
テオは眠くなると、いつもロザリーの袖を握った。お姉さま、もう一冊だけ。小さな指の力を、まだ手首が覚えている。
牢の中の女は、それでも、顔を上げなかった。
エマは少し、つまらなそうに唇を尖らせた。壁際の女は、膝を抱えたまま、石のように動かない。せっかく見にきた崩れ顔は、いつまでも出てこなかった。
「まあ、いいわ」
気を取り直したように、エマは微笑む。
「どうせ夜明けには、あなたの首はタライの底。死んだ女の恨み言なんて、誰も聞きやしない。……ねえ、ひとつだけ、お礼を言わせて。わたし、あなたには、ほんとうに感謝しているの」
「……お礼?」
はじめて、ロザリーが口をきいた。かすれた、低い声だった。
「ええ。だって、あなたがわたしを、ずーっと目の敵にしてくれたおかげよ」
エマは歌うように言った。
「殿下は、いじめられるわたしを、庇わずにいられなかった。社交界のみなさんも、高慢なあなたに嫌気がさして、わたしの味方についた。……あなたが悪役でいてくれたから、わたしは、聖女になれたの。感謝してるのよ、本気で」
喉の奥で、屈辱が、苦いかたまりになった。ロザリーは、奥歯を噛んで、それを飲みくだす。
「……そのために、証人を買ったのね」
ロザリーは、ぽつりと言った。
「わたしが、嫉妬に狂って、身重のあなたを階段から突き落とした——あの作り話。それで、わたしは明日、首を落とされる。証人は、三人くらい?」
「三人?」
エマは、心外そうに眉を上げた。誇りを傷つけられた、という顔だった。
「三人だなんて。いやだ、ぜんぜん足りてないわ。……五人よ。台所番、御者、あなたの侍女。あとの二人は、わざわざ王妃様の御前で誓わせたの。台詞も、泣くところも、ぜんぶわたしが書いてあげた。……毒の手紙だって、一通のはずないでしょう? 三月もかけて、あなたの筆跡そっくりに書けるようになったのよ。ねえ、たいへんだったんだから。あなたひとりを地獄に落とすのに」
くすくす、と侍女が笑いをかみ殺した。
ロザリーは、何も言わなかった。ただ、静かに、聞いていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
膝の上の指先が、一度だけ枷の鎖を押さえた。鉄は鳴らない。目元は乾ききっているのに、息だけがやけに浅かった。
「……ずいぶん、饒舌ね。今夜のあなた」
ロザリーは言った。
「誰かに、聞かせたくてたまらないんでしょう。自分がどれだけ賢く立ち回ったか。ずっと、聖女の仮面の下で、黙って抱えてきたんだもの」
「あら」
エマの笑みが、ほんの少しだけ、硬くなった。
「わかるわよ。わたしも、そうだったから」
ロザリーは枷の鎖を、かたん、と鳴らした。
「──ねえ、エマ。ひとつ、教えてあげましょうか。お腹のその子。殿下の子じゃ、ないでしょう」
松明の火が、ぱち、と爆ぜた。
エマの笑みが、止まった。
「……なにを、根も葉もない」
エマの声は、まだ笑っていた。けれど、扇のように広げていた余裕が、端から一枚ずつ閉じていくのを、ロザリーは見ていた。
「あなた、産婆をひとり、使ったでしょう。ほんとうの月数を、知っていた人を」
「知らないわ、そんな女」
否定が、少しだけ、早すぎた。
「用が済んだら、始末した」
エマの喉が、ひくりと鳴った。ふくらんだ腹に、指が、無意識に添えられる。その仕草が、どんな言葉より雄弁だった。
「殺すのは、間に合ったみたいね。でも、あの人、死ぬ前に、帳面を聖堂へ逃がしてたの。運んだのは、貧民窟の走り使いの子」
「うそよ」
声から、あの甘い艶が、少しずつ抜けていく。
「その子を、わたしが匿ったの。あなたが捨てた街には、あなたが殺し損ねた者が、ちゃんといた」
「そんな帳面、あるはず……」
言いかけて、エマは口をつぐんだ。その先を言えば、帳面の中身を知っていると、認めることになる。──気づいた顔だった。ロザリーは、その一瞬の計算を、黙って見のがさなかった。
「王家の薬師の署名。あなたの封蝋。それに、初診の日付。──殿下があなたの寝所に、初めて通うより、ふた月も前。つまり、その子は、殿下が指一本触れるより前から、あなたのお腹にいた。よその男の種を、王家の世継ぎだと偽ったのよ、あなたは」
言葉を一つ置くごとに、化粧の下から、べつの顔が透けてくる。追い詰められた、ただの女の顔が。
「やめなさい!」
命じる口調のはずが、語尾が、わずかに震えていた。
「帳面に、はっきりそう書いてある。どう数えても、殿下の子じゃない。いったい誰の子かしら?」
ロザリーは、うっすらと笑った。ずっと強張っていた頬が、はじめて、思いどおりに動いた。
「相手は・・・あなたを社交界へ引き上げた、あの金貸しの伯爵かしら。それとも、別の?ずいぶんお盛んなのねぇ」
「……誰から!」
エマの声が、かすれた。
「そんな話、誰から」
「誰から?あらあら。誰からじゃないのよ」
ロザリーは、はじめて笑った。ほんの少しだけ。
「あなたが捨てたものは、人も秘密も、ぜんぶ、わたしのところへ流れ着くの。だいじなのは、わたしがそれを、誰に話したか、でしょう?」
遠くの地鳴りが、ふいに、近くなった気がした。
「あなたはわたしを、ドブに捨てたでしょう。爵位も名前も剥ぎ取って、貧民窟と同じ泥の中へ」
ロザリーの声に、はじめて、微かな熱がにじんだ。
「それが何よ。あなたが負けたからでしょう」
エマは、なお顎を上げた。見栄だけが、まだ、彼女をまっすぐ立たせていた。
「いいえ」
ロザリーは、ゆっくりと立ち上がった。枷が、重たげに鳴る。
「あそこでは、子どもがパンひと切れで売られる。死体は、朝まで戸口に置かれたまま。その同じ日に、宮殿では、あなたの馬車に金箔が貼られて、犬には牛肉が出るのよ」
「産婆の記録は、原本が聖堂の出生簿にある。あの人、死ぬ前に、神父に預けてたの」
「まさか」
その一言は、もう、否定の形をしていなかった。
「写しは、何十枚も作った。粉袋の底、鍛冶屋の炭箱、鐘楼の梁の上。──焼けばいい、って顔ね。ふふ」
ロザリーは、鉄格子のすぐそばまで、ゆっくりと歩み寄った。松明の灯りが、その顔の半分を、赤く舐める。
「あなたは、わたしを『悪徳令嬢』と嗤って、ドブに捨てた。それが、いちばんの間違いだったのよ、エマ」
声は静かだった。なのに、エマの肩が、びくりと跳ねた。
「あなたが陽の当たる広間で微笑んでいたころ。わたしは、地べたを這っていた。なけなしの財産を、パンとミルクに換えて、飢えた人たちに配って歩いた。……腹がふくれて、はじめて、人は人の話を聞く。そうやって、パンと一緒に、真実も渡したの。──世継ぎは、不義の子。懐妊税は、その嘘のための税。逆らった者が、どの牢で消えたか。まだ幼い子どもまで、どうやって罪人に仕立てたか。ぜんぶ、ぜんぶよ。この半年、わたしは夜の底に、深く、深く、根を張ったの」
枷を引きずったまま、それでもロザリーは、鉄格子の向こうのエマを、見下ろしていた。さっきまで膝を抱えていた、みじめな女は、もう、どこにもいない。
「その声、聞こえないの? さっきから、ずっと」
エマの目が、天井を、鉄の扉を、せわしなく泳いだ。
「外で唸っているのは、あなたたちが飢えさせた民よ。世継ぎが不義の子だと知って、とうとう、堪忍袋の緒が切れた。──写しは、もう街じゅうの手のなか。消したいなら、街ごと焼くしかないわね。でも、それも、もう間に合わない」
「ま……間に合わない、って、なにが」
「合図は、決めてあったの。鐘が二つ、そのあとに、鉄を三度。ずっと鳴っているでしょう? あの音を聞いた夜に、みんな、いっせいに立つ。──あなたの犬が先週わたしを見つけて、ここへ放りこんだときには、火は、とっくに点いていた」
エマの喉が、ひゅっと鳴った。
「……うそ。うそよ。止めて。ねえ、今すぐ、止めなさいよ!」
いつのまにか、エマは両手で鉄格子を掴んでいた。汚れが移るから、と指一本触れようとしなかった、その鉄を。
そのときだった。
地鳴りが、爆発した。
鐘が、狂ったように鳴りだす。頭上で、なにかが割れる音。悲鳴。走る足音。牢の石壁が、びりびりと震えた。松明を持った侍女が、ひっと喉を鳴らして、あとずさる。
「な……なに、これ」
エマが、天井を見上げた。
「なにが、起きて……」
「夜明けを、待てなかったみたいね」
ロザリーは、静かに言った。
「あなたじゃなくて、街のほうが」
廊下の奥から、火の川が押し寄せてきた。松明と、鍬と、斧を握った、無数の人々。煤に汚れた顔、落ちくぼんだ目。その中の誰かが、ロザリーを見て、息をのんだ。
「……姉さんだ。道を空けろ」
人の波が割れ、鉄格子の錠に、斧が振り下ろされる。
そして、群衆の目が、白いドレスの女に、いっせいに向いた。
先頭の男が、煤けた手で、一束の紙を高く掲げた。産婆の帳面の写しだった。
「聖堂で読み上げた。もう、街じゅうが知ってる」
男の声は怒鳴りではなく、低く揺るがなかった。
「偽証人のうち二人が名を出した。薬師も、記録は本物だと認めた」
男は掲げた紙束を、ゆっくり下ろした。
「広場へ来い、エマ・エインズワース。王の裁きじゃない。あんたが飢えさせて、欺いてきた者たちの前で、自分の口で答えるんだ。──夜明けの台は、まだ空いてる」
「ちがう」
エマが、後ずさった。
「ちがうの、わたしは、わたしはただ」
無数の手が伸びた。侍女はとっくに松明を投げ捨てて逃げ、エマひとりが、煤けた手に髪を掴まれ、引きずられていく。すみれの香水は、汗と煤の匂いに、あっけなく飲まれた。
「やめてっ! はなしてよ! わたしは聖女なのよ!? 殿下が、殿下がすぐに助けに来て──」
誰も、聞いていなかった。エマは首をねじ曲げ、血走った目を、鉄格子の奥へ向けた。
「ロザリー! たすけてぇ! お願い、なんでもする、お金でも、地位でも、なんでもあげるから……!」
もう、言葉ですらなかった。喉の奥から漏れるのは、豚を絞めるような、甲高い泣き声だけ。それが、石の廊下を、ずるずると、遠ざかっていった。
ロザリーは、外された枷を床に落とし、手首をゆっくりとさすった。
そして、連れていかれる女を、静かに見下ろした。憐れみも、勝ち誇りも、ない目で。ずっとエマが見たがっていた、あの、崩れる顔とは、正反対の顔で。
「テオまで踏み台にして、まだ聖女のつもり?」
それだけ言って、ロザリーは背を向けた。
処刑台は、夜明けを待っている。けれど、そこに乗るのは、もう、彼女ではない。
牢を出ると、崩れかけた宮殿の向こうに、赤い空があった。王宮から上がる火が、明けきらない朝を照らしている。冷たい風が、煤と灰を運んでくる。
そのとき、牢の奥のほうで、鉄格子の折れる音がした。小さな足音が、こちらへ駆けてくる。
「お姉さま!」
気のせいなんかじゃ、なかった。
ロザリーは、はじめて膝をついた。駆けこんできた小さな体を、両腕で、強く受けとめる。氷のようだった顔が、そこだけ、崩れた。
まだ、間に合った。
彼女はテオの手を引き、灰の中を、まっすぐに、自分の足で歩きだした。
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