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無垢なる一族

掲載日:2026/06/09

       無垢なる一族

「あなたは、あの無垢なる一族の一人ね」

 背後から声が聞こえたので、僕は、ギョッとした。

『無垢なる一族』一体、何のことだろう。

 僕達は、単に『アイツラ』と呼ばれていた。

 おそるおそる後ろを見ると、今まで見たことのないような美しい女の人が立っていた。

「すみません、許してください。こんなところまで来るつもりはなかったんです」と僕は

言った。叫び声をあげて、誰かを呼ばれても、仕方がなかった。

「怖がらなくても、大丈夫よ」

 きっと身分の高い人に違いない、と僕は思った。噂でしか知らない、宮殿か神殿の人か

もしれない。

 髪の毛は、今までに見た、どの人よりも長く、腰の辺りにまで伸びていて、日の光を浴びて、キラキラと輝いていた。金色というよりも、銀色に近い気がする。

 肌の色は、透き通るように白かった。白くて長い服を着ていたが、その服よりも肌の方が白い気がした。足の先まで服が覆っているので、僕と同じように裸足なのかどうかは、わからない。

 自分が、ひどくみすぼらしく思えた。

 僕達の一族は、毎日食べるために、アクセク働いていた。肌は陽に焼けて、黄褐色だっ

たし、髪は真っ黒だ。着ているものも、長い間着過ぎていて、歩いている間に破れてしま

ったりする。

 この美しい人の目には、僕の姿はどう写るんだろう、と思って、僕は、ハッとした。

 目は開いているのに、焦点が合っていない。

 僕の方を向いているのに、僕を見ていない。

「実は、私も、来てはいけないところに来てしまったのよ」

「そうなんですか」と答えながら、僕は、失礼にならないように気をつけながら、女の人

の目を見ていた。青い目だ。空のように透き通った青い目。

 こんな目の色は、今までに見たことがなかった。もっとも、町や村の人の目を、注意し

て見たことなんかはないけれど。

「あ、早く隠れなさい」と女の人が言い、僕は、反射的に、近くの大木の後ろに隠れた。

 それから、そっと、神社の裏に回って、様子を伺った。

「ラーヤ様、お帰り願います」と一人の黒い服を着た男が、女の人の前に跪いた。

「ラーヤ様、ご無事でよろしゅうございました」と女の人と同じような白い服を着た、お婆さんも跪いた。

 僕が今まで見たことのないような、赤や金色に彩られた乗り物が運んで来られ、お婆さ

んに手を引かれて、女の人は、その中に姿を消した。

 数えてみると、八人もの男が、その乗り物を肩に乗せて運んでいる。

 僕は、その乗り物が見えなくなるのを、じっと見ていた。

 誰もいなくなると、僕は、女の人が立っていた場所に、同じように立ってみた。

「ラーヤ様」と僕は、男やお婆さんと同じように言ってみた。

 地面で何かが光っている。

 しゃがみこんで見ると、丸い輪のようなものが落ちていた。

 僕は、それをギュッと握ると、自分の村目指して、走り出した。


「ケン、何を見ているの?」

 ギョッとすることの多い日だ。

 僕は、反射的に、手を握り締めた。

「何も」

「嘘おっしゃい」

 アズは、乱暴に、僕の手を開こうとした。

「やめろよ」

 アズは、もうじき十四才になる。無闇に、男の手なんかに触ってはいけない年だ。結婚

だって、できる年なんだから。

「私にも見せてよ」

「手を離せよ」

 僕の方が、恥ずかしくて赤くなった。

 大体、林に二人きりでいるところを、誰かに見られて、フェオ様とソーン様にでも知ら

れたら、結婚の約束をさせられてしまう。

「私は、決めてるんだからね」とアズが言った。

「何を?」

「フフ、秘密」

 アズが、あんまり僕の顔を見つめるので、僕は、目をそらして、ゆっくりと、握り締め

ていた右手を開いた。

「わあ」とアズが叫んだ。

 右手は汗ばんでいた。が、その中にある小さな輪は、僕の気持ちと関係なく、キラキラ

と輝いている。

 光が四方八方に放射しているので、一体本当は何色なのかがわからなかった。

「凄い!」とアズは、ようやく口がきけたようだった。

「これは、何? どこで見つけたの?」

 どう答えようか、と迷っているうちに、地面が揺れ始めた。

「まただわ」とアズが言った。

「まだ、揺れている」

 気味の悪い揺れだった。ゆーらゆーらと地面が横に揺れ続けている。

 今年は、地震の多い年だった。三日に一度は、地面が揺れる。

「春が夏のようになって、夏に雪が降る、とフェオ様が言ってるそうよ」

「まさか」と僕は言ったが、実際、まだ春が始まったばかりだというのに、ジッとしてい

ても、汗ばむほどだった。

「まだ、揺れてる」とアズが言った。

 揺れは、意識しないと感じないほどになっていたが、まだ微かに地面が揺れていた。

「野菜が育ちすぎて、あちこちに捨ててあるわ」

「それはいい。アズもたくさん食べて、大きくなれよ」

 野菜が捨てられている、ということは、この村も当分飢えずにすむということだった。

「ケンこそ。このやせっぽち。もうじき十五になるくせに。誰よりも力が弱い」

「何を!」

「ケンの弱虫、やせっぽち!」

 アズは、笑いながら、走って行ってしまった。

 僕は、胸に深く刺さったアズのことばを抜き取ることができずに座ったままでいた。

 僕は、弱い人間だった。身体も弱く、それと同じだけ、心も弱かった。

 母は、僕を産む時に亡くなった、と聞いた。

 父は、僕を近所の人に預けて、村を出て行ったらしい。

 僕は、フェオ様やソーン様や、近隣の人達の情けで、生きてきたのだ。

 それを、クソッ、やせているのは、仕方がないじゃないか。

 いつも、おなかがすいていて、力が出ないのも仕方がないじゃないか。

 部落には、年寄りと十五才未満の子供とその母親しかいず、僕は、十五才になるのを、

ジッと待っていた。

 十五才になると、町に働きに出ることができる。宮殿の兵隊になることだってできる。

今日、僕が、町の外れにまでコッソリ出て行ったのは、神社に備えられている食べ物が目

的だった。たくさん食べて大きく強くならないと、兵隊にはなれないからだ。

 食べ物を手に入れる前に、ラーヤに出会ってしまい、目的は果たせなかったが、この綺

麗な輪は、うまくすると、たくさんの食べ物と交換できそうだった。

 そのためには、少しマシな服を手に入れるか、村の誰かに頼まなければならない。

『アイツラ』だとわかったら、輪を取られた上に殴られて、無駄骨になる。また、村の人

間も、よほど信用できる人を選ばないと、芋一個ぐらいを投げられて、残りは取られてし

まう心配があった。

 フェオ様かソーン様に相談に行こうか。

 でも、そうしたら、交換した食べ物のほとんどは、妊婦ともっと小さい子供のものにな

ってしまうだろう。

 僕は、心が弱くて曲がっているのだ。

 自分よりも弱い者のために、食べ物を手に入れようとは思わない。

 僕は、ずっと、自分で食べ物を手に入れなければならなかった。

 子供は、村落全体の子供だということになっていたが、それは、そういうことになって

いるというだけの話だ。

 ごく幼い時に、身寄りのない子供は、他の子供よりも早く弱って死んでいくという現実

を見た。口に入るものは少なく、もっと欲しいと思えば、拾うか盗むかしかなかった。腐

って捨てられたものを食べて、下痢が止まらずに死ぬ、思い切って盗んで、見つかれば、

罰として何日か食料もなしに死ぬまで働く。盗んだ相手が悪ければ、その場で死ぬまで殴

られた。

 しかし、僕は今日まで生き延びた。痩せて力が無いとしても、心根が腐っていたとして

も、何とか十五になるまで生き延びるつもりだった。

 そして、兵隊になって、おなかが一杯になるまで、ごはんを食べるのだ。

「ケン、フェオ様とソーン様が呼んでいる」とアズが告げに来た。アズの顔色は悪かった。態度も、オドオドしている。

「話したな、アズ」と僕は言った。輪のことを話したに違いない。

「そうではないの、ケン」とアズは、言った。

「私達が二人でいるところを、見た人がいるの」

 アズの身体は、細かく震えていた。

 僕も震えた。

 もし、僕が、アズとの結婚を拒絶すれば、アズは、村中の人の見ている前で、乙女であ

るかどうかを証明しなければならなくなる。

 つまり、アズとの結婚を望む男がいれば、その男と交わることになる。

 いなければ、くじで男が選ばれ、アズが乙女であれば、その男と結婚しなければならな

いし、乙女でなかったなら、もはや部落にいることはできなくなる。

 結婚の約束もなしに、男と交わった、ふしだらな女の烙印を押されるからだ。

「わかった」と僕は言った。まだ十四にもならないアズをそんな目に会わせるわけにはい

かなかった。

 乙女であることが証明されたとしても、川に身を投げた少女を見たことがあった。また、ここを離れて、『アイツラ』の女が、外の世界で無事に生きていけるとは思えなかった。「結婚の誓いをしよう」

 僕とアズは、左手を握り合い、お互いの手の甲に唇をつけた。

「ケン、ごめんなさい」とアズが言った。

 僕とアズは、村の広場の前にある、フェオ様の家に向かった。

 思った通り、家の周囲には、大勢の人が集まっている。ほとんどが年寄りだったが、赤

ん坊を抱えた女性や、おなかの大きな女性もいた。

 僕は、アズを守るようにして、家の中に入った。

 人が十人も座れば満員になる部屋の中央に、フェオ様とソーン様が座っていて、その両

横にアズの両親が仕事を休んで来ており、アズの妹と弟、僕とアズを見たという証人がそ

の後ろに座っていた。

「私達の小さな宝であった、アズとケンも、結婚のできる年齢となった。これは、めでた

いことだ」とフェオ様が言った。皆が百才を越えていると噂していたが、髪が白くなって

いるだけで、顔のつやもよく、皺は、顔の飾りのように見えた。

 ソーン様の方は、何も言わなかった。ソーン様は、フェオ様よりも、年が若いという話

だったが、目は、皺の中に埋まり、頭には毛がなく、それを補うかのように、長い山羊の

ような髭を生やしていた。

「この結婚に不服のある者は申し述べよ」とフェオ様が言った。

「まず、二人の年齢には、不足はございません」としきたり通りに、証人が言った。

「ケンの両親が、この場にいないのは、残念ではありますが、アズの親として、この結婚

に不足はございません」とアズの母親も、しきたり通りに言った。

「不足はございません」とアズの妹が回らない舌で、練習してきた通りのことを言った。

「ご両親様に、ご祝福いただき、ありがとうございます」と僕も、しきたり通りに言った。 アズは、少し、詰まった。

 僕の両親がいれば、僕と同じことを言えばよかったのだが、残念ながら、僕には、両親はいなかった。

 ソーン様は無表情だったが、フェオ様は、微かに微笑んだ。

「ケンの両親も、ここにいれば、二人を祝福したことでありましょう」

 アズは、ホッとしたように、「ご両親様に、ご祝福いただき、ありがとうございます」

と言うことができた。

「これで、二人は、天と地の間で、夫婦となりました。気が添う限り、お互いに助け合う

ように。気が添わなくなれば、二人で申し出るように。新しい住処は、二人で協力して築

くように。ソーンと私からも、祝福を与えます」

 最初の結婚をするのには、両親や村長からの祝福が必要だったが、結婚を解消するには、二人の合意があればよかった。そして、二度目以降の結婚には、誰も関心を払わなかった。

 ソーン様が、合図をすると、証人が大きな長い筒のようなものを持って来た。

「私とソーンは、ケンの親代わりでもあります。この刀は、ケンの父親が、ソーンに預け

ていったものです」とフェオ様が言ったので、僕は、驚いた。

 刀などというものは、今まで見たことがなかったからだ。

 フェオ様が、合図をすると、アズの母親が、ザルに一杯の穀物の種を持って来た。

「この穀物は、アズの両親が、娘の結婚のために、少しずつ蓄えていたもの。私達の子孫

を増やすように、穀物の子孫も増やすように」

「ありがとうございます」とアズと僕は、頭を低く下げて、刀とザルをいただいて、小屋

の外に出た。

 僕達が中にいる間に集めていたのだろう。華やかな歓声と共に、僕達の頭上に、赤や黄、白やピンクの花びらが舞った。

「おめでとう」

「ありがとう」

 食べられる花なので、まいた方も、まかれた方も、急いで拾い集めた。

 しばらくは、家探しで忙しくなりそうだった。

 昔は、材料を集めて、村中総出で、新しく家を作ったらしかったが、今では、適当な材

料がほとんど無くなっている。売れるものは売り尽くしており、食べられるものは食べ尽

くしている。

 結婚に適した若い世代も数少ないし、働き盛りの人間は、町に出てしまっていて、村で

は、老人だけの家も多い。

 そこで、僕やアズのような新婚者は、老人を手伝って、家の修理をしたり力仕事をしな

がら、居候させてもらう習慣になっていた。

 村の中をあてもなく歩いていると、村の外れに住む老婆が、僕とアズを手招いた。

「私は、身寄りのない身、世話をしてくれるなら、一緒に暮らしてもいいが、どうか」と

老婆は、しきたり通りに言った。

 名前があるのだろうが、皆が陰で『魔女』と呼んでいる老婆だ。

 僕とアズは、失礼にならないように、ソッとお互いの顔を盗み見た。

 できたら、普通の老人の方が良かったが、年長者からの申し出は、尊重しなければなら

ない。断ると、大変な恥をかかせることになるからだ。

「お蔭で、今宵の宿を探さずにすみました」と僕が、しきたり通りに答え、僕達は、老婆

の家の居候になることにした。

 三人が身体を真っ直ぐにして寝なければいけないような小さな粗末な小屋だったが、少

し片づければ、もう少し、居心地よくなりそうだった。

「私は、ウル。フェオよりも、十の季節ほど前に生まれた」と老婆は言った。魔女にも、

名前があったのだ。

 フェオ様が、噂通り、百才だとすれば、ウルは、百十才ということになる。

「フェオの生まれた年に、私達は、ここに追いやられたのだ」

 僕とアズは、部屋の中を片づけ、夜になった時に寝る場所を、何とか作ろうとしていた。「ここって、この家?」と僕は、仕方無く、ウルの相手をした。その間も、手は、小屋の中に重なり合っているガラクタを外に運び、方々に転がっている木の実を口に運んだ。

 乾燥しきっていたので、腐っているわけではなかった。

「ここは、穀物も木の実も野菜も育たぬ土地だ。今では、多少は育つようになったが。私

達は、肥沃な土地の、大勢の神に守られた民だったのだ。神々の像は壊され、神々の土地

を追われて、私達は、神無き民になってしまった」

「『無垢なる一族』?」と僕は、今日聞いたばかりのことばを言ってみた。誰かに、尋ね

てみたかったのだが、今の今まで忘れていたのだった。

「誰に聞いた」

「誰って、ええと、太陽のような髪で、目の青い女の人だ」

『綺麗な』というのは、アズの手前言わなかった。

「名前は?」

「さ、さあ、知らない」

「ラーヤか?」

「さあ、そうかもしれない」

「フェオと同じくらいの年か?」

「いや、もっとずっと若い」

「目は?」

「空のように青かった」

「見えているようだったか?」

「さあ、わからない」

「たわけ!」とウルは怒鳴った。

 思ったよりも怒りっぽい婆さんだ、と僕は思った。

「私達は、あの女に騙されたのだ。あの目の見えぬ、哀れな様子に騙された。あの優し気

で、優雅な仕種に騙された。土地は肥沃で、大地は恵みに満ち、神々は、いたるところで、私達を祝福していた。私達は、祖国を失ったという女の話に同情し、住むところと食べる物を与え、宝物のように大切にした」

 けど、それは、百年も前のことで、別のラーヤのことだろう、と僕は思った。

「男共は全員、あの女の魔法にかかってしまった。ただの腰抜けになったのだ。フッ。あ

の威張りくさったソーンも例外ではない。あの時は、フェオも慌てたものだ。いや、あれ

は、別の時の話だったかな……」

 僕は、内心、フェオ様が生まれた年なら、ソーン様は、まだ生まれてもいないだろう、

と思っていた。ウルは、年を取り過ぎて、昨日のことも、百年前のことも、同じになって

いるのだろう。

 ウルは、ブツブツ言いながら、わらの下から乾燥した食物を取り出して、口に入れて、

モグモグやりだした。僕は、唾を飲み込んだ。食べ物だ。

「欲しいか」とウルが言った。

「欲しい」と僕は答えた。

「ウル様、私も欲しい」といつの間にか、アズも横に来て座っていた。

「どうやって、そのラーヤという女は、魔法を使ったの?」

「男を狂わす匂いのする薬草の汁でも塗ったのだろう」とウルは、しぶしぶもう一つの乾

燥した果物を取り出して、苦労して二つに分けて、それぞれを僕とアズにくれた。

「ウル様、これは何? おいしい」とアズは言った。

「乾燥した柿だ」

「こんなものは、この村にはない」と僕は言った。見たことも聞いたこともない。生まれ

て初めての食べ物だ。

「当たり前だ。これは、果樹園というところにある。そこで働いている人間が持ってきて

くれたものを乾燥させたのだ」

「ウル様の家族?」とアズは瞳を輝かした。僕だって、同じ気持ちだ。これで、食べるも

ので苦労することは、減るかもしれない。もっと大きく強くなって、兵隊になれるかもし

れない。

「赤の他人だ。この村で起こることなんかは、村の外で起こることの百のうちの一だ」

 そう言うと、ウルは、わらの下から、瓶を次々と取り出した。

「男を狂わす匂い、女を狂わす匂い、それと、人を眠らせる水、一滴なら一日だが、三滴

あれば、ずっと目が覚めない」

 アズが、ブルッと震えるのがわかった。

「この村ではいらないものが、外の世界では、必要になるのだ。フッ。この村でも、時々

は、必要になるようだが。私の飲み水に、三滴たらす人間もいるが、私の身体は、この水

に慣れていて、一瓶飲んでも大丈夫にできている」

 ラーヤを魔法使いのように言っていたが、お前の方は魔女ではないか、と僕は心の中で

思った。

「私が、この不便な場所に住んでいるのは、来る人に便利なようにだよ。誰にも見られず

に、来られるようにね。あんた達が来てくれれば、もっと仕事がはかどるよ。今までに食

べたことのないようなものが、腹いっぱい食べられる。あんた達は利口だから、ここでの

ことは、誰にも話さない。そうだね?」

 アズと僕は、同時に唾を飲み込んで、「はい」と答えた。

「フェオとソーンに言っても無駄だよ。あいつらは、知ってて黙っているのさ。なぜだか

わかるかい? お前達と一緒なのさ。フン。命は惜しいし、食べ物は欲しいのさ」

 僕の知っている世界が、グルグルと回っている気がした。

 皆に尊敬され、崇拝され、そのことばは絶対だと信じてきた、フェオ様とソーン様のイ

メージが、ガラガラと崩れていく。

「お前達の望みは何だい? アズ、お前は、ケンと結婚したかった。ケンなら一生守って

くれると知っていたからだ。賢い娘だよ。ケン、お前は、うまくアズの一家にはめられた

のさ。お前の方も、大きく強くなって兵隊になりたかった。なぜなら、兵隊になれば、腹

いっぱい食えるからだ。つまらない話だ。ついておいで。それから、その指輪は、私に持

たせておくんだね。お前が持っていたら、大変な災難に会うよ」

 アッと思う間もなく、光る輪は、僕の手から、ウルの手に渡っていた。手をこじ開けら

れたわけでもないのに、不思議な話だ。やはり、魔法を使うのか?

「返せよ」

「取りはしない。必要になったら、返してやるよ」

「絶対だぞ」

「約束するよ。これは、こうやって使うものなんだよ」

 そう言って、ウルは苦労して、輪を小指にはめた。輪が小さすぎて、ウルの小指の先が

赤黒くなってきた。そのためか、指の輪は、目が切れるような白い光線を発していた。

「これじゃあ、ダメだ。目立ち過ぎる」

 ウルは、首にかけている皮紐を引き出し、その先についていた袋に輪を入れると、また、喉元から胸の奥深くにしまった。

「さて、今から行くところは、ちょっと遠いけど、最初は歩いて行くんだよ」

 僕とアズは、少しそわそわした。多分、同じことを考えているに違いない。

「心配しなくっても、ウル婆さんの小屋なんかに、誰も近づきはしないよ。怖くてね」

 僕達は、乾燥した果物や、色々な瓶のことを心配していたのだ。僕だったら、怖くても、盗みに入る。

 僕達の村を出ると、ウルは、小さくなって、うつむいて歩いた。僕とアズもそれに習っ

た。ウルの来ている服というよりも布は、歩くごとにあちこちがビリビリと裂けて、切れ

はしが風に乗って飛んでいった。それでも、ウルは、擦り減ってはいたが、底のある履物

をはいている。そのせいかどうか、僕とアズの息が切れるぐらい、足は早かった。

 道端のあちこちに、しなびた野菜が捨てられていた。

「ウル様、野菜を拾っていきましょうよ」とアズが、たまりかねて言った。

「野菜は、帰りに拾うがいい、拾いたいなら。今は、道を急ぐ」

「はい」とアズは、後ろを惜しそうに見ていたが、諦めたようだった。

 村を三つぐらい越えると、道が広くなった。アズは、足を引きずっていたが、何も言わ

なかった。

「ここで待っておいで」

 ウルは、今まで、僕達の歩く速度に合わせていたのか、一人で滑るように進んでいくと、姿が見えなくなった。

 しばらくして、向こうから、牛の引く乗り物がやってきた。

 僕とアズは、慌てて、道の端にしゃがんだ。

 牛の引く乗り物に乗る人は、平気で僕達を踏み潰すことを知っていたからだ。

「何してるんだい」とウルが、乗り物から顔を出した。

「早く乗って」

 早く乗って、と言われても、こんなものに乗ったことがなかったので、アズと僕は顔を

見合わせるばかりだった。

 牛に乗っている男の人が二人降りてきて、僕とアズを抱え上げて、乗り物に乗せた。

 中は、小さな小屋よりももっと小さな箱のようになっている。天井が開いていて、僕と

アズは、そこから乗せられたのだ。

「外を見てもいい?」と僕は尋ねて、答えを待たずに立ち上がった。アズも僕の横に立ち

上がったが、僕よりは、頭一つ小さいので、外を見ることができず、諦めて、ウルの隣に

座った。

「早くやっておくれ」とウルは叫んだ。

 すると、牛のスピードが早くなった。

 僕は、顔半分を外に出して、景色が自分の前から迫ってきて、後ろに飛び過ぎていくの

をドキドキしながら眺めていた。

 遠くに、高い山と、金色に輝く宮殿が見えた。この早さなら、アッという間に宮殿に着

くのではないか、と思ったけれど、山も宮殿もいくら経っても、同じ方角に同じ大きさで

見えた。

「ケン、ケン」とアズが、僕の服を引っ張ったので、服はビリビリという音を立てて裂け

てしまった。

「何をするんだ」

 僕は、突然、訳がわからなくなった。

 何か、大変な間違いを犯してしまった気がした。間違ったところに来たような気分だ。

 クックック、とアズが笑った。

「さっさと着替えるんだよ。そのボロ布をぶら下げて、町に行くつもりかい?」とウルが

言った。

 アズが、桃の色の綺麗な布を身体につけている。別人のようだ。

 もっと別人になってしまったのは、あの薄汚れた老婆のウルだ。

 顔の色まで変わってしまい、老婆と言っては、おかしいぐらいだ。

 やはり魔法使いなのか、スッカリ別人だ。町の金持ちが着るようなローブまで羽織って

いる。

「アズ、私がやったように、やってあげなさい」とことばつきまで、何だか変わってしま

い、初めて会った町の奥様のようだ。

「わ、やめろよ」

 アズは、変な匂いのする布で、僕の顔を拭いた。布は白かったが、すぐに茶色になって

しまった。別の布で髪も拭き、その布も茶色になった。

「どれがいい?」とウルとアズは相談している。

 アズは、春の初めに萌立つ若葉色の服を選んだ。それを、僕の頭から、スッポリと被せ

た。それは、膝までの長さがあった。

「ケンも」と言って、アズは、何かの植物の蔓で編んだような履物を出した。

「足は、自分で拭きなさい」とウルが言った。足を拭いていると、自分の足が、今まで思

っていたよりも、白いことがわかった。汚れていたわけだ。

 履物を履く時は、ドキドキした。そんなものを今までに履いたことがなかったので、ど

ういうしきたりで履けばいいのかわからなかったのだ。

 アズは、今までずっと履いていたかのように、手早く僕に履物を履かせて、最後に、蔓

で足首に固定した。

「着ていた服は取っておくんだよ。また、帰る時に必要だからね」とウルが言った。

 変な匂いのする布のせいか、自分の脱いだ服から、今まで気がつかなかった、腐った匂

いがするのがわかった。

「いいかい、ここからは、私は、ギフ。決して、ウルと呼ぶんじゃないよ」とウルが、い

や、奥様みたいになってしまったギフが言った。

 車は止まり、座っていた場所の横が、外から開いた。

「さ、降りて」とウル、いや、ギフが言った。

 僕は、恐る恐る、一番最初に降りた。

 それから、アズが降りてきて、最後に、ウル……ギフが降りた。

「ギフ様、お帰りなさいませ」という声が聞こえ、その声の方を見ると、町の奥様のよう

な恰好をした女の人や、偉い旦那さんみたいな恰好の男の人が、ズラッと並んでいた。

 女の人は、アズみたいな恰好をしていて、男の人は、僕みたいな服を着ている。ギフの

ように、ローブを着ている人はいなかったので、ギフが一番立派に見えた。

「私の養子夫婦だから、私に対するのと同じに、仕えるように」とギフが言うと、皆が一

斉に、頭を下げてお辞儀をした。

『私の養子夫婦』か、と僕は思った。単なる居候ではないわけだ。

「お食事の支度ができております」と年長の女性が言った。

 それからの一時間、僕とアズの目からは、なぜかわからない涙が出続けていた。

 野菜を使った温かい料理、全然腐っていないパン、乾燥していない果物、それに、動物

の肉を焼いたようなもの。

「動物を食べるなんて」とアズは、抵抗を示していたが、僕は、何でもいいから、ガツガ

ツと食べた。まるで、明日死んでしまうみたいに食べて食べて食べた。涙を拭きもせずに

食べた。早く食べないと、魔法で消えてしまうような気がして、急いで食べたので、味な

んかはわからなかった。

 これ以上食べると吐く寸前まで食べて、ようやく手の甲で涙を拭った。

 もう、いつ死んでもいいような気がした。僕は、いつか、おなかいっぱいに食べるとい

う目的のために生きてきたのだ。その究極の目的は達成された。

「どうだ、満足したかい?」と自分の方が満足そうに、ギフが言った。

「はい」と僕とアズは、声を揃えて言った。

 ようやく、周囲を見回す余裕ができた。

 ウルの小屋とは、大変な違いだった。ギフの家は、お城と呼んでもいいぐらいだ。

 もっとも、この時は、本当のお城を知らなかったわけだが。

 多分、もう夜になっているはずなのに、透明な筒に入った小さな太陽のせいで、昼間の

ように明るかった。木の枝や藁で作った家では無かった。

 石で作った家みたいだ。食事でも、ウルの小屋のように地面に座って地面から食べるの

ではなく、大きくて立派な木の台の上で食べていた。

 食べ物も、綺麗な器に入っている。僕は、手で食べていたが、ギフとその真似をしたア

ズは、木でできた道具のようなもので食べていた。

「今日は、もう休むといい。お前達の初めての夜になる。アズの方がよく知っているから、アズに教えてもらうがいい」とギフが言った。

「それと、最初の子供は、生まぬ方がいいだろう」

 ギフのことばは、謎だらけだ。

 なぜ、と尋ねるよりも、長旅の疲れと満腹感で、僕は眠くなっていた。

『初めての夜』と思って起きている気でいたが、アズはいつまで経ってもやって来ず、遠

くから微かな話し声が聞こえていて、僕は、そのまま眠ってしまった。


 目が覚めた時、僕は、遠い遙かな夢を見ているような気がしていた。

 僕の周りには、緑の大草原が広がっていて、太陽は頭上に輝き、僕の周囲も黄金色に輝

いていた。

 そのうち、その色は、寝具の色に落ち着き、僕は、転がるようにして起きた。

 自分の今いるところが、緑の大草原なのか、湿った枯れ葉の中なのか、わからなかった

のだ。

 僕は、柔らかい布に囲まれていた。ここは、一体、どこなのだろうか。

「ケン、もうすぐ食事よ」というアズの声がした。その声に誘われるように、ゆっくりと、前日の出来事を思い出した。

 夢では、無かったのか。

 着ているものも、ボロではなくて、きちんとした萌木色の服だ。

「ケン、ケン、凄いのよ」とアズが、部屋に入って来た。

「早く、早く」とアズが、僕を急かせる。今日のアズは、薄紅の布を身にまとっている。

昨日よりも、もっと綺麗になっていた。

「私が作ったのよ」とアズが、得意そうに言った。

 ウルの小屋ぐらいの場所に、水の入った箱がある。プーンと変な匂いがした。

「ギフに言われる通りに作った、ケン用の風呂の湯よ」

「風呂の湯?」

 風呂の湯というのは、水よりも温かだった。夏の日の川のような感じだ。

 僕は、アズに言われるままに、湯の中に入り、乾いた草の束ねたようなもので、アズに

身体中をこすられた。湯の色が黒く変わっていく頃には、僕の身体は、昨日よりももっと

白くなっていた。黒い髪は赤褐色に、黄褐色の肌は、薄い褐色に。

 アズが僕の身体を拭いている間に、アズを抱き締めようとしたら、スルリとかわされて

しまった。

「ギフ様が、食事を待っているのよ」とアズは言った。

 まるで、僕の妻ではなくて、ギフの召使のような言い方だ。

 アズが用意していた服を見て、僕は、ドキッとした。この白さは、あのラーヤが身にま

とっていた服の白さと同じだ。

「ギフ様の言う通りだわ。この白は、あなたの色ね、ケン。この姿見に写してみればいい

わ」

 湯の横に、壁一面の反射する板があり、そこに、白い服を身につけた男が写っていた。

 これが、僕なのか。または、板に描かれた自分の夢なのか。

 ギフの待っている、昨日と同じ木の台の上には、湯気の上がった、今できたところだと

いう料理が待っていた。パンにまで、湯気が上がっている。反対に、生の果物には、まる

でもぎたてのような露ができていた。

「さあ、たっぷりお食べ」とギフが言った。

「今日は、あのお前の刀を研ぎに出そう。いくら元がいいものでも、あのままでは、使い

物にはならない」

 そうなのか、と僕は思った。父親からの贈り物があっただけで感激していたので、それ以上のことは、何も望んでいなかったからだ。

「それと、刀には使い方がある。それも、学んだ方がいいだろう。さあ」と言って、ギフ

は、僕の左手の薬指に、例の輪をはめた。その輪のきらめきは、また、僕の目を射った。

「今のお前なら、これを持っていても、誰も怪しむまい」

 輪の織りなす光の渦を見ながら、やはり怪しまれるだろう、と思ったが、ギフには言わ

なかった。

「血は争えぬ」とギフは、また、謎のようなことを言った。

「お前の父と母さえ生きておれば」

 後は、食事の時間になった。

 前日とは違い、僕は、初めて食べ物の味を噛み締めた。そのおいしさに、また流れよう

とする涙を、今度は、グッと飲み込んだ。

「もう遅いかもしれぬが」とギフがまた、謎のようなことばを言った。

「今度こそ、何とかせねば」


「ギフ様、行ってらっしゃいませ」

 またも、ギフの家の前には、大勢の人々が並んでいた。

 来た時には、意識しなかったが、ギフの家の近くには、同じように立派な家が並んでい

る。全部、石でできた家だ。家の屋根は、先のとんがった形になっていて、指の輪のよう

に光っていた。

 牛の乗り物が待っていて、僕とアズは、今度は、横の入口から中に入った。

「まず刀を預けて、私の仕事場に行こう」

 僕は、また、屋根から顔を出そうとしたが、ギフに足をピシャリと叩かれた。

「子供みたいな真似をするんじゃない!」

 子供の背で、外が見えるものか、と思ったが、何も言わなかった。

 牛の乗り物が止まり、ギフは、僕に刀を持たせて、一緒に降りた。

 刀の店は、ギフの家ほど立派ではなかった。同じように石でできてはいたが、ずっと小

さくて多少崩れかけており、屋根のとんがりも光ってはいなかった。

「ラッド、いるかい?」

 奥から、僕と同じぐらい痩せた男が姿を現した。僕と同じような服を着ていたが、色が

褪せて、生地が薄くなっている。若いのか年を取っているのか、わからなかった。

「ウルじゃないか。まだ生きていたのかい」

「ウルって呼ぶんじゃないよ」

「何言ってんだい。一度は、結婚した仲じゃないか」

「ああ、もう、こんなとこに来るんじゃなかった。私も若くて、バカだったんだよ」

「オレも、若くて、間抜けだったよ」

 ということは、この男も、百才を越えている?

「今日は、刀を見てもらいに来ただけさ。さあ、ケン、刀を出して、この間抜けに見せて

おやり」

 僕は、言われる通りに、刀を鞘から出して、ラッドに見せた。

「おお! これは……」

「そうだよ。ケンの父親のものだ」

「ずっと昔に無くなったと聞いていたが」

「父親が、ソーンに預けていたらしい」

「なるほど。そういうことか」

「使えるようにして欲しい」

「今でも、充分……アチッ」とラッドは、叫んだ。

「すまないね、足が当たったみたいで。磨いておいておくれ」とギフは言った。

「ああ、それから。これに見覚えはないかい?」

 ギフは、僕の薬指の輪をラッドに見せた。ラッドの目が、輪の光に当たったみたいに光

っている。

 ラッドは、しばらく困ったように、考えこんでいた。

「見なかったことに、しておくよ」とラッドが言った。

「そうかい? 私が何で、これをお前に見せたのか、よく考えてみるんだね」

「よく考えてみたけど、オレは、何も見なかったってことだ。オレが、あんたなら、そん

なものは、見えないところにしまうか、海にでも捨てに行くよ。いくら名前と服を変えた

って、陰で『アイツラ』と呼ばれていることに、変わりはないんだ。いい加減に、気がつ

けよ、ウル」

「ウルって呼ぶんじゃないって、言ってるだろ。相変わらず、イヤな男だ」

「お前は、いい女だよ、ウル。悪企みさえしなかったらね」

「また、来るからね」

「ああ、また来いよ。なるべく近いうちに」

 牛の乗り物で待っていたアズは、好奇心で目を輝かせていたけど、僕もギフも何も言わ

なかった。アズは、ふくれて、横を向いた。

 次に、牛の乗り物が止まったところも、ラッドの店のように、崩れかけて、薄汚れた家

だった。ただ、屋根の上のとんがった部分だけは、太陽の光を浴びて、キラキラと輝いて

いた。

「あの光っているのは、何?」とアズが尋ねた。

「エネルギーの……ま、今では、ただの飾りだよ」とギフが答えた。

 家の中は、薄暗かった。

 壁には、棚があり、色々な瓶が並んでいる。

 食事をする板の上には、火のついた大きな鍋があり、中で、ドロドロした液体がブクブ

クと煮え立っていた。

「あと六日でできる予定だ」とギフが言った。

「ギフ様、これは、何なの?」とアズ。

「お前達に言っても、わからないものだよ」

「眠る薬?」

 ギフは笑った。

「そんなものを煮え立たせたら、お前達は、アッという間に、この場に倒れて、二度と目

を覚まさないよ」

 アズが、ブルッと震えた。

 ギフは、薄暗がりの中で、大きな瓶の中の液体を、小さな瓶に移し始めた。空気がピー

ンと張り詰めているので、ギフが大変な神経を使っているのがわかった。

 アズと僕は、息を詰めて、ギフの作業を見守っていた。

 作業が終わり、ギフは、小さな瓶を、一つずつ色々な印のついた布にくるんで、皮の袋

に詰めている。

 その時、何か黒い物が、店の中に飛び込んできた。

「おお!」とギフは、叫んだ。

「まさか。何で……」

 ギフの手の上に、黒い鳥が止まっている。

「どうしたの、ギフ様」とアズが、恐々と尋ねた。

 しばらく、ギフは、黙って、鳥を見ていた。

「何でもない」とギフが言った。

 黒い鳥……なぜか知らないが、不吉な気がした。

「ソーンからの知らせだ。当分、村には戻ってくるな、ということだ。なぜかは知らんが

な……仕方がない。当分、町で暮らすことにしよう」

 アズは、ワッという顔で、瞳を輝かせていたが、僕の胸は、不安で圧し潰されそうにな

っていた。ギフは、何かを企んでいた。そして、今は、何かを隠している。

 小さな瓶を詰めた皮の袋を大事そうに持つと、ギフは、仕事場を後にして、牛の乗り物

の方に向かい、僕とアズも後を追った。

 牛の乗り物の前には、牛の半分ぐらいの動物に乗ったラッドが待っていた。ラッドは、

僕の預けた刀を手に持っている。

「これは、返しておくよ」とラッドが言った。

「一応磨いておいた。どうする、ウル?」

「あんたは、どうするんだい?」とギフが言った。

「したいことができるんだったら、店を続けたかったが、それは、もう無理だ」

「私の家は?」

「今は、帰らない方がいいだろう」

 アズと僕は、わけがわからないまま、二人の会話を聞いていた。

「これは、よく持ってきてくれたよ」とギフが、刀を持って言った。

「あんたとオレと、このオチビさんの分も持ってきたよ」とラッドが言った。

「私は、アズよ、ケンの妻の」とアズが、『オチビさん』と呼ばれたことに抗議したが、

二人とも聞いていなかった。

「ま、馬を繋いで、一緒に乗りな。あんたとは、本当に、腐れ縁だ」

「まったくだ」とラッドが言った。

 ラッドは痩せていたが、四人が乗り込むと、箱の中は、かなり窮屈になった。

 僕とアズは、服の入った袋や、四振りの刀なんかを、隅に寄せた。ラッドとアズ、僕と

ギフが向かい合わせに座ると、ようやく落ち着いた。

「森の家へ」とギフが言ったが、牛の車はなかなか動かなかった。

 ラッドが降りて見に行った。

「牛乗りの姿が消えている。賢いヤツラを雇ってたな。牛も一頭いなくなっている」

「何て、ヤツラだ。高い賃金を払っていたのに」とギフが憤っている。

「牛一頭で引くには重すぎる荷だな。そこのオチビさん、お前は、この馬の後ろに乗れ。

ケンは、牛に乗って、オレの言う通りに動かせ。婆さんは重いから、牛がもたないだろう」「本当に、一言多いイヤな男だ」とギフが言った。

「お前はいい女だよ、ウル。ただ、もうちょっと体重が少なかったらな」

 僕は、恐々と、牛の背にまたがった。服が太股までめくれあがった。ラッドの方を見る

と、僕と同じような服の下に、膝まである短いパンツをはいている。

「ほらよ」とラッドが自分の荷物の中から、同じようなパンツを取り出して、僕の方に投

げた。僕は、苦労して、牛の背中の上で、パンツをはいた。

「普通、降りてはくもんだ、横着者め」とラッドがブツブツと言った。

 アズも乗り物から降りてきて、ラッドに軽く引き上げられて、「キャア、キャア」と言

いながら、ラッドの後ろに乗った。

「オチビさん、オレにしがみついておけよ。ケン、オレのやる通り、真似をしろ」

 僕は、真剣にラッドのすることを真似した。すると、牛は歩き始め、そのうちスピード

が増してきた。

「ラッド、急ぐんだよ」とギフが、乗り物の中から叫んだ。

「わかってるよ」

 ラッドは、途中で、脇道に入り、道幅は狭くなった。僕の引く牛の乗り物は、ラッドの

後についていった。

 周囲に木々が増え、そのうち、辺りが暗くなった。どうやら、森の中に入ったらしい。

 道幅はもっと狭くなり、牛の乗り物がギリギリで通れるぐらいだ。すぐ横に、樹木の大

きな根が張り出していたりする。

「牛車は、ここまでだ」とラッドが言った。道の先が、もっと狭くなり、牛一頭が通れる

ぐらいしかなかった。

「ケンは馬を引け。オレは、牛を引く」

 僕は、アズの乗った馬を引き、ラッドは、牛にギフを乗せて、引き始めた。アズは、服

の入った袋を持ち、ギフは、刀と皮袋を抱えていた。

「牛が泡を吹く前に、降りてくれよ」とラッドがギフに言った。

「本当に、イヤな男だ」

「ウル、お前はいい女だよ。ただ、牛より軽ければな」

 ギフが、牛の上から、刀の先で、ラッドの頭を叩いた。

 僕達は、暗い森の中を、黙々と歩いた。おなかがすいていて、周囲の木々を見回してい

たが、食べられるような木の実は無かった。喉もカラカラだ。

「牛と馬は、ここまでだ」とラッドが言った。

 水のわく場所だったので、牛と馬に水を飲ませて、僕達も水を飲んだ。

 牛と馬の食べる草はあったが、僕達の分は無かった。

 牛と馬を水の近くの木に繋いで、そこからは、道なき道を探すようだった。

「ここまでは、馬か牛で来られても、ここからは、誰も辿り着けないのさ」とギフは、自

慢そうに言った。

 僕達は、来た道をしばらく戻り、他のどこと比べても何の変わったところもない、木と

木の間に入って行った。木の根の隆起をいくつか越えたりしていると、人が何度か踏み締

めたような落ち葉を敷き詰めたような道とは言えない道に出た。


「滑るから気をつけるんだよ」とギフが言った。

 ギフが皮袋を下げて先頭を歩き、服の袋を背負ったアズ、自分の刀を持った僕と続き、

ラッドが残りの刀を持って最後を守った。

 道は、徐々に下っていき、落ち葉と一緒に、ズルッと滑り落ちてしまいそうだった。

「ここからは、もっと急になるから、木の枝をつかみながら歩くんだよ」

 僕は、ギフがつかみ、アズがつかんだ木の枝をつかんで、道を下って行った。

 突然後ろで「わあ!」というラッドの叫び声がして、何かが腰の辺りに当たり、その拍

子に、僕も「わあ!」と叫んで、滑ってしまった。

 僕の足がアズに当たり、アズは「キャア!」と叫んで、ギフに抱きついた。

 ギフは、そのまましばらく持ち堪えていたが、ラッドと僕が、滑って落ちてきたので、

とうとうこらえきれずに、足を滑らせ、そのまま四人は一固まりになって、落ち葉の道を

滑り落ちていった。

「どこかに掴まるんだ! 何かを掴むんだ!」とギフが叫んでいる。

 そう言われても、滑り落ちているスピードは速く、アズはギフに、僕も、刀とアズごと

ギフに掴まるしか手はなく、後ろからは、ラッドが重しになって落ちて来ているので、ど

うしようもなかった。

「ウル!」というラッドの叫び声と、ギフが、ガシッと大きな枝に片手でしがみついたの

は、ほぼ同時だった。

 僕とアズは、今までの惰力で、ギフにしがみついたまま、進行方向に半回転した。きつ

くしがみついていなければ、振り落とされているところだ。

 その位置から、何とか片手で、木の枝に飛びついたらしい、ラッドの顔が見えた。

「ラッド、あんたが、最初にお行き」とギフが言った。

 ラッドは、器用に片手で枝から下り立つと、まだ、僕とアズを腰にぶらさげたままのギ

フをよけて、先頭に立って歩き始めた。

 ギフも、しがみついた枝から下に降り、まだ、僕とアズをぶらさげたまま、ラッドの後

を歩き始めた。

 僕は何とか、近くの枝を持ってギフから離れて一人で歩いたが、アズは、まだぶらさが

ったままでいるつもりらしかった。

「最初から、ラッドのバカを先頭にすればよかったんだ」とギフは言った。

 しばらく歩いていくと、道は二手に分かれていて、一本の道は、小高い丘に続いており、あのまま僕達が滑り落ちて行くはずだった道は、中空で途絶えていた。

 僕の背中に鳥肌が立ち、アズは、ギフの腰にしがみついたまま、シクシク泣き出した。

「大抵のヤツラは、ラッドのバカみたいに、海に向かって、空中ジャンプさ」とギフが言

って、ブルッと身を震わした。

「もう少しで、この私までジャンプするところだった」

「泳ぐにはいい季節なんだが、海まで遠くてね。途中で、岩にぶつかってしまうだろうね」とラッドが、他人事のように解説した。

 小高い丘に続く道も、同じような道だったが、転げ落ちるほど急な道ではなかった。

「アズ、いい加減にしないかね」とギフが言った。

「ギフ様、すみません。このまま動けないのです」とアズが言った。楽をしようと思って

いるわけではなく、筋肉が固まってしまって、身動きが取れなくなっていたらしい。

「仕方がないねえ。ま、腕が一本増えたと思えばいいけど」

「おいおい、指が一本だろう」とラッドが言い、「このバカラッド、大体、あんたのお陰

で、私達が、一体どれだけ……」というギフの悪態が、丘の上に着くまで続くことになった。

「やあ、見晴らしのいい所だなあ」と丘の上で、ラッドが周囲を見渡した。

「見晴らしがいいだけじゃない。ここは、宮殿からも神殿からも、他の山からも見えない

場所にあるんだ。私が、こういう時のために、見つけておいた秘密の場所さ」

「で、あんたの家は、どこにあるんだい? まだ、歩くのかい?」

「ここに家を建てる予定だったのさ、いつかね」

 ギフの答えを聞いて、アズがドスンとギフの腰から地面に落ちた。筋肉が緩んだものら

しい。

 ラッドも、ドサッと丘に座り、僕もヘタヘタと、その場にしゃがみこんだ。

「材料は、いくらでもあるじゃないか。木だって、石だって、落ち葉だって。ほら、ここ

に、こんな手頃な石が……」

 ギフが、突然黙ったので、残った三人は、ギフの方を見た。

「同じことを考えた人間が、昔いたみたいだね」とギフが言った。

「見てごらん。これは、ただの石じゃない。家の跡だよ」

「ただの石だろう。いや、そうじゃないな。何かの一部だ」とラッドが、ギフのそばに行

き、石の上のゴミや砂を払った。

 僕も、好奇心にかられて、そばに行き、アズも仕方無くといった感じで、近くまで来た。「何かの印が彫ってある」とギフは、石を上からジッと見ていた。

「ウイン……喜び」

「ウイン……」

 ギフとラッドは、奇妙な顔をして、同時に、僕の顔を見た。

「ウインって何? 喜びって?」と僕は尋ねた。

「ウインっていうのは、喜びという意味の印なんだよ。それが、何で、こんなところに彫

ってあるのか……」とギフが言った。

「埋まってしまったのか、埋められたのか。掘ってみよう」とラッドが言った。

「これが、家の跡なら、何か食べる物が出てくるかもしれない」

 このことばは、全員にとっての回復剤の役割を果たした。

 それぞれが、何か掘るのに役に立ちそうな、木の枝とか、とがった石を探してきた。

 それからしばらく、全員は、文句も言わず、黙々と家を掘り出す作業にかかった。丘の

土は、思ったよりも柔らかく、年月が経って埋まってしまったというよりも、上から土を

かけて埋められたような感じだった。

「しかし、ここまで、どうやって、土を運んだのだろう」とラッドが言った。

「人が通るだけの道しかないし、大勢で沢山の土を背負って運ぶのは、無理な話だ」

「まあ、とにかく、掘り出してみよう」とギフが言った。

 家は、牛の乗り物の箱を二つ合わせたぐらいの大きさで、ギフの大きな家と同じような

石で作られていた。

 アズの頭が見えなくなるぐらいに深く掘ると、太陽の昇る方角に入口のようなものが見

えてきた。ちょうど、その反対側の海の向こうに、今まさに大きな陽が沈んで行こうとし

ていた。

 その時、丘が微かに横に揺れ始めた。

「地震だ。早く、穴から出て」とギフが言い、僕達は、慌てて、穴から出て、丘に這い登

った。

 横揺れは、徐々に強くなっていき、せっかく掘った穴が、また埋まりかけている。

「何かにつかまった方がいい。海の方に行くのは危ない」とラッドが言った。

 僕達は、海と反対の方に行き、なるべく根が張った木につかまった。

 その時、海の向こうの遠い山の頂上が赤く光り、ついで天まで届くような火柱が立って、山の半分が、瞬間に吹き飛んだ。

「あれは、火の山だ。ずっと休んでいた、伝説の火の山が爆発した」とギフが言った。

 そして、ドオオオン! という爆発音が耳を打った。と同時に、地面から突き上げられ

るような縦揺れが来て、思わず、強く木にしがみついた。そうしないと、どこかに飛ばさ

れてしまいそうだった。

「ダメだ。次が来る!」とラッドが叫んだ。遠くで、また一つ、火山が爆発して、火柱が

上がるのが見えた。

 ラッドは、刀で素早く木の蔓を切ると、それを、僕達と木に巻きつけて、縛ろうとした。 その瞬間、また、下からの強い縦揺れが来た。

「蔓にしがみつけ。離すな!」とラッドが叫んだ。

 目の玉が、脳天を突き破って、外に飛び出すような感じがした。後は、身体が前後左右

に揺すぶられ、何度も木にぶつかった。耳の周りには、ゴオオという音が渦巻いていて、

何も見えず、何も聞こえない状態がずっと続いた。

「大丈夫か」とラッドに身体を揺すぶられて、自分が蔓を握り締めたまま、気を失ってい

たことがわかった。起き上がろうとすると、身体のあちこちが痛んだ。

 ラッドは、頭と蔓を握っていた両手から血を流していて、アズは、気を失っていた。 ギフは、丘の端から、海の方角を見ていた。

 丘は、半分ほど失われていて、掘っていた家は、傾いたまま、丘の上に飛び出していた。 もう陽は沈んでいるのに、周囲はほの明るかった。遠くの山が二つ、近くの山が一つ、溶岩を噴出し続けているのだ。

「もうじき、潮が満ちる」とギフが言った。

 丘から見ていると、高い波が、徐々に低い地域に押し寄せていた。

「僕達の村は、どこ?」と僕は尋ねた。

 ギフは、しばらく空を見上げてから、火山と反対の方角を指差した。

「じゃあ、大丈夫なんだね」と僕は言った。何かいい思い出があるわけでも無かったが、

自分の生まれ育った村が無事だというのは、嬉しかった。

「この地震や噴火では、大丈夫だったが……」とギフは、言い淀んだ。

「まあいい。あの村は、植物の育たない固い岩盤の上にある。少々の地震で潰れることは

ない。空を覆うような大津波でも来れば、別だがな……」

「ギフ」とラッドが呼んでいた。

「家の中に食べ物があったぞ。それに、干した草や布も。火の道具もある」

「天の助けだ」とギフは言った。

 食べ物を運んでいる途中で、アズが息を吹き返した。

 僕達は、沈まない太陽の下にいるような気分で、まだ溶岩を吐き出し続けている火山を

見ながら、乾燥した果物、乾燥した穀類、乾燥した野菜、乾燥した動物の肉を、少しずつ

食べた。

 空腹が少しおさまれば良かった。こういう状態には慣れているので、この食料をどれだ

けもたすことができるかということを考えていた。

「もう一度、地震が来れば、この家は、海に落ちるだろう」とギフが言った。

 石でできた家を、森の方に運んで行くのは、無理だった。

 僕達は、中に入っている物を、森の方に運んだ。

 干した草や布は、素晴らしい寝床を約束してくれている。火の道具は、野性の動物から、身を守るのに役に立つだろう。

「ウインという印は、本当に、喜びの印だったね」と僕は、皆の気持ちを引き立たせよう

と思って言ったが、その言葉は、どこか空中で消えてしまった。

「さあ、一晩中、火を絶やさないようにして、寝よう」とギフが言った。

「子供は、先に寝な。私とラッドが、火の見張りをするから」

 ギフにそう言われるまでもなく、『僕は子供じゃないんだから、火の見張りぐらいできる』と思いながら、僕は、干した草と布の寝床に身体が触れたとたん、グイッと眠りの世

界に引きずりこまれてしまった。


 朝の太陽が、僕の顔を照らしていた。

 驚いたことに、火はもう消えていたが、僕達の周りには、鳥が集まってさえずっており、森の小動物も集まってきていた。少し離れたところには、もっと大きな動物の姿もあった。

 アズは、まだ寝ていたし、寝ずの見張りについていたはずの、ギフとラッドも、火の消

えたそばで寝ていた。

「ここは、安全なんだ」と僕は、鳥や動物達の姿を見て思った。

『まだ』ということばが、追加のように、頭に浮かんだ。

 では、ここも、いずれ、安全ではなくなるのだろうか。

 でも、溶岩を吐き続けていた山は、落ち着きを取り戻して、灰色の煙を呼吸している。

 太陽は、相変わらず明るく輝いていて、海は、昨日初めて見た海は、太陽の光を受けて輝きながら、昨日とは違って、ないでいる。

 小鳥達は歌っている。小さな動物達も、大きな動物達も、どこか安心したように、落ち

着いて、毛づくろいを始めたりしていた。

 まだ、皆が起きて来る前に、また、次の大きな地震が起こって、海に落ちてしまう前に、僕は、石でできた謎の家を見ておきたかった。

 家は、丘の上に、昨日と同じに、斜めに倒れていた。

 昨日、最後に何かを取り出した後、入口を閉めていなかったのか、入口が全開になって

いた。

 中に入る前に、フと思いついて、なぜか、ラッドが磨いてくれた、結婚祝いの刀を持っ

て来た。

 結婚して以来、まだ、初めての夜を迎えていないことに気がついたが、まあ、そんな状

況でも気分でも無かった。

 刀を持って中に入ると、入口が自然に閉まってしまった。

 しまった、と思って、入口だった辺りを押してみたが、ビクともしない。

 そのうち、真っ暗だった家の内部が、薄明るくなってきた。

 暗闇に目が慣れたのかと思ったが、そうではないようだった。周囲の壁が、微かに発光

を始めている。

 発光が終わったとたん、刀が鞘ごと、壁の方に飛んで行き、その一部に嵌め込まれてし

まった。

 すると、家全体が、ブルブルと振動を始めた。

 一体、どういうことなんだ、と僕は思った。

 石の壁のお蔭で、外のことは、一切見えないし、聞こえない。

 壁の発光を見ているうちに、壁の一部に、輪の跡のようなものが現れた。

 色の判らないほどキラキラ光る輪の跡を見ているうちに、僕は、無意識に、薬指から輪

を抜き取って、その跡に嵌め込んでみた。

 また、地震なのか、周囲が揺れ始めた。

 その揺れは、しばらく続き、完全におさまった。

 すると、入口が自然に開き、僕は、家の外に出た。


 外には、丘もなければ、アズもラッドもギフもいなかった。

 そこは、今までに一度も来たことのない場所、見たことも聞いたこともない場所だった。 奇妙な光が、四方八方から差し込んでいる。

 そして、その光の中心に、あの女の人がいた。

 名前は忘れていたが、すぐに思い出した。

 ラーヤだ。

 自分が、ラーヤと同じ色の服を着ているのにも、気がついた。

 一体、何が起こっているのか、自分にはわかっていない。

 気がつくと、刀は、僕の右手にあり、輪は、僕の左手の薬指に戻っていた。

 どこかで、こんなことは、もう沢山だと思っていた。

「また、会いましたね」とラーヤが言った。

「無垢なる一族のウインの息子」

 僕の記憶が、激しく振動している。

 それと連動するように、地面が、この部屋が揺れ始めた。

「ウインの息子」

「やめろ」と僕が叫ぶと、部屋の振動は、ピタリとおさまった。

「ウインは、その刀を、息子に託した。私は、その指輪を、ウインの息子に託した。賢い

ウインは、刀と指輪で移動する乗り物を作った」

 また、自分の記憶や心が揺れそうになったので、僕は叫んだ。

「お前は、一体、誰だ。一体、何才になるんだ!」

「私は、ラーヤ。正確には、百と十四才になります」

 僕は、ガーンと衝撃を受けた。

 フェオ様より十四才上、ギフよりも、四才は上……

 しかし、ラーヤは、僕よりも二才か三才上にしか見えない。

 だって、顔に皺がない。身体に余分な肉がない。雰囲気にも表情にも、年が感じられな

い。

「あなたにとって、私は、一体、何才に見えるのでしょう。目の見えない私は、自分の老

いていく姿を永遠に見ることはないのです。私は、自分の本当の姿を知りません。人に写

る自分の姿も、自分で知ることはないのです。人が私について語ってくれることも、私に

は、本当かどうか、判断する術はありません。私が愛した人ですら、私の何を愛してくれ

たものか、全然わからないのです。人は、私を美しいと言いますが、それさえも、醜い私

を、何とか慰めようとする、優しい心から出たことばなのだと思えるのです。あなたにと

って、私は、どう見えるのですか? やはり、百と十四才の老婆でしょうね。そこで、優

しい言葉は無用です。本当は、よくわかっているのです。自分が、もう随分の昔から、醜

い老婆であることは。誰も言ってはくれませんが。自分では、確かめる術がないのです」

 僕の心は、ラーヤに対する愛と憐憫の情に満たされ、僕の口は、ラーヤに対して、百万

語の慰めのことばを吐こうとしていた。

 しかし、僕の頭のどこかで、ギフの言ったことばが、反響した。

『私達は、あの女に騙されたのだ。あの目の見えぬ哀れな様子に騙された。あの優しげで、優雅な仕種に騙された』

『男達は全員、あの女の魔法にかかってしまった』

 僕も、ラーヤの魔法にかかろうとしているのだろうか。

 男達は、全員?

 では……?

 その時になって初めて、ラーヤの言った『ウインの息子』ということばが、自分の腹と

頭に届いてきた。

 ウイン?

 そうだ。丘に埋まっていた家に彫られていた印が、『ウイン・喜び』だった。

「お前は、父と交わったのか。ウインと」

 母という大事な結婚相手のあった父と、結婚の約束もなく交わった淫乱な女か。

「いいえ」とラーヤは言った。

「ウインは、大切な人、決して、妻を裏切るような人ではありませんでした」

 僕は、内心、ホッとしながらも、自分と父を重ね合わせて、複雑な気分を味わった。

 僕は、父とは違って、下手をすれば、アズを裏切るかもしれない……

「ウインは、私に約束をくれました」

「どんな?」

「妻との間の最初の子供を、私に贈るという」

 その瞬間に、全ての謎が解けた気がした。

 父は、確かに、妻との間の契約を守った。

 結婚している間は、他の女と交わらないという。

 しかし、愛する女であるラーヤに、妻との間の愛の結晶を、つまり、僕を贈る約束をし

たのだ。自分の身代わりに。僕は、親父の身代わりとして、生まれたわけだ。

 そんなことは、自分の命が尽きるまで知りたくなかった。

「つまり、僕は、あんたへの贈り物だったというわけか」と僕は言った。それは、まあい

い。

 しかし、深い憤りが生まれた。

「何で、その大事な贈り物を、僕が生まれた時に受け取らなかった。僕が、何も知らない

間に受け取らなかった。僕が飢えに苦しむ前に受け取らなかった」

 ラーヤは、見えない目を天に向けた。

「私は、あなたに出会うまで、騙され続けていたのです」

「一体、誰に!」

「何もかもに」

 僕は、ラーヤの言うことに、深く心を動かされ始めていた。

 けれど、そうだ。多分、ラーヤは魔女なのだ。ギフよりも年上なんだから、ギフ以上の

魔法使いだ。

「誰も僕には何も教えてくれなかった。僕の母の死と、父の失踪について、教えてもらえ

るかな、ラーヤ。僕は、君以上に、何も見えなかったし、何も知らなかった」

「あなたの声は、ウインにそっくりですね、ケン。顔も似ているかどうか、触ってみても

かまいませんか?」

 ラーヤは、ゆっくりと僕に近づいてきた。まるで、目が見えているかのように、その動

きは正確だった。しかし、その目は、僕を見てはいなかった。

 せっかく見られても恥ずかしくない恰好をしているのに。ラーヤと同じ色の服を着てい

るのに。左手には光る輪をはめ、右手には父の刀を持っているのに。

「背が高いのですね、ケン」とラーヤは、僕の腕をとらえ、肩から頭に向かって、白い手

が延びていた。

「何で、僕の名前を知っている」

「ウインが、生まれる子供の名前を話してくれました」

 ラーヤの両手が、僕の背中に回り、僕は抱き締められている恰好になった。

 ラーヤの髪は、僕の鼻の下にあり、微かな香料の匂いがした。フッと意識が遠くなりそ

うだ。

「顔を触ってもかまいませんか?」

 すっかりラーヤのペースだった。僕に、いやだと言えるわけがない。

 ラーヤの白い手は、背中から胸に回り、僕の喉元から頬を伝って、額に達し、そこから

唇、鼻、頬……最後に目に触れた。

「似ているのか、親父に」

 目に触れているラーヤの片手を掴むと、僕はラーヤを引き寄せて、その唇に自分の唇を

重ねた。

 本当に、親父は、ウインは、妻を裏切らなかったのか。

『アズは、まだ、本当の妻ではない』ということばが、頭の中で渦巻いていた。

 しかし、僕とアズは、結婚を祝福された、正式の夫婦だった。

 僕は、ラーヤから、身を離した。

「あなたは、私から指輪を受け取り、それを心臓に近い指にはめています。それは、私の

心を受け入れたという証です」とラーヤは言い、自分の左手を僕の目の前に掲げた。

 その薬指には、僕がはめているのと同じ輪が、光っていた。

「あなたは、何も言わずに、輪を地面に落としただけだ。僕は、偶然に見つけて、売りに

行こうと考えていた」

「どちらにしても同じことです。あなたが売りに行けば、私のところに連れて来られるこ

とになっていた。あなたが売りに行かなくても、私のところに来ることになっていた。現

に、あなたは、私の前に現れた」

 ああ言えば、こう言う女だな、と僕は、思った。さすが、長い間生きているだけのこと

はある。

「とにかく、僕は帰らなければならない。『妻』と友人達が待っているから。これは、あ

なたの落としたものだから、返すことにする」

 そう言って、僕は、指から輪を抜こうとしたが、それは、貼りついているみたいに指か

ら離れようとしなかった。

「運命から逃れることは、できません」とラーヤが、なぜか、悲しそうに言った。

「あなたに会わせたい人がいます」

 ラーヤが、反対の方角を向くと、しばらくして、男が一人、部屋の中に入って来た。

 僕よりも背が高く、男のくせに、ラーヤと同じような服を着ていた。

「ケン、ウインを紹介します。ここでは、光の神官と呼ばれています」

「やっと会えたな。ラーヤに聞くまでは、死んだと思っていた」とウインと呼ばれた男は

言った。

 これが、父なのか。でも、まさか。

 母が死んで、生まれた自分を置き去りにした男は、女の元に走っていた……

 その女に、我が子を贈る約束までして……今まで知らぬ顔をして、女の元に……

 無意識のうちに刀を抜いて、僕は、その男に切りつけていた。

 刀の使い方をラッドにでも教えてもらえばよかった。しかし、切る。切ってやる。

 男は、逃げるでもなく、抵抗するでもなく、僕が切りつける刀を、身体をほんの少し動

かすだけで、見切っていた。

 徐々に、頭に昇っていた血が下りてきて、僕は刀で切りつけながら、冷静に相手の動き

を追っていた。

 どこかで、絶対に切れるという確信があった。

 わざと息をきらせて、足下をふらつかせ、刀の重さに振り回されているフリをした。

 この三日間、今までにないほどの食べ物を食べたのだ。頭にも、身体にも、エネルギー

は満ちている。

 僕が、男に切りつけて、刀が男によけられて、僕がガックリと肩を落とした瞬間、男の

顔に、これまでだな、という表情が出た。

 今までよけるだけだった男が、刀の方に手を伸ばした。僕は、これを待っていた。

 僕は、男めがけて、斜め上に、下から思い切り刀を振った。

 手応えは……しかし、無かった。

 男は、一瞬の間に、後方に下がっていた。

 男は、肩で荒い息をして、着ている服が斜めに切れていた。そして、手応えは無かった

のに、腕と額から、一筋の血が流れていた。

 しかし、これまでだ。手の内は、全部見られてしまった。

「やるな。風で切られた」と男が言った。

「誰に習った」

 誰かの名前を言おうと思ったが、何も出て来なかった。どれを言っても嘘になるからだ。「誰にも。刀を抜いたのも、初めてだ」

「ラーヤ、大変な男を選んだものだ」と言って、男は、風のような声で笑った。

 その時になって初めて、男が、ラーヤと同じ髪の色をし、同じ目の色をしていることに

気がついた。額から流れる一筋の血が、その肌の白さを際立たせていた。

「お前達の力が必要だったのだ」と男が言った。

「ここ数百年の間に、私達の力は、どんどん衰えていった。その理由は、同族婚だ。私達

は、神から選ばれし民であるから、混血は許されなかった。濁った血を一族に混ぜるわけ

にはいかない。しかし、そんなことを言っておられなくなった。新しく生まれた子が、育

たなくなったのだ。そのうち、子供達は、生まれる前に死んでしまうようになった。そし

て、とうとう、子供ができなくなった」

「私達は、様々な能力を持ち、非常に長寿ですが、肉体的には、虚弱です。私は、生まれ

つき、目が見えません。ウインは、まれな例外で、肉体的に強健に生まれつきました。私

も、目の見えない以外は、肉体的には強健です。私とウインは、種族のために、私達の子

孫を残す使命を授かったのです」

 僕は、まだ、片手に刀を握り締めながら、二人の御託を聞いていた。

 ラーヤを美しい人だと思った自分が、愚かに思えた。

 ということは、この二人は、自分達の子孫を残すためだけに、僕の母親を誘惑し、僕を

作ったということだ。そして、また、僕を子孫を残すためだけの、ただの道具だと考えて

いる。

 今度、すきがあれば、二人共、叩き切ってやろうと思った。

 母の無念と悲しみは、どれほどのものだったろうか。

 そして、僕の……父も母もいなかった悲しみや苦しみは。

「どうやって、僕達の一族を、不毛の地に追いやった」と僕は、ギフが言ったことを、思

い出しながら、尋ねた。

「愚かな邪宗の一族を、その間違った神のようなものから救ってやっただけのこと。神は、唯一絶対のもの。私達の神だけが、本当の神だ。もしも、その間違った神のようなものが、万に一つ本当の神なら、どのような苦境からも救い出してくれるはずではないか。どうだ。お前達は、苦境にいる間に、そんな神の存在なんか、すっかり忘れてしまったではないか。それに、お前達の一族は、非常に強健でもあった。神は言われた。その神をいただかぬ『無垢なる一族』を鍛えあげよ、と。さらに強健に鍛えよ。さらなる逆境を与えよ。心身共に飢え疲れさせて、精神も肉体も鍛えよ、と」

 僕の心の中の怒りが頂点に達すると、僕の心は、奇妙に穏やかになった。

「僕は、神なんてものは、全然知らないけれど、話を聞いていたら、あんた達の神は、あ

んた達の子孫がいなくなった方がいいと考えてるみたいだね。そうでなければ、選ばれた

民である、あんた達の子孫は、もっと富み栄えているはずだ。僕達は、あんた達の神に見

放され、自分達の神もいなくなった一族らしいけど、どんな逆境や苦難の中でも、何とか

生きてきた。飢えても疲れても、僕達は、生き延びてきたんだ」

「その生命力の強さには、我が神も驚嘆なされ、お前達の生き延びる道を、特別に、お与

えになったのだ」

 聞いていると、吐き気がして、反吐が出そうになった。

「そんなものが、神とかいうものなら、僕は、そんなものを知らずに生きてきて、幸いだ

った。

 僕は、食べたかった。腹いっぱい。もし、神というものがいるなら、僕の腹を満たして

くれたものが、神だ。すべての食べ物が神だ。

 僕を生かしてくれた、生き延びさせてくれたものが神だ。

 朝、僕を元気づけてくれる、昇った瞬間の太陽が神だ。

 僕を生かしてくれている、呼吸が神だ。

 木の実を産む、樹木が神だ。

 そして、僕を産んでくれた、母が神だ。

 父は? そう、認めたくはないけれど、母と共に、父も神だ。」

「ああ、何という邪宗……何という異端」とラーヤが言った。

「異端は認めることはできないが、その異端なるが故の、生命力は認めよう」とウインが

言った。

 その時、僕に、奇妙な感覚が襲ってきた。

「お前達は、間違ったことをしている」と僕は言ったが、それは、僕を通して、誰かが言

っているようだった。

「お前達の種族は、滅びの運命にある、この大地と共に」

 なぜか、ラーヤの顔に、恍惚とした表情が浮かんだ。

「お前達は、己の欲望のままに生きた。永遠の生命を手にしながら。お前達は、かつて、

選ばれた民であった。己の求めるものは、全て手中にした。なぜ、それを、分け与えなか

った。なぜ、分かち会わなかった。ありとあらゆる良いものを手にしながら、全ての望み

を叶えながら、なぜ、満ち足りなかったのか。なぜ、もっと多くを望み、己以外のものを

足下にしたのか」

 足下の大地が、揺れ始めていた。

「僕は、元いた場所に戻る」と僕は言った。

 指輪は、何かにはじかれたように、僕の指から抜けた。手に持っていた刀も僕の手を離

れて、どこかに飛んで行った。

 僕は、誰かに殴られたみたいに、頭が痛くなり、そのまま、意識が無くなった。


「ケン、ケン」と誰かが呼んでいた。

 目を開けると、必死の形相で、僕を揺り動かしているアズが見えた。

「良かった、死んでしまったのかと思った」と言って、アズは泣いた。

 僕は、左手の薬指に光る輪をはめ、右手に刀を持って、食料の入っていた、石の家の中

にいるようだった。

 では、今までの全ては、僕の見た夢だったのか。

 石の家を出て、丘に這い登ると、ギフとラッドが、難しい顔をして、僕を見ていた。

「どう話せばいいものか」とギフは言った。

「お前だけが、異端であったから」

 また、異端か、と僕は、さきほど見た夢を思い出しながら思った。

「お前が、どちらに属すのかは、お前が決めることだが……」とギフは、珍しく言い淀んだ。

「フェオとソーンと私には、まだ、古の力が、微かに残っている。ま、このバカラッドに

もな」

「ま、ほんの微かだが、黒い鳥が来るぐらいの力は残っていた、ということだ」とラッド

が言った。

「どう言えば、いいのか……」とギフは、ことばを探しているようだった。

「生き残ったのは、ただの五人だ……」

 アズが、下を向くのがわかった。

「地震や津波では、何の被害も受けなかったが、その前に、村にいた全員が死んだ」

 アズは、何も言わずに、ポタポタと涙を流していた。僕の知らない間に、ギフとラッド

から、話を聞いたのだろう。

「ギフには、そうなることがわかっていたから、できるだけ早く、ケンを相手に渡す決心

をした。オレは、反対だったけどね」とラッドが言った。

「けど、どっちみち、同じことだった。あいつらは、あんただけが必要だったんだ」

「村に異変が起こったら、黒い鳥が、外にいる者に異変を知らせる。太古の昔からの言い

伝えだ。でも、まさか本当に、黒い鳥が来るとは……」とラッドが言った。

「フェオとソーンが、最後の力で飛ばしたのだろう」とギフが言った。

「どうやって、村の全員が死んだの? 宮殿の兵隊が襲ったのか?」と僕は尋ねた。

「その辺りは、よくわからない。とにかく、大地と結びついていた命が切り離されたのだ」 僕は、さきほど、石の家の中で見た夢の話をした。

「フーム」とギフとラッドは考えこんでいた。

「夢ではないかもしれない」とギフが言った。

「ハガルが言っていたことがあった。『石の家の中で、幸せな夢を見る』と」

「ハガルというのは、君のお母さんだ」とラッドが説明した。

「村一番の美人で働き者だった。それなのに、村の男の誰とも二人きりにはならなかった。十二の時から結婚の約束をしている、と言っていた。ハガルは、気がふれたのだと言う者もいた」

「ハガルに子供ができたとわかった時は、村中が大騒ぎになった。大勢の女が夫を疑って、多くの結婚が解消された。この百年間、争いの無かった村に、疑いの種がまかれた。ハガルは、それだけ綺麗な女だった。姿だけでなく、心も美しかった。ラッドのバカもハガルに心を奪われていたから、私達も一緒に暮らしていけなくなった。フェオとソーンも、一時険悪だった」

 そう言って、ギフは、涙の出るまで笑った。

「私は、フェオとソーンに頼まれて、ハガルの身を守るためと、相手の男を突き止めるた

めに、村はずれの私の家にかくまうことにした。ハガルの両親は、娘を恥じて、病気で死

んだことにしようとしていたし、夫のいる女達は、ハガルを憎んだ。ハッハッハ、あの時

ほど、村で密かに、惚れ薬と眠る薬が売れたことはなかった。


『ウル様、この世のものではない美しい方に、妻になれと言われたのです』とハガルは、

打ち明けた。

『どこの誰か』と尋ねても、『わからないのです』と答える。

『でも、名前は、ウイン、こう書きます』とハガルは、指で、印を書いた。

『石の家に入ると、奇妙な夢を見るのです。最初は、十二の時でした。その時に、私が十

四になれば、結婚することに決まってることを教えられました。そして、二つの年を経て、私達は結婚したのです』

『何をバカなことを。村の皆に祝福もされず、両親の祝福も受けられない。それでは、生

まれてくる子供が哀れではないか。なぜ、そのウインという男は、皆に祝福される、きち

んとした結婚をしようとしない』

『それは、夢の世界の方だからなのです。住んでいる世界が違うので、この村に来ていた

だくことができません。生まれてくる子供のことは、心配いらないのです。その子供は、

その方が、夢の世界で、大切に育ててくださいます。そこは、本当に夢の世界で、柔らか

な寝床や、おいしい食事が、用意されているのです』

『どうやって、その夢の世界に、子供を連れて行くつもりなのだ』

『子供が生まれたら、私が一緒に、石の家に連れて行きます。そして、夢の世界で、親子

三人で幸せに暮らすことになっているのです』

 私も、ハガルは、頭が変になったのではないか、と思った。

 妻のある男の子供を身籠もってしまい、それを恥じる余り、夢の世界を作り上げたので

はないか、と。

 しかし、フェオとソーンと私が、ありとあらゆる方法で相手を突き止めようとしても、

村の中には、そういう人間はいなかった。

 では、村の外の人間か。

『で、その石の家は、一体、どこにあるのか教えてくれないか』と言っても、ハガルは、

『それは、言ってはいけない約束になっています』と言うばかりだった。

 そして、出産の日が来たが、思った以上の難産になった。

 この時ばかりは、村中の女は、それまでのことを全部棚上げして、ハガルの出産のため

に働いてくれた。祈祷のできる者は祈祷をし、踊りを踊る者は踊り、水の用意をしたり、

赤ん坊のための布を織ったりしてくれた。

『ハガル、しっかりするんだ。夫に赤ん坊を見せに行くのだろう。しっかりせい』

 ハガルは、最後の力でお前を産むと、そのまま力が尽きてしまった」


 僕の心の中に、母の存在が、初めて刻まれた。

 自分の命と引き換えに、僕を、この世に産み出してくれた母。

 あの父は、この無垢な母の心を知っていたのか。

「ケン、生まれてきたお前を見て、私も村の女達も、ことばを失ったものだよ」とギフが

言った。

「今でこそ、村の男と変わりなく見えるが、生まれた時は、白い肌に黄色い髪をしていた

ものだ。目だけが、ハガルと同じ黒だった。誰も、お前を育てようと申し出る者はいなか

った。あの村にしては、珍しい話だが、仕方がないね」

「ある時、オレの店に、牛に乗った男がやってきて、頼まれものだと言って、刀と箱にい

っぱいの干した食べ物を置いていった。『村で生まれた赤ん坊に』ということだった。オ

レは、別の赤ん坊と勘違いして、『その子なら、死んで生まれたから、これは必要ないね』と言ったが、相手は、頼まれただけだから、と言って、そのまま置いていった」とラッドが言った。

「内心、刀と箱いっぱいの食べ物が手に入った、と喜んだが、村に帰ってみたら、ウルが

髪の黄色い赤ん坊を抱えて、困り果てていた。あれは、見物だった」

「バカ言うんじゃないよ。本当に、仕事も何もできなくなって、困り果てていたのさ。け

ど、ラッドの刀の話を聞いて、ウインという男が確かにいることだけはわかった。そこで、フェオとソーンに相談して、ハガルの夫は、ハガルと正式に結婚するために、村を訪れたが、ハガルの死を知り、嘆き悲しんで、刀と箱にいっぱいの干した食べ物を、子供のために託して、放浪の旅に出た、ということにした。ハガルの結婚は、フェオとソーンからの祝福を受けて、正式なものとなり、箱いっぱいの食べ物のお蔭もあって養い親も見つかり、何とかケンは、今日まで生きてこられたというわけさ。お前は、いつも仲間外れにされている、と感じてきただろうが、そういう経緯なんだから、仕方のない話なんだ。それに、お前には、私達全員が感じる一体感が、いくつになってもわからなかった。それは、教えられるものではなくて、感じられるものだから、どうしようもなかったよ。ソーンが保管していたが、村に刀があるというのも、皆の心に漠然とした不安を呼び起こしていた。刀は、外の人間のもので、ラッドみたいに、それを仕事にしている人間もいるが、村で刀を必要とすることは、まったく無かった。いやはや、たとえ、夢の中だとしても、実の親を刀で切ろうとするとは……いやはや」

「父親の血が流れていると言いたいんだな」と僕は言った。

「母の悲しい話を聞けば聞くほど、アイツを切る力が無かったことが悔しい」

「許してやるんだ、ハガルが愛した男で、お前の実の父親なんだから」とギフは言った。

「そうだ」とラッドまでが言った。

「ハガルの心を思うんだ。最後まで、ウインを信じて愛し続けた。それを、嘘にしちゃ、

ハガルが可哀相だ。許してやれ。ハガルが、あそこまで愛していたんだ。ウインも、ハガ

ルを愛していたに違いない。住む世界が違うんで、一緒にはなれなかっただけなんだ」

「へえ」と僕は言った。

「じゃあ、ラーヤのことも許せるの? みんなを、不毛の地に追いやった」

「過ぎたことだ」とギフが言った。

「みかけはどうあれ、私より年寄りの婆さんだと思えば、哀れなものだ。しかし、その年

で、まだ子供を作ろうと思うとは。ラッド、私達も見習おうか」

「バ、バカを言え。顔から火が吹き出るわ。しかし、痩せた土地に住むせいか、我等の子

供も数が減っている」

「ソーンの子がいる」とギフは、ククッと笑った。

「あの爺さんが、ソワソワして、女を狂わせる薬を欲しがった時、ピーンときたもんだ。

フェオから相談されるまでもなかった。フェオと私は、いく晩も話し合った。私とラッド

にも子供ができなかったけれど、フェオとソーンも子宝には恵まれなかった。この年は、

春が夏になり、夏に雪が降るという占いが出ていた。大地が揺れ、火の山が怒る。そうい

う時には、何が起きても仕方がないものだ。アズに子供ができ、家族全員が、お前に目を

つけたんだよ、ケン。お前は、父と母に似たのであろう。美しい若者に成長した。若い娘

は、皆、お前の姿に心ときめかせたが、それだけだった。お前は、皆と違う。それに、娘

の親達は、お前が生まれた時のことを、よく覚えていた。アズは、お前に近づき、うまく

お前と結婚したのだ。私が、話したことを責めるんじゃないよ、アズ」

 僕は、頭の中が空白になった。

 どこかがおかしい気は、常にしていたが、まさか……アズが……

「ケン、許して。私は、もうどうしようもなく、追い詰められていて、それに、あなたの

ことは、前から気にはなっていたので、家族の企みに乗りました。私と私の子供を哀れに

思ってください。ソーン様も家族も亡くなってしまった今、私が頼るのは、あなたしかい

ないのですから」

「何も言うな」と僕は言った。

 何が、『無垢なる一族』だ。

 結局のところ、最低のヤツラじゃないか。

 父親も最低なら、母親の属していた社会も最悪だ。

 村の長で、正式な結婚をしていながら、村の乙女に子供を生ませるソーン。

 僕の淋しさにつけこんで、ソーンの子のできた娘と結婚させる家族。

 自分の心が弱く腐っていた理由がわかった気がした。

 自分だけが皆と違うと思ってきたが、そして、それは、全部、自分が悪いせいだと思っ

てきたが、違う!

 自分が、皆と違っていたのは、悪いことじゃなかった。

 皆の上に立つ村の長のしたことに比べて、一体、僕が何をしたと言うんだ。

 アズの陥るだろう苦難を思い、アズを大事に思って、村のしきたり通りに結婚し、ラー

ヤの誘惑に乗りかけた自分を、恥ずかしく思い、責めすらした。

 僕は、アズを……少しは裏切ったが……結局は、裏切らなかった。

「一人で、村に帰る」と僕は言った。

「アズには、ギフとラッドがいる。ここなら、安全だろう。もし、何か必要なものがあれ

ば、持ってきてやろう。もし、来れたらの話だが」

「ケン、何で村に……もう、誰もいないのに……」とアズが、僕の服を引っ張っている。目からは、涙が流れている。

「私を置いていかないで。私のそばにいて。私には、夫であるあなたしかいないのに」

「それは、もうできない。僕達の結婚は、最初から間違ったものだった。この結婚は、解

消される。最初から、本当の結婚ではなかったからだ。僕は、村に戻って一人になりたい」「やはり、父の元に行くのか。それなら、止めはすまい」とギフが言った。

「勝手に決めるな!」と僕は、生まれて初めて怒鳴った。

「今は、一人になりたいだけだ」

 僕の右手には、ずっと刀が握られていた。左手の薬指には、光る輪が。

 父の元に行きたいのなら、石の家で戻るだろうが。バカめ。

 もう、誰も、止める者はいなかった。

 もう少しで海に飛び込んでしまう道に来た時、あのまま滑って飛び込んでしまっていれ

ば、今のこの気持ちは無かったのだ、と思った。

 牛と馬をつないでいた場所まで戻った時、ラッドの馬を借りようと思った。町まで戻り、そこから村に帰るのだから、馬がなければ無理だろう。

 ギフ達は、どうするのだろうか、と思った。この場所も、そう安全とは言えないかもし

れない。ここから逃げる時、牛一頭で大丈夫だろうか。

 できたら、返しに来ようと僕は思った。やはり、彼らのことは心配だ。

 今は、顔も見たくないが、いずれ、懐かしくなるかもしれない。いずれ。

 僕は、馬用に水を持って行こうと思ったが、入れるものが無かった。仕方無く、馬が食

べていた辺りの草を刀で切って束ね、馬の背に乗せた。

 僕は、馬に乗って、ゆっくりと町まで戻って、辺りの風景を見て驚いた。

 大勢の人達が、移動を始めていた。牛の車に積めるだけ積んだ長い行列が続いていた。

 石の家は、崩れてはいなかったが、ひびが入り、傾き、もう一度大きな地震が来たら、

崩れてしまいそうだ。

 皆、どこを目指しているのだろう。

「どこに向かっているんですか?」と尋ねてみた。

「わからないよ。とにかく、もうここには住めない。宮殿や神殿は、地震が来ても、揺れ

もしないらしい。そこまで行ったら、何とかなるだろう」という心もとない返事だった。

 僕は、人々の向かう方向とは反対の方角に行くことになる。

「神官様、これを」と誰かが、刀をつる腰紐をくれた。これは、ありがたかった。

「どちらに向かわれるのですか?」

「全滅した村があるという。そこに向かう」

「全滅……恐ろしいことだ。どうか、とむらってあげてください」

「そうしよう」

「これをお供えに」と干した果物を差し出された。

 周りで話を聞いていた人達も、「これを」「お供えに」と穀類や干物を差し出した。

「あなた達に、神の祝福があるように」

「ありがたいことです」

「神官様に、こんなところで会えるなんて」

「この子にも祝福を」

 祝福の仕方など知らなかったが、手を当てて、しばらく瞑黙すると、皆の気が晴れるよ

うだった。

 時間を取られてしまったが、お蔭で、食べ物が手に入った。

 自分が神官と間違えられるなんて。僕が『アイツラ』の一人で、全滅したのが、その村

なら、誰もお供えなどしようとせず、地上からアイツラが消えて、スッキリしたと思った

だろう。


ギフが、ボロを着て、下を向いて歩いた辺りに来たが、馬から下りることはしなかった。

 衣装のお蔭で、神官にまで見えるのだから、馬に乗っていても、咎める人間はいないだ

ろう。

 また、村が全滅したのなら、ボロ着を着ていなくても、何の気兼ねもない。

 村外れのギフ、いや、ここでは、ウルだ。ウルの家に行くまでの畑の野菜は、育ち過ぎ

た上、炎天下に放置されて、ほとんど枯れかけていた。

 目が自然に、まだ食べられそうな野菜を物色していたが、今は、村に行くことの方が大

事だ。

 村の入口近くで、異様な気配を感じた。

 馬の方が敏感で、一歩も前に進もうとしなくなった。

 臭い? いや、臭いではない。空気が変だ。

 仕方無く、馬を村の入口近くの木に繋いで、降りて歩くことにした。

 村の中は、何の変化も無いように見える。

 入ってすぐの林の中にウルの小屋がある。藁の下を探ると、干し柿がいくつも出てきた。僕は、それを食べながら、色々な小瓶の入ったウルの皮袋を首に下げた。

 林を抜けると、村の広場に出る。

 広場のそばに、ソーンとフェオの家がある。この家の藁の下からも、干した柿を見つけ

た。ウルにもらった物だろう。

 僕は、村が全滅したと聞いていたから、家は焼け落ちているか、倒されていて、あちこ

ちに死体が転がっているような場面を思い描いていた。

 村だけは、そのままで、誰も人がいない。

 この異様な気配は、誰一人として人がいないせいなのか。

 生活の匂いのないせいか。

 どうやって全滅したのだろう。

 アズの家にも寄ってみたが、同じように誰もいなかった。

「おーい、誰かいないかー。みんな、どこに行ったー?」

 無駄だとは思いながら、大声で呼んでみた。

 ぼんやりと、広場の真ん中に座って、ジリジリと太陽に焼かれていると、一瞬、陰がで

き、バタバタという翼の音がした。

 黒い鳥が、僕の目の前の地面に降り立った。

「村が全滅したことを知らせに行って、戻ってきたのか」と僕は、鳥に尋ねた。

 鳥と目が会った。そんなことは、生まれてから初めての経験だ。

『私は、ソーンだ』という声が、頭の中に流れてきた。

『アズのことで、お前に、一言謝りたかった。許してくれ。こんなに早く、終わりが訪れ

るとは、思っていなかった。これは、お前の母ハガルから預かっていた鳥だ。私には、何

も教えなかったが、お前になら、ハガルの遺言を教えるだろう』

 僕は、ジッと鳥を見つめていた。その目は、どこか別の世界に繋がっているように、空

虚で謎めいていた。

 多分、僕は、ソーンの声と同じように、母の声が聞こえるものだと思い込んでいたもの

らしい。

 鳥は何も言わずに、翼を広げて、飛び立った。

「あ、待て」と言ったが、鳥は飛んで行ってしまった。

 鳥の飛び立った方向を見ていると、遠くの木の枝に止まっている。ジッと僕を見ている

ような気がした。

 誰もいないこの村にいても仕方がないし、僕には、差し当たってすることもない。

 鳥の止まっている木の方角は、太陽の沈む方角だ。

 僕は、村で一番大きなフェオとソーンの家で、水を入れる皮袋に水をたっぷり入れ、別

の皮袋には、目に入る限りの食べ物を入れた。ウルの家にも寄って、隠してあった食べ物

を詰めた。乾いたパンや干した果物が、あちこちに隠してあった。

 馬の所まで戻ると、まだ、黒い鳥は、同じところに止まっている。

 馬の背に荷物をくくりつけ、僕は馬に乗って、太陽の沈む方向に進んで行った。

 木は、見たところ、かなり近くに思えたが、馬で辿り着いた時には、もう鳥の姿は無く、辺りは暗くなっていた。

 僕は、馬をその木に繋いで、寝る場所を探した。

 大きな赤い月が登ってくるところだった。

 月の光で、左手の指輪が、白く光っていた。

 腰に下げている刀が、鞘の中で、キーンという音を立てている。

 僕の頭の中で、ウルまたは、ギフの言った、母のことばが蘇っていた。

『子供が生まれたら、私が一緒に、石の家に連れて行きます。そして、夢の世界で、親子

三人、幸せに暮らすことになっているのです』

 母は、その石の家のある場所だけは、決して誰にも言うことはなかった。

 寝る場所をではなく、自分がいつの間にか、石の家を探していることに気がついた。

 刀が、また、キーンという音を立てた。

 果たして、石の家は、丘の上にあった家と同じように、木の陰になっている地面に上部

だけを出して、他の石と変わらない姿をしていた。

 表面に生えている苔や土を除くと、あの丘にあった家と同様に、ウインの印が刻みこま

れていた。

『母は、これで、ウインに会いに行っていたのか』

 そう思うと、腹の底の方が、奇妙に震えた。

 怒りのようだが、怒りとは違っている。

 懐かしい気分もあるが、優しい気持ちではない。

 僕にとっては、母も父も見知らぬ人間だ。

 話に聞いて、人としての同情は覚えるが、それは、母に対する愛情でもなく、愛着でも

ない。男に玩ばれた哀れな女に対する憐憫の情だ。

 ウインに対しても、父として見ることはない。

 ただ、絶対に叩き切ってやる、と思うのは、そういう頭で考えた理屈を超えて、はらわ

たが煮える気がするからだ。

 石の家に入れば、また、アイツに会うことになるのだろうか。

 僕は、刀を鞘から抜くと、あの場面を再現してみた。

 惜しいところだった。

 もう少しで、あの男は、身体の上下が、斜めに別れてしまっただろうに。

 あの同じ手は、二度とは使えない。

 どこに誤算があったかと言うと、相手の動きの方が、素早かったところだ。

 僕は、同じ場面を何度も何度も再現した。

 そして、下から切りつける時に、もう一歩アイツの方に踏み込んでいたら、確実に、胴

体を真っ二つにできていたことが、わかった。

 しかし、もう二度と同じ手は使えない。

 今度は、出会った瞬間に切りつけることだ。

 相手が、ア、と思ったその瞬間だ。

 僕は、何の敵意も感情も無く、自然に相手に近づいていく。

 要は、己を滅することだ。

 己を滅し、自然に近づいても怪しまれるかもしれない。

 それなら、出会ったその瞬間しかない。

 ジャンプして、着地前に切りつける。

 それが無理なら、その時は、何もしないことだ。そして、機会を伺う。

 僕は、出会ったその瞬間を思い描き、ジャンプして切りつける練習をかなりした。

 しかし、無理だ。相手の動きが、今はわかる。ジャンプした瞬間に、相手のペースにな

るだろう。その瞬間に、こちらの動きを読まれるだろう。

 何度も虚しく空を切って着地した後、僕は、また、以前の再現場面を繰り返した。

 そうだ。あの時が今なら、確実に切れる。

 同じ時が、また巡るまで、待つしかないのかもしれない。

 石の家に入る前に、僕は、あらゆる場面を想定して、刀を振った。

 フッと僕は笑った。

『実の親を殺そうとするなんて』異端だとギフに言われたことを思い出したからだ。

 どうせ、どちらの世界でも異端の僕だ。

 もう、自分だけが悪いんだと思う世界は沢山だ。

 僕の育った村は全滅し、大地は怒り、ずっとおとなしかった火の山は噴火し、世界の終

わりが近づいているらしい。

 春が夏になり、夏に雪が降るというこの年、僕は、生まれて初めて、自分の思うように

生きて、思うように死のうと思った。

 僕は、しばらく、石の家の前に座って、心を落ち着けていた。

 首から下げていた袋や、食べ物や飲み物の入った袋を、地面に置いて、よし、と思った

とたんに、僕は、丘の上にあった石の家と同じように、家の周囲の泥や土を掘り始めてい

た。

 案外に時間がかかり、ようやく石の家の入口が見つかった時には、太陽が昇り始めてい

た。

 今までに見たことのないような奇妙な太陽だった。

 いつもより、大きな太陽に見えた。そして、太陽の尾が長くたなびいている。

 僕は、昇ってしばらくして、太陽がいつものように安定するまで、ジッと待っていた。

 ブルッと全身が身震いした。

 それと感応するかのように、周りの地面が細かく揺れ始めていた。また、地震だ。

 僕は、意を決して、石の家の中に入った。

 丘の上の家と違って、食べ物も布も何も入っていなかった。

 しまった、何か食べておけばよかった、水や飲み物を持ってくればよかった、と思った

時には、既に遅く、石の家は、辺りの地面同様に、細かく振動し始めていた。この家には、刀も指輪もいらないようだった。

 その代わりに、僕の意志の力が必要らしい。

 そんなもの、どうすればいいんだ、と思いながら、僕の中から、新たな意志力が芽生え、『母が行った夢の国まで』と思い定めていた。


 狭くて真っ暗な石の家の中で座っていると、急に、疲労感が襲ってきた。この家は、丘

の家よりも小さいようだ。空気が重く、頭と胸が圧迫される気がした。

 ドンと石の扉が開き、僕は外に押し出された。

 もう朝だというのに、辺りは真っ暗だ。

 暗闇の中で、僕は、刀がきちんと腰に紐で繋がっているかを確かめた。左手の薬指の輪

は、暗闇でも微光を発している。輪の周りだけが、微かに明るかった。

 一体、ここがどこなのか見当もつかない。

 母も、このような暗闇の中を進んで行ったのだろうか。

 ずっと壁が続いている。ここが家だとすると、かなり大きな家だ。そして、どこからか

寒い風が吹いてくる。冬のような風だ。

「明かりをつけましょうか?」という声が聞こえた。この声は、ラーヤだ。

 ボウッとした小さな太陽が昇り、暗闇の中に、ラーヤの姿が浮かび上がった。

 辺りが暗いせいか、白い衣服を着たラーヤは、僕が結婚したアズより幼く見えた。

 この前会った時よりも若返っているように見える。

「あなたを待っていました」

 胸がギュッと締めつけられるのを感じた。おなかの中に熱い塊ができたみたいだ。

「おなかがすいてはいませんか? 一緒に食事をしましょう」

 ラーヤは、小さな太陽と共に動いていた。

「こちらへ」

 ずっと食べてはいないけれど、空腹はもう感じていない。

 僕は、フラフラッとラーヤの後について、別の部屋に入って行った。

『男を狂わせる草の汁を塗っているんだ』と頭の中で力無く考えている。

『この女は、百才を過ぎて、ウルよりも年上なんだぞ』

 僕とラーヤは、ウルの小屋ほどもある大きな木の板の前に向かい合って座った。

 板の上には、ラーヤの持っていた小さな太陽以外、何も無かった。

 どこからか、微かな音が聞こえてきた。楽器の音だ。川が流れていくように、音が流れ

ていく。

 女の人が入って来て、板の上に花を置いた。次々と女の人が入って来ては、板の上に色

とりどりの花を置いていく。女の人達は、なぜか全員目を閉じていた。

『ラーヤ達は、花を食べるのだろうか』と僕は考えている。

 花が終わると、今度は、色々な色のついた液体が運ばれてきた。

『薬なのか、毒なのか』

 液体が終わると、湯気の立ったパンが! 

 ラーヤが何か合図をすると、女の一人が、僕の前に透明な入れ物を置いて、その中に液

体を注いだ。ラーヤにも、同じ液体を注いでいる。

 ラーヤが、僕の方を向いて、入れ物を持って、高く掲げた。

 飲めということのようだ。

 平気な顔をして、一口飲むと、思わずむせた。口の中がカッと熱くなる。それと同時に、果物の味が口中に広がった。

 この飲み物のせいか、今まで感じていなかった空腹感が襲う。

 それを待っていたかのように、僕の前に、次々と、湯気の立った食べ物が運ばれてくる。おなかはすいているが、手で食べると火傷をしそうだ。

 小型の刀と小型の手のようなものがあったので、それで切ったり刺したりして、夢中で

食べた。

 ギフの家でも、今まで食べたことのない物を腹いっぱいに食べた。

 でも、食べ物の量といい、数といい、ラーヤの家の方が豪華だ。

 飲み物にしても、目の前に並べられるままに、ごくごく飲んだ。

 かなり満腹になった頃に、大きな皿に盛った果物が出てきた。

 果物に手を伸ばそうとして、自分の手の調子がおかしいことに気がついた。

 手だけでなく、身体全体の調子が変で、頭がもうろうとしている。

 ラーヤが何人にも見える。目もおかしい。

『やはり、毒だったか』と思った時は、既に遅かった。

『でもいい。腹いっぱい食べた後で死ぬなら、それでいい』

 自分が横に倒れていくのがわかった。


 気がつくと、頭がガンガンしていた。胃もムカムカしている。

『死ななかったが、まだ身体に毒が残っているらしい』と僕は思った。

 寝床の横に、小さな太陽が置いてある。

 ギフの家の寝床の何倍も広い。思わず顔をこすりつけたくなるほど、気持ちのいい布の

上に寝ていたようだ。僕の上にも、綺麗な色の布がかけてあった。その布を取ったとたん、「目が覚めましたか」という声が聞こえて、僕はギョッとした。

 僕は、慌てて、また、布を自分の上にかけた。

 その瞬間には、ラーヤには見えないということも思い出さなかった。

 僕は、どういうわけか、何も身につけずに寝ていたのだ。

「お風呂の用意ができています」とラーヤが言った。

「一緒に入りましょう」

 僕は、驚いて、寝床の上で飛び上がり、ますます頭がガンガンしてきた。

「明かりが必要なら持ってきてください」

 僕は、しばらく、どうしていいのかわからずにいた。

 そうか。風呂場も暗闇なのか。

 結局、僕は、明かりがないと何も見えないので、明かりを手にして、身体の上にあった

布を引きずって、ラーヤの後について行った。

 明かりを上に掲げて、部屋中を見回したが、どこにも、僕の服や刀は無かった。

 ラーヤの後について行った僕は、息を飲んだ。

 白い湯気が上がっていて、明かりがあっても、ほとんど見えない。

 ただ、手前に見えている場違いな岩から、ここが自然の風呂だということはわかった。

 岩の平らなところを探して、僕は、明かりを置いた。

 ラーヤが、服をスルリと脱いだ。

 僕も、つられて、今まで引きずってきた布を下に落とした。

 ラーヤが、慣れた様子で、岩の間から、湯の中に入っていく。

 僕も同じように、中に入った。

「この間の噴火で、湯の温度が上がっています」とラーヤが言った。

「あまり長くはいられません」

 ラーヤが、僕の方に近づいてきたので、僕の心臓は胸を破って飛び出しそうだった。

 服から見えていたところより、もっと白い身体が見え隠れしている。

 ラーヤが、僕の左の手をとって、自分の方に引き寄せ、手の甲に唇をつけた。

『これは、僕の村の結婚の誓いじゃないか』

 僕も、ラーヤの手の甲に、唇をつけた。

『誓ってしまった!』

 ラーヤは、そのまま、僕と手を結んだまま、風呂から上がった。

 自然の風呂の横の部屋には、小さな池ほどもある風呂があった。

 誰かが明かりを持ってきたのか、部屋はほのかに明るかった。

 そこには、何も身につけていない目を閉じた女の人達がいて、僕とラーヤに、木や果物

の香りのする液体を振りかけて、身体中に塗りつけた。

 それから風呂の中で、身体中をこすられた。

 ラーヤの目が見えなくて良かった。

 ラーヤの周りの湯には何の変化もないのに、僕の周りの湯は、どんどん黒くなっていく。最後に、上から水の出る場所で、もう一度身体中をこすられた。

 そこを出ると、柔らかな布で、身体が乾燥するまで、何度も拭かれた。

「こちらへ」とラーヤがまた先に立って、歩いていった。

 ところどころに明かりが置いてあり、湯気の中では見えなかったラーヤの身体が、ハッ

キリ見える。

 次の部屋には、枕元に明かりのある、大きな寝床があり、僕は、頭に血が昇り、呼吸が

苦しくなって、あえいだ。

『初めての夜か……』

 アズとは、とうとう何もなく終わった初めての夜。

 ラーヤとは、まだ結婚の儀式もしていないというのに、どうしたらいいんだろう……

と思っていると、次々と目を閉じた女の人達が部屋の中に入って来た。何も身につけては

いない。

「気にいった女を選びなさい」とラーヤが言った。

 自分がひどく間抜けに思えた。

「知りたいことを全部教えてもらいなさい」

 ラーヤは、そのまま部屋から去って行った。

 目を閉じた女の人達は、黙って立ったままでいた。

「僕の服と刀を持ってきて欲しい」と僕は言った。

 女の人達は、動揺しているようだった。

 結婚の約束もしていない女の人と一緒に寝床に入るわけにはいかない。

 ラーヤに、侮辱された気がした。

「僕の服と刀を持ってきてくれないか」と僕は重ねて言った。

「そこで待っていても、他の用は何もない」

 女の人達は、静かに部屋から出て行った。

 そのうちの一人が、僕の服を持って帰ってきた。

 綺麗に洗って乾かしてある。僕は、手早く服を着た。

「刀は?」

 何も答えずに、服を持ってきた女の人は、そのまま去って行った。

「食事にしましょう」と言って、服を着たラーヤが現れた。

「おなかがすいたでしょう」

 僕は、何も答えなかった。

 ラーヤが、どういうつもりで、結婚の誓いをしたのかがわからなかった。

 自分が結婚の誓いをしておきながら、その僕に、その誓いを破れ、と言っているのと同

じだ。

 最初の結婚の誓いと結婚の儀式は、アズの不貞で反故になった。

 こんなに短い期間で、二度目の結婚の誓いだ。相手は、僕よりも年下に見えはするけれ

ど、百も年の離れたラーヤだ。

 僕は、女運が悪いのかもしれない。

 前日と同じ板の上に、同じように、花や液体や食べ物が並んだ。

 ラーヤは、また、液体の入った透明の入れ物を高く掲げたが、僕は、その手には乗らな

かった。毒は、もうたくさんだ。

 ギフことウルと同じように、ラーヤも長い年月をかけて、毒に身体を慣らしたのだろう。

 僕は、慎重に匂いをかいで、ただの水を選び出した。

 水を一口飲むと、ギュッと胃が動いた。おなかがすいているのがわかった。

 今回は、よく味わって食べることにした。これまで、腹いっぱい食べる日を夢見て生き

てきたのだ。これで、世界が終わっても、満足して死ねるように、味わって食べよう。

 死んだ後、僕は、村の人達と同じ世界に行く。そこで、僕が生きている間に、どんなも

のを食べたのかを、詳しく話して、皆に同じ気分を味わってもらう。

 死んだ後の世界では、色々な思い出を皆で一緒に味わうことができると、フェオ様から

聞いたことがある。その時は、そんな馬鹿な話はない、死んだ後には何もない、と思って

いた。死が、今ほど身近ではなかったからだろう。

「食事の後、見せたいものがあります」とラーヤが言った。

 僕の物思いは破られた。

 僕は、この後すぐに死んでも心残りが無いように、黙々と食べ、今回は果物にも手を伸

ばし、その匂いと味を堪能した。

 僕が満腹になるのを待っていたかのように、ラーヤは席を立った。

 ラーヤには、明かりがいらないようだったが、僕のためにか、あちこちに明かりが置い

てあった。

 ラーヤが黙って歩いていくので、僕も黙って、後に続いた。

 扉を開けて入ったとたん、薄暗い場所に慣れていた目が眩むような、明るい場所に出た。

 その部屋の上からは、本物の太陽の光が、差し込んできていた。

 僕は、反射的に、腰の刀を抜こうとしたが、そこに刀は無かった。

 僕の母の夫と言われているウインが、その部屋の中にいた。

「気が進まないが、ラーヤの頼みだ」とウインが言った。

「今、この大陸は、沈もうとしている」とウインは、平静な声で言った。

「元々、この大陸が浮かんでいるのには、無理があった」

 そう言うと、僕にはわからない図を見せて、説明を始めた。

「百年以上前から、今日のことは予見されていた。お前達の暦では、2千年も前から、予

言されていた。驚くな。これは、決まっていたことなのだ。我々の仲間は、この百年の間

に、多く、他の場所に安住の地を見つけた。我々は、最後の生き残りなのだ。お前も含め

てな。お前には、気の重い話だろうが」

 今、この時に刀があれば、と僕は思い、正にそのために僕の刀が行方不明になったこと

も、同時に理解できた。

 その後、大陸の下部にあるガス室の話とか、僕には理解できない話が続いたが、おぼろ

げに分かった範囲で言えば、僕が今いる陸地は、正に沈もうとしているところであり、火

山の噴火や、頻発する地震は、そのための前ぶれに過ぎないということだ。

「それは、いつ?」と僕は尋ねた。

 ハッハッハ、とウインは笑った。

「それが、わかれば、苦労は無い。しかし、そう遠い未来の話ではない。今、この瞬間に、その時が来ても、何の不思議も無い」

 そのことばに呼応するかのように、カタカタと周囲が揺れ始めた。

 その揺れは、ドンドン激しくなっていった。

「いや、まだだ」とウインは言った。

「まだ、早い速度で、別の世界に飛んでいける機械が完成していない。本来なら、もっと

早く出来る予定だったのだが。我々、私とラーヤも、これほど長く、この地に留まるつも

りはなかった。もっと以前に、安全に脱出する予定だったんだが……」

 僕には、訳がわからなかった。

 急に、まだ丘の上にいる、アズ、ウルとラッドのことが心配になった。

「それは、僕がここに来た、石の家みたいなもの?」

「いや。あんなものでは、遠い旅はできない。お前に言ってもわからないだろうが、もっ

と遠くにまで行ける機械を作っているところなのだ。」

「ケン、全ては、あなたのためだったのです」とラーヤが言った。

「私達の希望の星。その星を失った時、私達の命運も尽きました。なのに、再び、あなた

に出会うとは。それがなければ、ウインと私は、ずっと遠くの場所に移動できたのです。

とっくの昔に死んだはずのあなたに出会った時、私とウインの運命も定まりました。誰よ

りも、私とウインは、あなたの存在に執着していましたから」

 そんなことを言われても、全然嬉しくなかった。

 無理だとは、知りながら、あなたが好き、あなたが大事と、ラーヤから言って欲しかっ

た。もしかすると、ウインからも。父からも?

 自分のいた世界で無理だったことが、別の世界で叶うはずもなかったが。

「僕と結婚したいのなら、きちんと皆に祝福される式をあげないといけない」と僕は言っ

た。

「結婚ですって?」とラーヤは驚いたみたいだった。

 ラーヤに驚かれて、僕の方がもっと驚いた。

 ウインは笑っていた。

「ラーヤと結婚か。驚いた息子だな」

「私は、ウインの母にあたります」とラーヤが言った。

 もう、何を聞いても、これ以上に驚くことは何もないと思っていたが、ラーヤのことば

に、僕は、頭の上に重い板が落ちてきたような衝撃を受けた。

 スッカリ混乱して、自分が何を思えばいいのかわからなかった。

「お祖母さん? 僕の?」

「その言い方は、気にいりませんが、ことばにしてしまったら、そういうことになります

か」

 僕は、身体中の力が抜けてしまった。

 もう、何もかもが、どうでもいい気がした。

「結婚はできませんけど、交わることはできます。あなたの思っている意味とは違うかも

しれませんが」

「どういう意味にしても、自分の実のお祖母さんと結婚はできないし、結婚できない相手

と交わるなんてことは、僕にはできない。それは、してはいけないことだし、間違ったこ

とだ」

 ウインが、また笑い出し、その笑い声は、僕の神経をズタズタにした。

「お前の母親を説得するのには、本当に、時間がかかった」とウインが言った。

「どれだけ言っても、今のお前と同じように、『皆の祝福を受けない結婚はできない』と

言い張る。頭の固い原始民族だ。で、仕方がなく、ここは、夢の世界であると言ったら、

実に簡単に納得した。『夢の世界なら、仕方がありません』だとよ」

「その話は聞きたくありません」とラーヤが言った。

「ウインこそ、原始的な人間です。こんな人間が息子だなんて、悲しいことです」

「ラーヤは、原始人のように、女と交わったことが不満なんだ」とウインが言った。

「そんなことは、歴史書に書かれているだけで、たくさんです」とラーヤ。

「歴史書に書かれていることが本当かどうか、試してみただけさ。しかし、案外、そうい

った方法が、確実に子孫を残す方法かもしれない。現に、私達の前に、ケンという証明が

ある」

「なるほど」と言って、ラーヤは、僕の方を見た。

「悪くはないかもしれないけれど、どうしても、というほどではないわね」

「ま、培養すればすむだけの話だからね」

 僕は、バカのように、ぼんやりと立ったまま、二人のやりとりを聞いていた。

 僕の生まれ育った世界では、同じ寝床に入って交わるということは、とても大切な行為

だとされていた。

 その行為によって、運が良ければ、自分達二人の子供を天から授かることになるのだ。

 それは、本当に、奇跡や魔法と言ってもいいことだ。

 だから、交わる前には、皆に祝福される結婚という儀式が必要であり、お互いに、心と

身体を一つにする日を、自分達で祝福する必要があった。

 それが、僕達が大切に思ってきたこと全てが、どうでもいいことのように話されている

ことだけはわかった。

 どこか、一刻も早く、ここではない世界に行きたいと思った。

 刀があれば、今この瞬間に、二人を切っていただろう。

 アズより年が下だった母をだました、ということを、僕は問題にしているのか。

 いや、そうではない。それもあるけれど、それだけではない。

 何かが、間違っているのだ。

 僕は、異端かもしれない。この世界でも、僕の元いた世界でも。

 でも、どちらの世界の考え方や生き方にも、一応の敬意は払うつもりでいる。

 僕の元いた世界では、ラーヤやウインの世界に充分以上の敬意を払ってきた。

 僕の母ハガルなどは、その最たるものだろう。

 自分の世界を捨てて、夫であるウインの言うままに、夢の世界に生きたのだ。

 しかし、その反対はない。

 ラーヤやウインは、僕達の世界など、無きに等しいものと考えている。

 自分達の都合で、どうにでもなるものと。

 そういう考え方が、多分、僕には許せないのだ。

「村の人達に何をした」と僕は言った。

「何で、村は全滅した。何で、誰もいないんだ。皆、どこに行った?」

 ラーヤとウインは、顔を見合わせた。

 そして、何のことを言っているんだろう、という表情をした。

「ついて来なさい」とラーヤが言った。

「『無垢なる一族』の血というのは、無知でどうしようもありません」

「どこへ?」

「ついてくればわかる」とウインも言った。

「今では、残骸しか残っていないがな。お前が、生まれてすぐに、私の元に来ていれば、

こんな無駄なことはせずにすんだのだ。何という時間の無駄だ。過去100年、いや、2

000年と同じほどの変化が起こる時だったのに。その年月は、無駄に過ぎ去ってしまっ

た」

 僕は、二人について、その部屋の一角まで行った。

 僕がここに来たよりも大きな石の家があった。

 石の家というのは、形が似ているから言っただけで、本当は、ピカピカと光る家だった。ウインが、僕が指にはめている輪のように光っている円形のボタンを押すと、光る家の

玄関が開いた。

「中に入って」とウインが言った。

 ラーヤとウインと僕。

 三人が中に入ると、また、ウインは、家の中の光っている円形のボタンを押した。

 すると、玄関が音も立てずに閉まった。

 ウインがもう一度、円形のボタンを押すと、家全体が、ブルブルと震え始めた。

「これを使って、オレ達以外の仲間は、他の世界に飛び立ったのだ」とウインが言った。

 そして、フッと笑った。

「お前さえ、現れなければ、オレとラーヤも飛び立っていた」

 お前らなんか、さっさとどこかに行ってしまえば良かったんだ、と僕は思った。

「着いたぞ」とウインが言った。

 円形のボタンを押すと、また玄関が開いた。

 そして、僕達の目の前に、大勢の人達が、平伏しているのが見えた。

「ラーヤ様」

「ウイン様」

 平伏している人達が顔を上げて、喜びの声を上げた。

「もう、二度と戻られないと思い、嘆き悲しんでおりました」とソーン様のように、長い

顎髭を生やしている老人が言った。

「お前達のことを、見捨てるわけがないであろう」とラーヤが言った。

「この世界が終わろうとする時、お前達を新たな地平に連れて行かずに、私とウインが、

どこかに行ってしまうとでも思ったのか」

 皆の顔が、パアッと明かりが灯ったかのように輝いた。その目からは、歓喜の涙が流れ

ている。

 この場所も、先程の場所と同じように、天井から太陽の光が差し込んでいる。

「では、祈りの部屋に」とラーヤが言った。

 ラーヤが先頭に立ち、ウインと僕が後に続いた。その後から、この場所にいた人達全員

が、ゆっくりと続いてきた。

 目の前に、大きな石の部屋が現れた。

 ウインが、扉に手を置くと、扉は、ゆっくりと奥に向かって開いた。

「今までの人達同様、あなた達も、新たな地平に旅立つのです。そこで、私達の教えたこ

とを広め、自分達の子孫を増やすのです。あなた達の前途に祝福を与えます。平和と幸と

繁栄が、あなた達の未来にもたらされますように。さあ、行くのです。私達は、まだ、同

じような人々を、新たな地平の送る仕事があります」

「ありがとうございます、ラーヤ様、ウイン様」

 そう言って、髭の長い老人は、僕の方を見た。

「ケン様、ご無事でおられましたか。ウイン様に、よく似ておられる」

 老人は、僕の手を握り、前から僕を知っていたような目で、名残を惜しんだ。

「さ、早く、時間がありません」とラーヤが言った。

 最後の一人が石の箱に入ってしまうと、ウインが扉を閉めた。

 その瞬間、ウインの片頬が笑ったように見えた。

「足りますか?」とラーヤが尋ねた。

「まだまだだろうな」とウインが言い、扉についているボタンのようなものを押した。

 ボタンの上に目盛りのようなものがついていて、それが少しずつ右に回って行き、地面

と平行な位置まで来ると止まった。

 再び扉を開けた時には、中には、誰もいなかった。

「あの人達は、どこに行ったの?」

「遠い、幸せな国さ。あんたの村の人間が行った同じところだよ」

 では、僕の住んでいた村の人達も、どこか違う世界に旅立ったのか。

 しかし、違う。ソーンの送った黒い鳥は、『終わりの時が来た』と言っていた。

「殺したのか」と僕は、僕の手を握った老人の目を思い出しながら、言った。

「いや、彼らは、別のエネルギー体に変化しただけだ。我等の動力源にね」

「ケン、あなたの分のエネルギーが足りなかったのです」

 僕は、怒りにかられて、油断している二人を箱の中に押し込むと、扉に手を当てた。

 しかし、扉は閉まらなかった。

「この扉は、私の手にしか感応しない。そういう風に作ったのだ」とウインが言った。

「そんな詰まらない感情は、どこかに棚上げにしておけ。時間がないんだから。それに、

考えてみろ。この地にいれば、いずれ、大地は裂け、熱いマグマが襲う。誰も経験したこ

とのない地獄を味わうことになる。平和な幸せの国に行くというのは、嘘ではない。一瞬

にして、痛みも苦しみもなく、何が起こったのかも知らずに、旅立てるのだ。その方が、

遙かに幸せではないか」

 悔しいけれど、僕には反論できなかった。

 どこかで、そうかもしれないと思ってしまう。

 しかし、そういう理屈とか理解を超えたところで、それはいけない、許されないことだ

と感じているだけだ。

 僕達は、また、光る家で、元いた太陽の差し込む場所に戻った。

 ふと暗い方角を見ると、ギフがいた。チラと目が会うと、ギフは姿を消した。

 バカな、どうやって、ここまで来たんだ。あの石の家を使ったのか。

 ギフがいるということは、ラッドや身重のラズもいるかもしれない。

 隠れていろよ、と思い、僕は、さり気なく、何事も無かったかのように、視線を戻した。「神殿の者と、城のものを呼びましょう」とラーヤが言った。

「残して行っても、気の毒なだけ。身の周りの世話をする者と、護衛の兵をいくらか残せ

ばいいでしょう」

 ラーヤが、壁の穴に向かって話すと、それが、部屋中に、大きく反響して聞こえた。

「いよいよ、あなた達の番が来ました。最後まで、私達に従ってくれて、感謝しています。すぐに旅立ちます。用意をして、祭壇の前に集まるように」

 ラーヤとウインが、祭壇の前で何か話している間に、僕は、ウロウロと部屋を珍しそう

に見回っているフリをして、ギフの姿が見えた辺りに差し掛かった。

 しかし、ギフの姿も、ラッドやアズの姿も無かった。

 一体、どこに行ったのだろう。または、僕が見たのは、幻だったのだろうか。

 そうこうしている間に、次々と人が集まってきていた。

 あの目を閉じていた女の人達もいる。誰が誰かは知らないけれど。

 最初にラーヤを見た時にいた、婆さんと黒い服の男もいた。

 この太陽が当たる部屋は、とてつもなく大きな部屋だったが、その部屋が全部埋まって

しまうほどの人が集まってきていた。

「これで、全てですか?」とラーヤが言った。

「これで、全てでございます」と最初に見た婆さんが、跪いて答えていた。

「ケン、こちらへ」とラーヤが、僕は呼んだ。

 僕は、どさくさに紛れて、もしいるのなら、ギフ達を探しに行こうとしていたのだ。

『いい勘してるよ』と僕は思い、しぶしぶと、ラーヤのそばに行った。

 ゴゴゴゴという地面の鳴る音が、遠くで聞こえていた。

 空気は、人が大勢集まったせいか、生温かく、しかも、ドンドンと暑くなっていた。

 その時、頬に、冷たいものが触れた。

 空を見上げると、真上の太陽が目に眩しかったが、それにも関わらず、小さな雪が、降

ってきていた。

 僕が、ラーヤとウインの横に並んだ瞬間、ズーン、と下から突き上げるような揺れが来

た。

 続いて、ズガーン! と地面に叩きつけられるような揺れが。

「キャア!」

「ワア!」

 部屋の中は、悲鳴で満ちた。

 僕は、変に落ち着いていた。なぜだか、自分でもわからない。

 叫び声を上げて、抱き合う人達を、冷静な目で見ていた。

「落ち着きなさい」とラーヤが言った。

「もう、時間がありません。今から、あなた達を、遠くの安全な場所に送ります」

 ラーヤの声は、確信に満ちていて、叫んでいる人の耳にも届いたようだった。

 その時、僕は、目の前に、ギフがいるのを見て、ギョッとした。

 いつの間にか、そばにいる老婆達と同じ服を着ている。

 ギフの目配せで、召使と同じ恰好をしているアズと、顔を黒く塗って、他の男達と同じ

恰好をしているラッドがわかった。

「私とウインとケンには、まだしなければならないことがあります。危険を承知で残って

くれる者はいますか?」

 僕は、ギフに目配せをした。

 ギフとアズとラッドが前に出ようとするより早く、ほぼ全員が一歩前に踏み出していた。

「私に残らせてください」

「私に」

 と皆が口々に叫んだ。

「気持ちは嬉しいのですが、そんなに大勢の人を危険にさらすわけにはいきません」

 何と驚いたことに、ラーヤがウインの方を向くと、ウインは、皆の中から、まずアズを、ついで、ギフを、最後に、ラッドを選んだ。それから、5人の若い女達を選んだ。

 また、ズーンという縦揺れと、それに続いて、顎がガクガクするような横揺れが来て、

全員、地面にしゃがみこんだ。

「では、元気で」

 そういうと、ラーヤとウインは、僕達を、この部屋の外に出した。

「ラーヤ様!」

「ウイン様!」

「お元気で」

 部屋の外に出ると、ウインは、扉を閉め、前と同じように、ボタンを押した。

 ボタンの下の目盛りが、また、ゆっくりと右に回って、地面と水平になった。

 今回は、再び扉を開けることはなかった。

「私達も、これで、安心して、遠くにまで飛び立つことができます」

 僕達は、光る家の中に入った。

「これで、動力源はOKだ。仲間達のいる遠くの陸地まで行けるだろう」

 数えてみると、全部で11人いた。

「かなりの揺れがある」とウインが言って、壁の一部に手を触れると、床から椅子が出て

きた。

「座りましょう」とラーヤが言って、椅子の一つに腰を下ろした。

「かなり長い旅になる」とウインも椅子に座った。

 僕も、椅子に座り、ギフ、アズ、ラッド、女達も椅子に座った。

 その瞬間、椅子から金属の輪のようなものが出てきて、両手、両足、首が、椅子に固定

されてしまった。

 しまった、と僕は思った。

 なぜなら、ラーヤとウインだけは、椅子に固定されずに、立ち上がって、笑みを浮かべ

ていたからだ。

「久し振りですね、ウル」とラーヤが言った。

「自分達で考えたと思っているようですが、移動装置は、あなた達が、ここに来るように

セットされていたんです」

「相変わらず、悪賢い女だよ」とウルが言った。

「あなた達には、動力源になってもらうだけだけど、この子には、用があるんですよ。こ

の子というのは、おなかの中の子供だけど。純粋な無垢なる一族の最後の一人」

 アズが、震えているのがわかった。

「可愛い顔をしている」とウインが、アズの顔を触った。

「命を助けてやろうか?」

「は、はい。お助けください。何でもします」

「また、悪いクセを」とラーヤが言った。

 ラッドは、なぜか、椅子に座ったとたんに、眠ってしまったようだった。

 僕は、茫然として、座っているばかりだった。ラッドのように眠ってしまえれば楽だろ

うが、頭が冴えて、とても眠れそうにはなかった。

「動力を注入。揺れるぞ」と椅子に座ったウインが言った。

 その時、またも、ドーンと下から突き上げるような揺れが来たが、それが地震によるも

のか、移動装置と呼ばれる家が動いているのか、ハッキリとはわからなかった。

「周囲を見せてやろうか」とウインが言って、手元のボタンを押した。

 周囲の壁が、一瞬にして透明になり、周りの建物が崩れているのが見えた。

 遠くの火山が噴火している。

 平坦な畑の一部が突然、山のように盛り上がって、赤い溶岩を吹き出している。

「おかしいな、作動しない」とウインが言った。

 また、ドーン、ドーン、と下から突き上げられた。

 固定されている喉と腕と足が痛かった。

「動力は、充分以上だ。荷物が重いのか」

 ウインが、別のボタンを押すと、女の一人の姿が消えた。

 その女の座っていた椅子は、床に下がって行った。

 ヒーという声が、アズの口から漏れた。

「黙れ」とウインが言うと、アズは、ラッドと同じように眠ってしまった。

 ウインは、次々とボタンを操作して、女の姿を全て消した。

「食料源にと思って選んだんだが、当分は、エネルギー補給で我慢しよう」

 部屋の中には、椅子が六客しか残っていなかった。

「よし」とウインが言うと、部屋全体がブルブルと震え始めた。

 ブルブル震えたまま、周りの景色が下に下がって行く。

「まだ、ルートが解明されていないので、手動でいくしかない」

「とんだバチ当たり共め」とウルの声がした。

「今日のことは、お前らの非道が招いたのだ。ありとあらゆる所から、エネルギー源だの

動力源だのと言って、根こそぎ、大地の恵みを奪い続けた。自分の種族以外は、人とは思

わず、命とも思わず、殺戮し、破壊した。己のしたことが、見よ、全ての罪のない人達の

上に襲いかかる」

 透明な壁から見ていると、はるか下の方で、陸地が徐々に、海に飲み込まれていくのが

見えた。

 僕の身体が小刻みに震えていた。

 何ということだ。

 これでは、火山の噴火や地震で生き延びた人達も、誰一人として助からない。

 首の後ろにチクッとした痛みを感じた。

 僕は、そのまま眠ってしまったようだった。


 夢の中の僕は、まだ地上にいて、崩れていく柱の間を逃げ惑っていた。

「アズ、こっちだ」

 僕は、アズの手を引いていた。

 アズは、胸に赤ん坊を抱えている。

 一体、いつ子供が生まれたんだろう、と思いながら、僕は走っている。

 どこに逃げても無駄だということはわかっていたけれど、ジッとして、恐怖に耐えてい

るのはイヤだった。

 そして、ふと、後ろを振り返ると、アズの姿は無く、僕は、ラーヤの手を引いていた。

 ラーヤの髪は、太陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。

「何て、美しいんだろう」と僕は思った。

「ケン、もう走れないわ」とラーヤが言った。

 僕とラーヤは、立ち止まって、お互いの顔を見た。

 まるで、ラーヤの目は、本当に僕を見ているようだ。

「ケン、もうお別れね」とラーヤが言った。

 辺りが急に暗くなった。

 フとラーヤの背後を見ると、遠くから、高い塀が近づいて来ているように見えた。

 今までに見たこともないような塀だ。

 この塀のお蔭で、光が遮られているのだった。

「あれは、何だろう」と僕は呟いた。

「あれ? あれは、津波というのよ」とラーヤは、なぜか笑いながら言った。

「もうじき、この大陸全体が、海の底に沈むのよ」

 その瞬間、僕とラーヤの上に、塀が崩れ落ちてきて、立っていた建物もろとも、暗い海

に引きずられて行った。


「ウイン、あなたには、感謝するわ」とラーヤの声がした。

「ラーヤのためなら」

「ギリギリで間に合ったというわけね」

 身体中が激しく痛んでいる。

 特に、目が痛い。

 ウインが、手に血まみれの塊を持っている。

「アズ!」と僕は叫んだ。

 身体から血を流したアズが、裸で台の上に横たわっている。生きているのか、死んでい

るのか、わからない。

「育つ時期ね」とラーヤが言った。

「女の子とは、嬉しいね」とウインが笑っていた。

 ウインは、無造作に、手にした塊を水の入った容器に入れた。

 僕の目からは、水滴がしたたり落ちている。

 泣いているのだろうか。

「これは、後で食べるとしよう。アイツらの女は、うまいから」

「そういう下品な言い方はやめなさい」

「アズ、アズをどうするつもりだ」と僕は叫んだが、何かが変だった。

 洞窟のようになった目の穴から、血を流して叫んでいる僕が見えた。

 僕は、叫ぶのをやめた。

「何をした」と静かに尋ねた。

「やはり、直系の孫とは、相性がいいようね」とラーヤの声がした。

「細胞が生きたまま、移植したから、まだ、神経は繋がったままみたいね」

「生殖器官を切り取ったら、コイツもエネルギーに変えるか」とウインが言った。

「それより、食べましょうよ。とっても、おいしそうだわ」

「ウルとラッドは、どうした」と僕は言った。

 まず、ウルが見えた。口から血を流して、僕を(僕の目を)にらんでいる。

「この婆さんには、最後まで見ていてもらおうと思ってね。麻酔なしで、女の腹を切り裂

いて、赤ん坊を取り出すところとか、自分の男がのたうちまわって死んでいくところとか、可愛がっていた少年の目をくりぬくところとか、一切がっさいをね。お前に麻酔をかけたのは、目の保護のためで、お前のためじゃない、断っておくが」とウインの声がした。

 ウルの足下には、黒く焦げたものが丸くなっていた。

 あれは、ラッドか……

「さて、最後の仕上げだ」

「目が見えるというのも、不便なものね」とラーヤが言った。

「でも、可愛いケンが、どういう顔をして、どういう声を上げるのかも、祖母としては、

見ておいてあげないとね」

 僕は、ボロのように見えていた。黒い穴から血を流しているボロきれだ。

 ウルの顔が見えた。

 ウルは、怒りに身体を震わせていた。

 唇が、開いたり、閉じたりしている。

 その唇を見ているうちに、不思議な気分になってきた。

 夢を見ているような気分だ。

 ウインが、小さな尖った刀を手に持っている。

 あれで、僕の生殖器を切り取るつもりのようだ。色々な角度から刀を眺めている。

 目の端に、見慣れた刀が見えた。

 僕の姿が見え、ウルの姿が見えた。

 刀が、キーンという音を立てている。

 ラーヤが、僕とウルを交互に見ているようだ。

「気をつけて、ウイン!」とラーヤが叫んだ。

 その瞬間、僕の頭の中に、以前の映像が蘇った。

 刀を掴む、そのまま、上に切り上げる。

 ギャア、という声が聞こえた。

 手に小さな刀を握ったまま、ウインの姿が、空中で止まっている。

 僕の刀が、ウインが僕に与えたという刀が、ウインの右の脇腹に食い込んでいる。

 そして、そのまま、刀は、ウインの肩まで動くと、二つに別れたウインと一緒に、床に

落ちて来た。

 ドサッ、ドサッという音と、刀が落ちるゴトンという音がした。

「ウイン……」というラーヤの声がして、ウインの二つになった身体が、上から見えた。「このバカ! この移動装置は、ウインにしか動かせないのに!」

 笑っているウルの顔が見えた。

 こういう時に笑うとは、ウルも異端だ。

 目が空洞の僕も、うっすらと笑みを浮かべていた。

 どうせ、殺されるのなら、どっちにしても、同じことだ。

「ラッドを生かしておいたら、何とかなったかもしれないのにね」とウルの代わりに、僕

が言っておいた。

 窓の外が見えた。

 ラーヤが、窓から外を見ているのだろう。

 下の方に、海が見えている。

 どこを見ても、海ばかりだ。

 時折、白い雲が流れて行く。

「ああ」とラーヤが言った。

「ケン、あなただけが頼りよ。私のために何とか、この移動装置を動かしてちょうだい。

ウインのいなくなった今、この装置を何とかできるのは、あなたしかいないわ」

 ラーヤが、僕のそばに来たのだろう。

 僕の空洞になったところが、ずっと見えていた。

「目の見えない僕に、何をどうしろって言うんだ」と僕は、冷やかに言った。

「私の知っていることは、全部教えるわ」

「じゃあ、その前に、僕とウルを自由にしろ」

 ウルが見え、僕が見えた。

「それは、ダメよ。自由にするのは、ケン、あなただけよ」

 身体が、突然、自由になった。

 僕は、ラーヤが押したボタンの位置を覚えた。

「お前は、目が見えるんだから、まず、ウインの右手を切り取れ」と僕は言った。

「そんなこと、できないわ」

「できないのなら、ウインの右半分を背負っていけ。機械は、全部、ウインの右手で作動

するんだろう?」

「それは、そうだけど。生きている間だけかもしれない」

 そう言いながら、ラーヤは、ウインの右手を近くにあった扉に押しつけた。

 扉が開いた。

 ラーヤは、僕の刀を手に持って、ウインの右手を見ていた。

 目をつむったのだろう。

 何も見えなくなり、ガスッという音がして、ウインの切り離された右手が見えた。

 部屋の奥に進むと、地図と機械類が見えた。

 僕は、動くのに、凄く不自由だった。

 見えているのが、ラーヤの目から見たものなので、どうしても勘が狂って、あちこちで

足を打ったり、つまずいたりした。

 最終的には、ラーヤの服につかまることにした。


「ウインは、どこに行くと言っていた」

 ラーヤの目が泳いでいるのがわかった。

「わからないわ。そんなことは、全部、ウインの仕事だったから」

「もっと、きちんと地図を見ろ。聞き覚えのある名前を探せ」

「ジェーとか、ニーとかいう音に覚えがあるわ」

 僕は、神経を集中して、地図を見たが、何が何なのか、全然わからなかった。

「やっぱりダメだ。ウルを自由にしろ」

「あいつは、私を殺すわ」

「殺さないかもしれない。どっちにしたって、このままでは、いずれ死ぬんだ。ウルを自

由にしろ」

 ラーヤは、後ろを向いた。

 居眠っているようなウルの姿が見えた。

 僕は、ラーヤを押しやるようにして、ウルの椅子まで行った。

「長いお付き合いのウル、私達は、運命共同体なのよ」とラーヤが、甘い声で言った。

「あなたのお力が、どうしても必要なの」

 ウルは、口から血をしたたらせながら、うなずいた。

 ラーヤが、まだためらっていたので、僕は、覚えていたボタンを押した。

 ウルの身体が自由になり、ウルが遠くに行ったので、ラーヤが後ずさったのがわかった。

 ウルは、自由になると、首の下に手を入れて、見慣れた皮袋を取り出した。

 その中から、小瓶を一つ選ぶと、口の中に振りかけた。

 そして、片手で舌を引っ張り出すと、舌に何十本もの針が刺さっているのが見えた。

 ウルは、それを、一本ずつ引き抜き始めた。

 全部抜き終わると、フーという大きな息を吐いた。

 何か言うかと思ったが、ウルは、何も言わずに、奥の地図と計器のある場所に向かった。

 ラーヤは、ウルには、近寄りたくないようだった。

 遠くから、ウルを見ている。

 ウルは、ジッと地図を睨んでいるようだった。

 遠くから睨み、近づいては、あちこちを長い時間かけて、睨んでいる。

 ウルが向こうを向いたまま、手招きしたので、僕は、動こうとしないラーヤを押して、

ウルの方に行った。

「これが、わしらの住んでいたところだ」とウルは、酔っぱらったような喋り方をした。

 それは、地図の真ん中にある大きな島だった。

「今は、もう無くなってしまったが」

 ウルは、その島の中央から引いてある線をなぞっていた。

 いくつもの赤や青や緑の線が、中央部分から四方八方に延びている。

「どこに行こうとしていたかはわからんが、ジェーとかニーというところなら、こことこ

こしかない。ニイドとジェラだ。ジェラの方が近く、ニイドは遠い」

「じゃあ、行けるのね」とラーヤが言った。声が、弾んでいる。

「いや。地図はわかったが、この家の動かし方はわからん。ラッドが生きていたら、何と

かなったかもしれんが」

 ウルは、アズの所に行き、血を綺麗に拭き取ると、丁寧に、綺麗な布でくるんだ。

「もしも、どこかに着いたら、花と一緒に埋めてやろう」

 ラッドにも、ウルは、同じことをした。今度は、無言だった。

 そして、ウインにも同じことをした。

「死んでしまったら、誰でも同じだ」

 ウルは、家の中をあちこち探して、食料貯蔵庫のようなところを空にすると、その中に、三人の遺体を横たえて蓋をした。

「せめて、食料かエネルギーにしたら、それだけ長く生きられるわ」とラーヤが言ったが、フンと鼻を鳴らして、相手にしなかった。

 ウルは、黙々と、アズの横たわっていた台の上を綺麗に洗い、はみ出した食料を切った

り焼いたりし始めた。

「とにかく、おなかがすいた。食事にしよう」

 それから、「ケン、刀はお前が持っておけ」と言った。

 僕は、以前のように、腰に刀をつるした。

 ウルは、後片づけをし、残った食料を他の貯蔵庫にしまった。

「私は、一休みすることにする。とにかく、クタクタだ」とウルが言った。

「お前が寝る時は、その女は椅子に縛りつけておくんだよ。忘れずにね」

 ウルは、布にくるまって、床に寝てしまった。

「私も寝ることにするわ」とラーヤが言った。

 僕も、横になりたかった。

「ラーヤは、椅子で寝てもらう」と僕は言った。

「ケン、何てことを言うの。私は、あなたの血の繋がった祖母なのよ」

 僕は、刀を見せて、ラーヤを椅子に座らせて、ボタンを押した。僕も、布を身体にまき

つけて、横になった。

 ラーヤは、じっと僕を見ているようだったが、残念ながら、僕にはラーヤの顔は見えず、自分が床に転がっているのが見えるだけだった。

 しばらくすると何も見えなくなったので、ラーヤが目を閉じたことがわかった。

 暗闇の中で、僕もしばらくすると眠ってしまった。


 何日も同じような日が続いた。

 食べて寝る。

 食料は、段々と乏しくなっていった。

「陸地が全然見えないわ」とラーヤが言った。

 移動装置の下には、いつ見ても、一面の海ばかりだった。

「世界中の全部が海の底に沈んでしまったのか、同じところをグルグル回っているかの、

どっちかだね」とウルが言った。

「何で、ウインを殺したのよ!」と時々ラーヤは、ヒステリーを起こした。

 僕もウルも何も言わなかった。

 何か言えば、ラーヤを殺してしまいそうだったからだろう。

「動力が無くなってきたわ」とある日、ラーヤが言った。

「充分以上にあったのに。まだ着かないなんて」

「誰も、動かし方がわからないんだから、仕方がないよ」とウルが言った。

 翌日には、ラーヤは、半狂乱になって、貯蔵庫からウインの右手を出してきて、あちこ

ちの機械を盲滅法に触り始めた。

 そこで、仕方無く、ラーヤを椅子に縛りつけないといけなくなった。

 僕にも外が見えるように、透明な壁に一番近い椅子にした。

 ラーヤが触ったせいかどうか、動く速度が速くなったような気がしたが、突然、ガクン

と空中で止まると、下に落ち始めたみたいだった。

「ケン、何かにつかまれ」とウルが言った。

「キャアア、助けて、助けて」とラーヤが叫んだ。

「陸が見える」とウルが言ったが、ラーヤが気を失ったのか、僕には何も見えなかった。

 ドーンという衝撃がして、移動装置は、上下に激しく揺れた。

 僕は、何かで背中をしこたま打った。

「イタタタ」というウルの声が聞こえた。

「海の上で、まだ良かった。ところで、この家は、浮いていられるのかね」

 しばらく、ジッと様子を見たが、それ以上沈んでいく気配はなかった。

「やれやれ」とウルが言った。

「食べるかい?」と僕の手に何かを握らせた。

 鼻に持っていくと、プーンと果物の匂いがした。

 ウルの小屋で初めて食べた、柿を干したものだ。

 真っ暗の中で、かじりながら、鼻の奥がツーンとして、今までのことが走馬燈のように

思い出されてきた。

 アズ、ラッド、フェオ様、ソーン様。

「おいしいです、ウル様」とアズは、凄く喜んでいた。

 アズ、束の間の僕の妻。こんなむごい目に会う運命なら、もっと優しくしてやればよか

った。

「ケン、いいものがあるよ」とウルが言った。

「きっと、これは、船というものだよ。こういう時のために積んでいたんだ」

 そう言われても、僕には何も見えなかった。

 暗闇の中で、パシパシという音がした。

「起きろ、このバカ女」

 どうやら、ウルがラーヤを叩いて起こしているらしい。

 うっすらと、辺りが明るくなり、透明な壁の外に、海が広がっているのが見えた。

「海の上だわ」と言って、また、暗くなったが、また、パシパシという音が聞こえて、海

が見えるようになった。

「海に落ちてしまったけど、その前に陸が見えたんだよ」とウルが言った。

「本当?」とラーヤの声が輝いた。

「ほら、ごらん? これは、海で使う船ってもんだろ?」

 お蔭で、僕にも、その船というものが見えたけれど、どう見ても、一人乗れば満員にな

るような、小さなものだった。

「さあ、乗ったことはあるけれど、見たことはないから。でも、それは、飾りだと思うわ。そんなに小さなものじゃなかったから」

「そうかい」とウルはガッカリしたみたいだった。

「この移動装置は、海の上でも動くけど、もう動力がないわ」とラーヤが言った。

「あの死体を動力に変えるか、私達の誰かが動力になれば、海の上でも動くと思うけど」

 ウルは、顔の前で手を横に振った。

「やめておくれよ。動かし方もわからないくせに。とにかく、もう飛んでいるわけじゃな

いから、外に出てみようじゃないか」

 ウルは、ガシッとウインの右手を持った。

 ラーヤのように、盲滅法触らずに、壁とか天井を触っているようだった。

 そのうち、天井の一部の他とは違う部分に触った時、ウイーンという音を立てて、天井

が開いた!

 開くと同時に、階段まで現れた。

 ウル、ラーヤ、そして、ラーヤの服をつかんだ僕が、階段を登って行った。

 辺りは、一面の海だった。

 しかし、ずっと遠くに、うっすらとした陸の影が見えている。

「陸は確かにあるけれど、どうやって、あそこまで行くかだね」とウルが言った。

「おや?」

 何かが遠くで動いていた。

 それが、少しずつ近づいてくる。

「船だよ!」とウルが叫んだ。

 何百、何十という船が見えた。

「速いねえ」とウルが言った。

 しかし、船の群れは、僕達と一定の距離を保って、周囲を取り巻いたまま、近づいて来

ようとはしなかった。

「オーイ!」と叫んで、僕達は、手を振り、布を振り、最後には、飾りの船まで振った。

 そのせいかどうか、周囲を取り囲む船との幅が近くなり、ついに、その中から、三つの

船が、僕達の方に進んで来た。

「やったー!」と僕達は、それまでのいきがかりも忘れて、互いに抱き合った。

 三つの船の中でも、一番大きな船が、僕達のそばに来て、何となくソーン様に似た老人

が、何か話しかけてきた。

 何を言っているのか、全然わからない。

 すると、老人が、近づいたように見えたが、ラーヤが一歩前に出たのだろう。

 その何かわからないことばに、わからないことばを返すと、老人は、周囲の人達と、何

やら話し始めた。

「何て、言ってるんだい?」とウルが尋ねた。

「どこから来たのか、と言うので、日の昇る国から来た、と答えたのよ」とラーヤが答え

た。

「もう、心配ないわ。私達の国に隷属していた国のことばだから」とラーヤが、自信たっ

ぷりに答えた。

 そのことばの通り、僕達と遺体は、丁重に、船に運びこまれた。

 僕達の乗った船は、船の群れの先頭を滑るように移動し、しばらくすると、船がたくさ

ん停まっている場所に着いた。

 思い返すと、今でも笑ってしまうが、そこに着いたとたん、僕達は、柵の入った車に乗

せられた。牛も馬も引いていない不思議な車だ。

 ラーヤは、途中で下ろされ、僕とウルは、そのまま連れて行かれた。

 僕の目には、その間にも、ラーヤの見ているものが見えている。

 ラーヤは、追い立てられるようにして、柵で囲まれた場所に、連れて行かれている。

 そして、僕達には懐かしい思いのする、粗末な小屋の中に入れられた。

「よくぞ、来られた」という聞き慣れたことばを聞いた。

 誰かが、僕を抱いた。

「百年の間、待っておりました。日の昇る国から、目の見えない人が来て、目の見える我等には、できないことをするという言い伝えがありました」

「いや、僕は……」そんなもんじゃない、と言おうとしたら、ウルが脇腹をこずいた。

「私達の国にも、国の滅びた後、同胞の国で再び、富み栄えるという言い伝えがありまし

た。ここが、その国とは……」

「百年の昔、我等は、奴隷として、この地に連れられて来ました。しかし、連れてきた主達は、皆、奇妙な病気にかかり、その病気は家畜にも蔓延して、一時は、どうなることかと思われましたが、病気の主達と家畜とを共存させることで、何とかバランスが取れるようになりました。今では、我等は、かつての主達を、守り育てる立場となっております」

 そういう間にも、僕の目は、ラーヤの見ているものを見ていた。

「アッ!」とウルが叫んだ。

「アズの子供を忘れてきた」

「水槽におられた赤子なら、そのままお連れしております」

「ああ、それなら良かった」

 ラーヤは、小屋の中を眺めている。

 そこは、フェオ様とソーン様のいたような、僕達としては、かなり贅沢な家だったが、

ラーヤの目から見ると、ただの小屋なのだろう。

「何か、ここにはないものを見ておられるようだ」と話の矛先が、僕に向かってきた。

「ウルは、ここにいればいい。僕は、ラーヤのところに行く」と僕は言った。

「あれは、僕の目なのだから」

「しかし、あのようなところで、ケン様をお暮らしさせるわけにはまいりません!」


 というわけで、僕がラーヤのところに行く代わりに、ラーヤが、僕達のいる所に来るこ

とになった。

 ラーヤが、そのことを、どれだけ喜んだか、想像してみて欲しい。

 ラーヤは、それ以後、僕の目の代わりをつとめている。

 唯一、ラーヤが、僕の寝ている間にするのが、自分の顔を見るということだ。

 ここでは、若さを保つために、他人をエネルギー源にすることはできない。

 従って、ラーヤも、刻一刻と、他の人間同様に、年を取っていく。

 なぜ、そんな当たり前のことを、僕に隠そうとするのかが、僕には全然わからないのだ

が。

 つい、この間まで水槽で育っていた、アズの子供が無事に誕生した。

「生まれたというより、陸に上がったって、感じだね」とウルが言っていた。

 アズに似ている。

 僕の最初の妻のアズに。


 僕達の生まれ育った場所は、全て綺麗に消えてしまった。

 それでも、僕達は、今も生きている。

 アズの娘の成長が、僕達の年月を、確かに刻んでいる。

 この子だけが、僕達の元いた場所の記念碑なのだろう。



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