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赤い線の向こう側―疫病隔離施設。地面に赤い線が引かれ、越えた者は射殺される。  作者: しげみち みり


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第九話 裏切りの配線

 非常灯が点くときの音を、ユウは生まれて初めて聞いた。


 ぴ、と乾いた電子音がして、次の瞬間、世界の色が変わる。

 天井の蛍光灯が一斉に消え、壁際に埋め込まれた小さな灯りだけが、ぼんやりと淡い橙を吐き出した。


 それは、夜間訓練のときに何度か聞いたはずの音だった。

 だが今は、意味が違う。


「停電……」


 誰かが呟く。

 ざわめきが、施設全体を走った。


 そのざわめきの少し手前で、ユウは自分の心臓が跳ねるのを感じた。


 志織が言ったとおり、送電線が落ちれば、タレットは黙る。

 そのタイミングを狙って決行する――はずだった。


 だが、予定より早い。


「まだだよね……」


 廊下の角で、ユウは小声で問う。


 すぐ隣に立っている志織は、非常灯の光に青く照らされた顔で、眉間に皺を寄せた。


「うん。こんな時間じゃない。予定はもっと後」


「じゃあ、これは――」


「誰かが、先に配線を切った」


 志織の声が、かすかに震えた。


     ◇


 監視室では、警報のランプが赤く点滅していた。


「メイン送電、ダウン!」


「非常系統に切り替わりました!」


 兵士たちが慌ててコンソールを叩く。

 モニターには、各ブロックの電力状態が乱れたグラフで表示されていた。


「タレットのステータスは?」


「メインラインからの供給が切れています! 予備バッテリーは――反応なし!」


「つまり、止まってるってことだな」


 誰かが息を呑む。


「誰がやった」


 低い声が、監視室を貫いた。


 霧島だった。

 非常灯に照らされたその顔は、いつも以上に削り出されたように硬い。


「外からの攻撃か?」


「いいえ……外壁カメラには異常なし。送電線自体は、生きているように見えます」


 兵士のひとりが、モニターを指さした。


「この断線は、外ではなく……内部の分岐からの可能性が高い」


「内部?」


 霧島の眉がわずかに動く。


「つまり、“誰かが施設の中で配線を切った”ということです」


 そのとき、監視室の扉が勢いよく開いた。


「配電盤、見せて」


 志織が、工具箱を抱えて飛び込んできた。

 その後ろから、アヤとユウも続く。


「お前たちは――」


「タレットの送電が不安定だって、前から言ってた。配線図も全部頭に入ってる。今どこが落ちたか、すぐ分かる」


 志織は、霧島の言葉を遮った。


 霧島は数秒、彼女を睨むように見たあと、配電盤のパネルを顎で示した。


「好きにしろ。ただし、勝手に復旧させるな。状況が把握できるまで、タレットは止めておく」


「了解」


 志織は、工具を抜き、配電盤の蓋をこじ開けた。


 ぎし、と金属がきしむ。

 中から、絡み合ったケーブルが姿を現した。


「ここが、外から来てるメインライン」


 志織は黒い太いケーブルを指さす。


「生きてる。電圧も安定してる。切れてるのは――」


 彼女の指が、別の束で止まる。


「壁裏で分岐してる、この系統。タレットと外周フェンスに行くラインだけが、途中で断線してる」


「どこでだ」


「外からじゃない。ここから二メートルほど先、壁の中で切れてる」


 志織は、配線図を広げた。


「あった。ここの点検口……。でも、ここ、普段は閉鎖されてるはず」


「鍵を持っているのは?」


「警備班と、設備担当の数名だけです」


 霧島は短く息を吐いた。


「内部の誰かが、鍵を使って壁裏に入り、タレットのラインだけを切った。外部からの攻撃ではない」


 志織は、配電盤の中を見つめながら呟いた。


「裏切りの配線、ってやつか……」


 ユウは、その言葉にぞくりとした。


 外へ向けられていたはずの電気が、内側から切られる。

 タレットという“外向きの銃”の神経だけが、誰かの手で断ち切られている。


 誰が、何のために。


「越境当夜に、タレットだけを止める」


 霧島が低く言う。


「偶然だとは思えません」


 監視室の空気が、一気に冷えた。


「あんたの“越境計画”が、狙われたってこと?」


 志織の問いに、霧島は目を細めた。


「……あるいは、最初から“狙い”だったのかもしれない」


「どういう意味ですか」


「越境を“共同体の合意”という形にした瞬間から、それは“誰かに利用されうる仕組み”になった」


 霧島は、椅子の背にもたれ掛かった。


「“一晩一人、選ばれた者が線に近づく”。そこに、外から狙い撃つ者がいたとしたら?」


 ユウの背筋に、冷たいものが走った。


「越境計画そのものが、“的を用意する罠”だった可能性がある」


 霧島の言葉に、誰もすぐには反応できなかった。


     ◇


 礼拝所の扉は、重い音を立てて閉ざされた。


「すべての出入りを一時停止します」


 兵士が外側から鍵をかける。


「ちょっと、どういうことだよ!」


 中から怒鳴り声が上がる。


「説明しろ!」


「投票しただけで、閉じ込められるのか!」


 御子柴は、祭壇の前で両手を合わせていた。

 怒号が、天井の木材を震わせる。


「罠は線に掛かるのではなく、心に掛かります」


 彼は小さく呟いた。


「“誰が裏切ったのか”という問いが、人を食い始めたとき。それが罠の本当の始まりです」


 堂内の隅で、ヌマが肩をすくめた。


「閉じ込めてどうする気だろうね、あの人は」


「あなたはどう思うんですか」


 近くにいた男が、苛立ちを隠さずに問う。


「“内部の誰か”が配線を切ったらしいですよ。設備担当か、警備か」


「そういうとき、人は必ず“自分以外”を疑う」


 ヌマは、相変わらずの調子で答えた。


「だから、罠はよくできてる。誰かが線を切れば、線は勝手に増える。“あいつは怪しい”“あの班はおかしい”って」


「他人事みたいに言いますね」


「他人事じゃないよ」


 ヌマは、腰を上げた。


「俺、自分の票を売り買いしてるし。十分怪しい」


 そのときだった。


 礼拝所の外で、短く、乾いた音がした。


 三発。


 タレットの重い連射音ではない。

 もっと軽く、耳に残る、あの音。


 拳銃の発砲音。


 御子柴は、祈りの姿勢のまま顔を上げた。

 ヌマも、動きを止める。


「今の、どこから――」


 扉の外から、誰かの叫び声がした。


「撃たれた! 誰か倒れてる!」


 礼拝所の中で、瞬間的にパニックが起こる。


「誰が撃った!」


「タレットは止まってるはずだろ!」


「違う! 別の方向からだ!」


 御子柴は、扉へ駆け寄ろうとする人々を手で制した。


「押さないでください! 外の様子を確認するまで開けては――」


 言い終える前に、扉が内側から揺れた。

 押し寄せた人の力で、蝶番が軋む。


「下がって!」


 兵士が外から怒鳴る。


「扉から離れろ!」


 数秒の混乱のあと、ようやく人波が少し引いた。


 御子柴は、祭壇に戻り、震える声で祈りを再開した。


「撃った者と、撃たれた者の両方が、自分のしたことを最後まで見つめられますように……」


 それは、届くかどうかも分からない祈りだった。


     ◇


 撃たれたのは、ヌマだった。


 礼拝所の横の通路。

 広場へ抜ける角を曲がったところで、彼は崩れるように倒れていた。


 胸元の服が赤く染まっている。

 血の量は、多い。


「しっかりして!」


 アヤが膝をつき、傷口を押さえる。

 彼女の手も、すぐに赤く染まった。


「どこから撃たれた?」


 霧島が、周囲を見回す。


「線の方じゃない。……逆だ」


 兵士のひとりが、指で示した。


 赤い線から見て、施設のもっと外側。

 外周フェンスの向こう――そのさらに向こうから、何者かが撃ってきた。


「外側にいるはずの誰かが、内側に向かって撃った」


 霧島が呟く。


「タレットが沈黙した瞬間を狙って」


 アヤは、ヌマの顔を覗き込んだ。


「意識は? ヌマ、聞こえる?」


「……聞こえるよ」


 かすれた声が返ってきた。


「ひどいなあ……俺、そんな嫌われてた?」


「喋らなくていい。弾の位置を確認する」


「いや、喋らせてよ。死ぬかもしれないし」


「縁起でもないこと言わない」


 アヤは、手早く傷口の周りを探る。


「貫通は……してない。うまく抜けてくれればいいけど」


「ねえ」


 ヌマは、視線を霧島に向けた。


「これで、“票買い”は帳消しになりますかね」


「お前のやっていたことと、この弾丸は関係ない」


 霧島は冷たく言った。


「そう思いたいですね」


 血の味が混じった笑いだった。


「“越境権”を売り買いしてた俺が、“外からの弾”で倒れるってさ。話としては、割と綺麗だと思わない?」


 アヤは、黙って止血を続けた。


「運ぶわ。今すぐ医務に」


「越境はどうするんです」


 兵士のひとりが霧島に問う。


「計画通り、今日の夜に決行するんですか」


 霧島は、短く目を閉じた。


「……越境計画は、一時中止だ」


 その言葉は、ユウの心臓を直接掴んだ。


「やめる、ってことですか」


 ユウは思わず前に出た。


「今日、行かないってことですか」


「タレットが止まり、内部の誰かが配線を切り、外から何者かが拳銃を撃ってきた」


 霧島は、ひとつひとつ数えるように言った。


「この状況で“越境支援”を続けることは、“的を立ててやるようなもの”だ。選ばれた者を、銃の前に立たせるだけになる」


「でも――」


「中止だ」


 霧島は言い切った。


「越境計画そのものが、“誰かの罠”に利用されている可能性がある。これ以上、一人もその罠に送り込むわけにはいかない」


 ユウは、言葉を飲み込んだ。


 頭のどこかで、霧島の判断が正しいことは分かっている。

 それでも、胸の奥で、別の声が叫んでいた。


(やっと、“行ける夜”が来たのに)


 タレットが沈黙している。

 塔からの発砲も、今のところない。

 外からの銃声はあったが、それがどこまで監視しているのかは分からない。


(これを逃したら、次はいつになる)


 ミオの体温。

 咳のリズム。

 アヤが見せた“よくない良さ”の顔。


 時間が、もう残っていないことは分かっていた。


     ◇


 医務室に戻る廊下で、アヤは足を止めた。


 脈拍計の電子音が、廊下まで漏れている。

 薄い壁一枚の向こうで、誰かの心臓が早鐘を打っている。


「ミオちゃんの脈、乱れてきてる」


 アヤは言った。


 ユウは、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。


「乱れてるって……」


「さっきまでは、ギリギリ“頑張ってる”側のリズムだった。でも、さっきの停電の時に一瞬モニターが落ちて、そのあとから、波形が少し“危ない方”に寄ってる」


 アヤは、天井を見上げた。


「越境がどうとか罠がどうとか、考えてる余裕は、正直あんまりない」


「……」


「医者として言うなら、“今夜”が勝負の一つだと思う。ここで何もせずに朝を迎えたら、そのまま“朝が最後になる”可能性がある」


 ユウの喉が、ひりついた。


「でも、霧島さんは中止だって」


「そうね」


 アヤはあっさり認めた。


「霧島さんは“全体”を見てる。私は“目の前”を見てる。どっちも間違ってない。だから、世界は簡単に折り合わない」


 彼女は、ユウの方を見た。


「決めるのは、あなた」


「俺?」


「ミオちゃんの弟として。ユウ自身が、自分の正義の密度をどこまで上げるのか決めるしかない」


 アヤの目は、責めてはいなかった。

 ただ、真っ直ぐだった。


「行くなら、手伝う。行かないなら、それも手伝う。どっちにしても、私と志織と砂原さんは、“撃たせないための準備”を続ける」


「砂原さんは、塔にいない」


「塔にいないからこそ、できることもある」


 アヤは、わずかに笑った。


「あなたが決めなさい。決行を早めるかどうか」


 ユウは、目を閉じた。


 胸の中で、天秤が揺れる。


 一方に、ミオの体温。

 延びた一日。

 橋渡しの薬。


 もう一方に、“罠かもしれない越境計画”。

 外からの銃声。

 内部の誰かが切った配線。


 天秤は、しばらく真ん中で震えていた。

 やがて、ゆっくりと片側に傾く。


「……行く」


 ユウは言った。


「霧島さんの計画とは関係なく、俺個人として行く」


 アヤは、短く頷いた。


「分かった」


「止めないのか」


「止める理由を、もう持ってない」


 アヤは肩をすくめた。


「中途半端に“正しい側”に立って、両方を宥めるの、さすがに疲れたから」


 それは、冗談に聞こえて、冗談だけではなかった。


「志織に合図する。送電の状況を見て、“今いちばん降りてこないタイミング”を探してもらう」


「砂原さんには?」


「外周巡回のルート、覚えてる? 今夜、この時間帯なら、ここにいるはずって場所」


 ユウは、頭の中で地図を引き出す。


「封鎖道路の手前の支柱。送電線の影」


「そこに、小さい光が返ってくるかもしれない。行きなさい」


 アヤは、背中を強く叩いた。


「ミオちゃんには、私から話す。“ちょっと見送りに行ってくる”って」


     ◇


 夜の赤い線は、昼よりも黒く見えた。


 非常灯の橙色が、地面の塗料を鈍く光らせる。

 タレットは、暗いシルエットになったまま、音ひとつ立てない。


 視認装置の赤いランプも、今は消えていた。


「……本当に止まってる」


 ユウは、息を殺して呟く。


 背後から、小さな足音。


「おそい」


 志織が、フードを目深に被って現れた。

 手には、小さなライト。

 点けたり消したりしながら、リズムを刻む。


「送電、今は完全にタレットに行ってない。メインも予備も。復旧作業の許可が出るまでは、このまま」


「その復旧作業をするのは」


「私」


 志織は肩を竦めた。


「だから、“しばらくは動かない”って保証はできる。あとは……人間の方の銃だけ」


「塔からは?」


「さっきから、一発も鳴ってない。狙撃手は“待機”の命令を受けてるはず。外からの弾に備えるので手一杯」


 志織は、視線を外周フェンスの方に向けた。


「でも、さっきヌマを撃った奴が、また撃ってこない保証はない」


「分かってる」


 ユウは、線の手前で足を止めた。


 地面に、細く赤い境界。

 靴の爪先のすぐ先に、それがある。


 息が、少し早くなる。

 心臓が、耳の奥でうるさく鳴った。


「怖い?」


 志織の問いに、ユウは正直に頷いた。


「怖い。でも……」


 言葉を探す。

 自分の足を前に出すための、最後の燃料。


「怖いよりも、行きたい。怖いよりも、“行かないまま”の明日の方が怖い」


 ミオの顔。

 笑いながら咳き込む姿。

 “あなたを残す線を、わたしは引きたくない”と言った声。


「撃たれるなら、それでいい」


 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 口から出た言葉に、身体の奥が急に軽くなる。


 恐怖よりも強い目的意識。

 自分が自分じゃなくなる代わりに、ようやく前へ進めるような感覚。


「バカだね」


 志織は、苦笑した。


「でも、嫌いじゃないよ、そういうの」


 彼女は指を鳴らした。


 ぱちん、と乾いた音。

 暗闇に、小さなリズム。


 遠く、送電線の影の方で、かすかな光が瞬いた。


 一度。

 二度。

 三度。


「砂原さんだ」


 ユウの胸が熱くなる。


「“今は見てるだけ。撃たない”って合図」


 志織が、淡々と訳した。


「行きなさい。私たちは、この線のこっち側でできることをする」


 ユウは、線を見つめた。


 靴の爪先を、そっと近づける。

 塗料の縁に触れる。

 冷たくも熱くもない、ただの地面。


(ただの線だ)


 志織が見つけた古いログ。

 人々が自分たちで引いた目印。

 後から軍が“罰”に変えた境界。


 それを思い出す。


「行ってくる」


 誰にともなくそう言って、ユウは一歩、前へ出た。


 赤い線を、越えた。


     ◇


 世界が、音を失った。


 足の裏に伝わる感触は、さっきと何も変わらない。

 ただ、背中の方向が、“内側”から“外側”に変わっただけ。


 ユウは、視界の端で、タレットを見上げた。


 沈黙。

 動かない砲身。

 震えないジャイロ。


 志織の手が、線のこちら側で小さく動いた。

 何かを握りしめるように、胸元に当てている。


 遠く、送電線の下で、また光が瞬いた。


 それは、まるで「行け」と背中を押す合図のようだった。


 ユウは、走り出した。


 補給庫へ向かうルートではない。

 ヌマの地図に記された、“封鎖道路の先”へ続くルート。

 影の市の裏手から抜け、廃棄されたコンテナの間をすり抜け、外周フェンスの脇を滑るように進む。


 昨日、何度も頭の中でシミュレーションした道。


「……大丈夫、大丈夫」


 自分に言い聞かせるようにつぶやく。


 足音が、非常灯の薄い光の中で弾む。

 息が上がり始める。

 心臓は早鐘を打っているが、その鼓動は“不思議な静けさ”の中にあった。


 撃たれるなら、それでいい。

 その思いが、恐怖を削り続けていた。


 赤い線から二十メートル。

 三十メートル。


 背後で、誰かが叫ぶ声がかすかに聞こえた。

 何を言っているのかまでは、届かない。


 そのときだった。


 横合いから、風が裂けた。


 耳のすぐ横を、何かが通り過ぎる感覚。

 遅れて、空気を叩く音が届く。


 銃声。

 霧島の声でも、塔の警告射でもない、乾いた単発。


(来た)


 頭で理解するより先に、身体が強張る。


 次の瞬間、横から衝撃が飛び込んできた。


「ユウ!」


 名前を呼ぶ声と同時に、地面に叩きつけられる。

 肺から空気が抜けた。


 世界がぐらりと揺れる。


 頬に冷たいコンクリートの感触。

 身体の上に、誰かの重み。


「動かないで!」


 耳元で怒鳴られた。


 アヤだった。


 彼女の身体が、盾のようにユウの上に覆いかぶさっている。


 続けざまに、もう一発。

 今度は、もっと近くを弾丸が掠める音がした。


 アヤの肩が、大きく跳ねた。


「っ……!」


 短い息が漏れる。


「アヤさん!」


「平気……かどうかは、あとで考える」


 声が震えているのに、言葉の調子はいつもと変わらない。


 ユウは、彼女の肩越しに、ちらりと視線を上げた。


 タレットは、まだ沈黙したままだ。

 塔からの発砲もない。

 狙撃塔の影は、非常灯の逆光で輪郭だけが浮かんでいる。


 今の弾は、塔じゃない。


 音の方向は、もっと遠く。

 赤い線の“さらに外”。


 外周フェンスの向こう。

 闇の中。


「どこだ……?」


 ユウは、歯を食いしばった。


 外からの銃声。

 タレットが止まった隙を狙うように、線の“さらに外”から撃ってくる誰か。


 外には何もない。

 そう思っていた。

 治療薬どころか、人影もないと。


 けれど今、確かに闇の向こうから弾丸が飛んできている。


「誰が……撃ってるんだよ」


 ユウの喉から、掠れた声が漏れた。


 アヤは、肩を押さえながら、かすかに笑った。


「少なくとも、“私たちと同じ顔”じゃない誰か、ってことだけは確かね」


 彼女の白衣が、じわりと赤く染まり始めていた。


 裏切りの配線。

 沈黙したタレット。

 外からの弾丸。

 線を越えたユウの足元。


 すべてが絡み合い、ほどける気配はまだない。


 ただ一つだけはっきりしているのは、ユウの身体が初めて“恐怖より強い目的意識”に動かされ、そしてその瞬間を狙うように、赤い線のさらに外から誰かが引き金を引いた、という事実だけだった。

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