1.Learning!回復
肌に風を感じる。冷たい風。それが意識を取り戻した第一歩だった。…いや、待て。冷たいなんてもんじゃない。暴力的なまでの風圧が全身を叩いている。目を開けた瞬間、視界を埋め尽くしたのはどこまでも続く青空と、猛スピードで迫ってくる緑の絨毯だった。
(…は?)
状況が理解できない。俺は確か横断歩道で信号待ちをしていたはずだ。それがどうして、スカイダイビングなんてしているんだ?
「おい、冗談だろ…っ!」
叫ぼうとした口に風が押し寄せ、肺がひっくり返りそうになる。地面が近付いてくる。このままだと、あと数秒で俺はお陀仏だ。死ぬ。間違いなく死ぬ。
パニックに陥りかけた脳の片隅に、妙な紋様とそれを取り囲む文字列が浮かんだ。同時に壊れた肉体が元に戻っていくイメージが頭に流れこんでくる。意味は分からない。だが、その紋様を見た瞬間、俺の血が沸騰したように熱くなった。死の恐怖が、一瞬にして「これ、耐えられるんじゃね?」という根拠のない確信に塗りつぶされる。
「ハ…ッ、ハハハ! 治るんなら、落ちても死なねぇよな!」
俺は恐怖を振り払うように笑い飛ばし、衝突の衝撃に備えて全身に力を込めた。眼下に広がるのは深い森だ。直後、バキバキと枝をへし折る轟音と共に、凄まじい衝撃が全身を貫いた。骨が砕け、内臓がひしゃげ、視界が真っ赤に染まる。人間なら、即死であろう絶望的なダメージ。しかし。
「…っ、いってぇえええええ!!」
森の土を抉り、クレーターの中心で俺は叫んだ。身体の至る所から立ち昇る、神々しいまでの白い光。砕けた骨が強引に繋がり、破れた皮膚が瞬く間に塞がっていく。激痛はある。だが、それ以上の速度で「生」が全身を駆け巡る。俺はフラフラと立ち上がり、血に汚れた白いシャツの袖で口元を拭った。全身に痛みが残る。しかし、「死」を迎えるはずの肉体は「傷」ができるだけで済んでいた。
脳裏に先ほどと似た、しかし少し異なる紋様と文字列が浮かぶ。続いて浮かぶイメージはさっきと同じ肉体が回復する映像だ。俺は目を閉じて、頭に浮かんだ紋様を強く、強く意識した。すると全身を覆う傷はたちまち癒え、痛みも消え去った。
「…すっげぇ!」
痛みが治まった俺は、ようやく空から落ちてくるまでのいきさつを考え始めた。…えっと、確か酒のつまみが切れたから、コンビニに買いに行こうとしたんだよな。で、アパートの前の交差点で信号待ちをしてて…。その時俺は思い出した。
「そうだ!俺トラックに轢かれてんじゃん!」
俺は、何となくだが、自分が今置かれている状況を理解し始めた。これはあれだ。いわゆる「転生」ってやつだ。それできっと俺は手に入れちまったんだ、「魔法」ってやつを。
「それじゃあさっきの光は回復魔法ってことか…。ふぅ…何はともあれ一旦助かった…」
俺は自分が助かったことに安堵し肩を下ろした。いざ転生してみると、存外驚かない自分に逆に少しびっくりした。
「さて…これからどうするか」
俺は、とりあえずこの森を抜け、人のいる場所を探すことにした。傷が治せることが分かっても、腹は減るし、野宿だってしたくない。俺は何となく水が流れる音がする方へ、足を進めて行った。川を見つけることができれば水を確保できるかもしれないし、運よく誰かに出合えるかもしれない。バラエティー番組でかじった程度のサバイバル知識と淡い期待を胸に、森の中をどんどん進んで行く。体感四十分だろうか。俺は、川に隣した開けた土地に出た。まだそれほど歩いていないが、慣れない無舗装の地面に付かれた俺は少し休息をとることにした。川の水で体の血を流しさっぱりした俺は、近くの木の幹に寄りかかり腰を下ろした。そのまま辺りを見回してみる。川幅は広く、向こう岸には渡れそうにない。しかし、自分が今いる空き地から道が伸びていることに気が付いた。
「やった!道だ!」
暗くなるまでに人里を見つけたかった俺は、休憩もほどなく発見した道を進んで行った。
太陽が沈み始め空の色が茜色に染まり始めた頃、俺は焦りを覚え始めた。しかし、今はとにかく歩き続ける他ない。一歩の感覚が短くなってしばらく、俺はこの世界に来て初めての人に出会った。それは黒いローブを身にまとった少女で、年齢は十五、六歳ほどだろうか。傍らには大きな赤い宝石のような玉のついた、杖が横たわっている。彼女はどうやら怪我を負っているらしく、左足を押さえながら弱弱しく木の根元に腰かけていた。
「おい、大丈夫か?」
俺は初めて人に会った興奮を押さえながら、少女に話しかけた。少女は俺の声に顔を上げると、安堵した表情で返事した。
「足を怪我して、歩けなくて困っていたの。町まで連れて行ってくれるととても助かるわ」
…良かった、言語が分かる。少女の安否よりも先に言葉の問題を気にしてしまった自分に少々嫌気がさしたが、俺は次の提案をすることで、その罪悪感を消し去ることにした。
「その怪我、俺が治すよ」
そうは言ったものの、他人の怪我を治したことはまだない。俺は少し考え、少女の傷口に手をかざし、先ほどと同じ紋様を集中して思い浮かべた。少女の傷口が白く発光する。光が消えると、傷はすっかり治っていた。
「すごい。あなた白魔術師なのね。運が良かったわ」
白魔術師?何を言っているのかよく分からなかったが、おそらく俺の魔法に関する言葉なのだろう。そんなことを考えているうちに、少女は言葉を続けた。
「ありがとう。お陰で助かったわ。私はクロエ。見ての通り黒魔術師よ」
黒魔術師?また似たような単語が出てきたぞ。ブラックってのはそのマントのことか?頭の中が?で埋め尽くされる前に、俺はクロエと名乗る少女に質問した。
「なあ、その白ソー何とかってなんだ?黒何とかも」
それを聞いて少女は目を丸くして驚いた。
「まあ!あなた知らないの?常識よ。…よく見ると変わった服をしているしどこか異国から来たの?それでも白魔術師黒魔術師は知っているはずだけれど…」
異国か…あながち間違ってはいないだろう。俺はクロエに会うまでのいきさつを説明した。クロエはまた目を丸くしながら俺の話を聞いてくれた。
「あなた、異世界から来たのね。…普通じゃそんなこと信じられないけど、あなたが嘘を付いているようには見えないし、もっとも嘘を付く利点もないだろうし、信じるわ」
クロエはあっさり俺の言うことを信じてくれた。もっと狂人を見る目を向けられるか、あるいは根掘り葉掘り問い詰められる覚悟をしていたが、彼女の瞳に宿る光は疑念の色を帯びていない。俺はこのたった一人の少女によって、この新しい世界に受け入れられたような気がした。俺は何だか少し気恥ずかしくなり、血の跡が消えたばかりの自分の掌を握ったり開いたりしてみせた。数分前まで肉塊になりかけていた実感は、急速に薄れていく。代わりに、この見知らぬ空の下で出会った一人の少女という現実が、じわじわと俺の輪郭をこの世界に繋ぎ止めていた。
「さあ、怪我も治してもらったことだし、町に向かって出発よ。助けてもらったお礼に案内してあげるから一緒に行きましょ。道すがら魔術師のことも教えてあげる」
クロエはそう言って立ち上がると、ローブに付いた土を払った。俺も当初の目的だった町に案内してくれるということで、喜んでクロエについて行くことにした。
「ところで、あなた名前は?」
クロエが俺に尋ねる。そういえばさっきの説明でも、自己紹介はしていなかったな。
「俺は保坂眞白。眞白でいいよ。」
「マシロ…か。いい響きね。」
自己紹介も済んだところで、俺はクロエに問いかける。
「…で、さっきの白何とかについて教えてくれよ」
「ええ、分かったわ」
クロエは俺の頼みを承諾すると、説明を始めてくれた。




