鯉
注意
- この物語は作者の体験をもとにしたフィクションです。
実在の人物、団体、建物とは一切関係ありません。
- この作品を生成AIの学習等に使用するのはご遠慮ください。
鯉。
この言葉を聞いた時、読者の皆は何を思い浮かべただろう。
殆どの人が庭園の池を優雅に泳ぐ錦鯉の姿を思い浮かべたのではないだろうか。
観賞用として人気の高い美しい魚。
しかし、私の中での鯉のイメージはそんな良いものではなかった。
私は鯉が怖いのだ……
それは私が高校生の時の出来事だった。
確か2学年1学期の終業式後のことだったと思う。
当時の私は、所属していた部活の方針に嫌気がさし、部活をやめたところだった。
そのため、私は午後の予定がまるまる開いていた。
寄り道をせずにまっすぐに家に帰り、帰ってからは『元チームメイト達は今頃暑い体育館で練習に励んでいるのだろう』と想像しながら、涼しい部屋でゲームでもして過ごそうと考えていた。
終業式中は、夏休みにやろうと積んでいたゲーム、どのゲームから着手するかで頭がいっぱいであった。
終業式が終わり、ホームルームで軽く夏休みの注意事項の説明を受けると予定より少し早く解放された。
解放されると、私は同じ中学の出身でよく一緒に帰っていたAに「帰ろう」と声をかけた。Aは「ごめん。今日は部活があるから、先帰とって」と答えた。
私はその時までAを帰宅部だと思い込んでいた。帰宅部だから私と同じ時間に帰れているのだと思っていた。
しかし、私が知らないだけでAは部活に入っていたみたいだ。
私はAの部活が気になった。私はAと雑談しながらAの部活とやらについて行くことにした。
Aは生物室の前で立ち止まり、遊びに誘う時のようにさりげなく「来る?」と聞いた。Aは生物部だったのだ。
私はAの部活を特定すると帰るつもりだった。もちろん私は生物部ではなく、入部4カ月目の帰宅部だ。生物部の活動に参加する義務はなく、同様に権利もないはずであった。
しかし、Aは「来る?」と聞いた。私が「行く」と言っても困りそうな様子はAにはなかった。
私は面白半分で「暇だし行こうかな」と答えた。私とAは生物室へと入った。
中では、生物部の部員と思われる人達(もしかしたら私のような人も混ざっていたかもしれない)が休み時間の教室のように各々2~4人ぐらいで集まって話していた。
生物部らしい会話をしているのかと言うとそうではない。最近の流行や夏休みの予定等の雑談をしていた。
Aは同じクラスのメンバーがいるグループへと入っていた。私もAに続いてそこに入った。
「おまえって生物部だったの?」と同じクラスのメンバーBから聞かれた。私は正直に「違うよ」と答えた。
Bは「そう。まぁいいや」と答えた。グループの他の人間も気にしている様子はなく、次の話題へと流れていった。
そもそも私のいた学校の生物部は色々と緩かった。その証拠に、Aは帰宅部と間違われるほどに部活に参加していなかった。
そのため、部外者の私がいきなり活動に参加しても、気にする人間は顧問も含め誰もいなかったのだ。
私たちが雑談をしてしばらくしていると、生物準備室から撥水性の作業着をきたフル装備の生物部部長Cと、いつも着ていた白衣を脱いだ顧問の先生が出てきた。
部員たちは緩く雑談しながら、部長と顧問の方を見た。
部長と顧問は、雑談が収まるのを待つようなことはせず、緩い雰囲気の中で今日の活動の説明をし始めた。
その日の生物部の活動と言うのは学校の近くのT川での水生生物採集だった。
私たちが採集を行った場所は、くるぶしより少し上ぐらいまでの深さがあり、水は透明でこぶし位の大きさの丸い石が転がる水底が見える。その中をメダカ位の大きさの小魚がすばしっこく泳いでいる。
私はその目に見える獲物を、生物部から渡された備品の魚とり網で捕ろうと思った。しかし、小魚は目には見えるが、岸から網を伸ばして捕るには距離のある中腹の辺りを泳いでいた。
生物部員たちは今日生物採集をすることを聞かされていた。そのため、部長程の装備でなくとも、サンダルや長靴等の濡れても大丈夫な靴を用意していた。彼らはそれを履き、男子はスラックスを膝のあたりまでまくり上げて川の中へと入っていった。
私は解放され次第帰ろうと考えていたのだ。そう言った類のものは持ってきていない。
仕方ないので、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、裸足になり、スラックスをまくり上げ、右足から川に入れた。
初夏の暑さの中にいたせいもあり、川の水は氷水かと思うぐらい冷たく感じた。そして、雪解け水かと思うぐらいに澄んでいる。
冷たいのを我慢しながら右足をそこへと付ける。あまり運動しないせいで柔らかい足の裏にごつごつとした硬い石の感覚が伝わってくる。石はある程度大きいので、足つぼのように痛みを感じることはない。しかし、足場が悪い。
私は注意しながら左足を入れ、生物部員が採集している中程へと向けて歩き出した。
そんな中、中腹までの道の半分ぐらいに来た頃であった。
私の敏感で柔らかい足の裏が、ぬめ~っとした嫌な感触を感じた。足の裏から感覚神経を伝って、気持ち悪さが脳へとせりあがってくる。
「うわっ」
私の脊髄が勝手に声を上げた。勝手に足を一歩下げる。
脳まで気持ち悪さがあがってくると、足があった場所を見た。
鮮やかな緑とくすんだ赤に近い茶色の苔の生えた石があった。ただの苔である。
でも、足の裏の感触は気持ち悪い。
もう一度苔の上に足を置くのは嫌だった。普段触れない自然に対して、私は潔癖なのかもしれない。
私は仕方なしに岸まで戻って靴下と運動靴を履いた。
今は夏である。
気温が高く、濡れたものはすぐに乾く。だから、靴のまま水の中へと入る。
ごつごつとした足場はそこまで気にならない。
ただ、今度は濡れた布がまとわりつく別気持ち悪さがあった。でも、雨の日に経験があるぶんこちらの方がましだった。
足を上げると靴の通気用メッシュから水が出てきた。
私は今度こそ川の中腹を目指して進んでいった。
それから小魚の採集をした。が、小魚は動きが速くなかなか捕れなかった。
そうやって、生物採集を行っているうちに、生物部員の1人Dが「冒険しようぜ」と言い出した。開始から1時間ほど経過していた。飽きてきたのだろう。
Aも飽きていたのかそれに乗った。小魚が中々取れない私もそれに乗った。
生物部の部長Cは「ガキみたい」と言ってからかったが、私たちが冒険と称して川の下流へと下っていくことは止めなかった。顧問の先生は「1人にならないように」と言って私たちを送り出してくれた。
私たちは童心に帰り?(もともと童心だったのではないか?)、流れに従って下流へと下って行ったのだ。
そうやって私たちの大冒険?が始まったのだった。
私たちが採集をしていた場所は、川の幅が狭く、水深が低かった。
しかし下流へ下流へと向かうとどんどんと川の幅が広くなって行った。その一方で流れは緩やかになる。
川の周りの景色もだんだんと変わっていく。
石が多くあった場所がどんどんと草木が生い茂るようになっていった。
そんな中を3人で進んでいく。
運動神経のあるD、そうでもないA、4カ月前まで運動部だった私。
3人の歩く速度は違う。水中を歩く速度も違う。
そのため、自然と3人の中に順番が出来ていった。
Dが私の5m程前を歩き、Aが私の5m程後ろを歩くという並びと間隔で進んでいく。
しばらく歩くと、広かった川幅がだんだんと狭くなってくる。
ただ、川幅が狭くなっただけではない。草木がどんどんと高く密になっていき、葦の壁が左右を塞ぎ圧迫感を与えて来る。圧迫感が川幅をさらに狭く感じさせる。
そんな葦の迷路の中を進んでいると、前を歩いていたDがいきなり立ち止まった。
5m先のDの目に何がうつっているのか私にはわからない。Dは膝上までまくり上げていたズボンの裾をそれぞれの手で持ち、太ももぐらいまで上げた。そして、そのままの姿勢で歩き始めた。
Dの頭は30cm程低くなった。恐らく、先に深い場所があるのだろう。
Dから「うわぁ~。気持ち悪る」と言う声が聞こえた。そう言いながらもDは進んでいく。
私は先に何があるのかわからないながらも歩みを進めていく。
水の抵抗があるためゆっくりとした歩みで進む私は、ついにDが立ち止まった地点までたどり着いた。
左右は葦の壁に囲まれている。前には川が30cm程深くなっている窪みがある。窪みは2m程続いている。
私の通ってきた道の幅は50cm程であったが、その深くなっている部分は1m程の幅があった。
水が澄んでいるため、水底は見えるが、左右の葦が日光を遮り尚且つ深いためそこだけ緑黒く見えていた。
私はそこを通るのが何となく直感的に生理的に嫌だった。
それに、私の前を行くDは「気持ち悪る」と言った。それが何のことか私にはわからない。
その窪みには私の知らない情報があるのだ。
でも、Dは先に行った。Aが後ろから迫ってくる。
私は覚悟を決めて、ズボンをまくり上げて窪みへと入った。
冷たい水に太ももまで浸かる。
足首までは、ずっと水に浸かっていたため、もう冷たさになれていた。
でも、太ももは熱い位の夏の日差しを十分吸った黒のスラックスに包まれていたのだ。
足を引っ込めたくなるほどに冷たい。特に、裏ももが冷たいを通り越してこしょばゆい。
ガクガク震えているのか、笑いそうになっているのかよくわからない口元を抑えながら私は進んでいった。
2mの窪みの真ん中ぐらいに着いた時、ふと横を見るとそいつが目に入った。
そう。鯉である。
錦鯉のような綺麗な鯉ではない。
日に焼け色褪せた、黒と紺と灰色が混じったような鱗の鯉である。
大きさは私の太ももよりも大きかったであろう。
そんな鯉は、葦の陰の中に身を潜めていたのだ。
そして、私が彼らの領域に入ったことで姿を見せたのだ。
鯉は3匹いた。
彼らはじっと私を見ていた。警戒している。私が怖いのだ。
私は背が低いとは言え160cm以上はある。鯉はせいぜい40~50cm。
私の方が大きい。
それに鯉は人間を襲わない……はずである。
一方、私は制服が汚れることを考えなければ両手で抱え上げてしまえる。そうすれば私の勝だ。
私が鯉に臆する要素なんて1つもなかったのだ。
……。
……。
……そう、私が水の中にいるということを除けば……。
鯉のうちの1匹がゆったりと私の方へと泳いできた。
鯉は警戒していたのだろう。偵察だ。
私はそこで何故か少し距離を取ろうと足を引こうとした。
そこで私は意識したのだ。私の足は太ももまで水に浸かっていた。
冷たい冷たい水に浸かっていた。
今の私は水の抵抗により、目の前の鯉よりもゆっくりと動くしかなかった。
形勢は逆転した。
地の利によって、今まで圧倒的に優位だと思っていた私はただの鯉を警戒していた。
私の目の前を悠々と泳ぐ鯉は私の知っている鯉ではなかった。
日本庭園の池にいて、人を見つけると口を開けて餌をねだる。私たち人間が一方的に餌を投げ入れる。
そう言う私の知っている鯉ではない。
水の中で私よりも速く動き、人間である私を、自分よりも体の大きい私を恐れない得体の知れない野生の魚になっていたのだ。
そんな鯉は私の行く手を遮るように前を優雅に泳ぐ。水面での屈折の影響か実際の大きさよりも1回り大きく見える。まるで怪魚と呼ばれるもののように感じる。
私は早く窪みを抜けたい一身で抵抗に抗いながら足を前へとだす。
私の足を動かした振動が水を伝わり鯉へと届く。それを感じ取り鯉は私から距離を取ってくれと願った。
しかし、鯉はよけるような気配を見せずにその場に居座る。
それでも、ただの鯉だと思いながら抵抗に逆らいながら前へと進む。
鯉は身体をくねらせて、草の陰へと戻っていった。
それは私に恐れをなしたからではなかった。私が彼らを襲いそうにないと思ったからだろう。
私に興味がなくなったから、自分の定位置に帰っただけだった。
私は抵抗に抗いながら前へ前へと足を進めた。
そんな私の裏ももに冷たい感触がやってくる。私の体温と馴染んだ水ではなく、冷たく澄んだ水が後ろから足に当たる。後ろから何かが来ているのだ。
私は後ろを振り返った。
私の左後ろから2匹目の鯉が近づいてきた。
その鯉は私の太ももすれすれを通っていく。
日光によるものか青灰色に色褪せた鱗が私の足に当たりそうになる。
剥離仕掛けているのか、鱗同士の間に隙間ができ、1枚1枚の鱗が強調されている。
そのため、その鯉は傷んだ鱗をいくつも張り合わせた鱗の集合体のように見えた。
それは私に穢れという言葉を連想させた。
私は肌が粟立つのを感じた。
何故だか分からない。きっと、本能的なものだろうと思う。私はどうしてもその鯉に触れるのだけは避けたいと思った。
魚の病気が人にうつるなんて聞いたことはない。でも、何か触れると自分に良くないことがおこるように感じたのだ。
私は動かずに鯉が過ぎ去るのを待っていた。
鯉はやけにゆっくりと泳ぐ。私は思わず息が止まる。
鯉が尾を動かすたびに冷たい水が足にあたる。鯉に触れた水が私に触れる。
例え見なくても気配として横を、私の足すれすれを、通っているのが分かる。
私はその鯉が通り過ぎるのを待って息をした。鯉は私の横を通り過ぎると1匹目と同じように葦の陰へと帰っていった。
窪みを抜けるまでは後少しである。
私は急いで抜け出そうと右足を前に出した。
その時だった。
左足、それも膝の裏側の柔らかい部分に何かが吸い付く感覚がした。そう3匹目の鯉である。
こしょばいような生暖かいような気持ちの悪い感覚である。
私は驚いて声を出しながら前へと倒れた。
必至に両手を前に突き出す。
水面に手が触れると水を跳ね、バッシャッというような音が響く。
そのまま、私の体は窪みの中へと
……入ることはなかった。
私が倒れた先は窪みが終わり、浅瀬になっていた。私の手は浅瀬に付けたのだ。
でも安心なんてできない。
後ろにはさっきの鯉が居るはずだ。何されるか分かったものではない。
私は手を付いたままの姿勢で、緊急で、乗り上げる様に手を動かして浅瀬へと上がった。
浅瀬に体を上げると、立ち上がる。
そして、後ろを振り返った。
窪みの中、葦の陰で3匹の鯉がこちらを見ていた。
読者の皆様は水族館で見る魚やスーパーで見る魚から恐怖心を抱いた経験はないと思います。
作者もないです。
人を捕食する獰猛なサメであっても水族館のガラス越しで見れば恐怖なんて感じるはずもありません。
精々、大きいとか、迫力があるぐらいだと思います。
それは、私たちと魚の間に明確な壁があり、魚のいる水中に私たちが入ることがないと分かっているからだと思います。
ですが、もし私たちも水中の中にいる状態であれば、スーパーの鮮魚コーナーで『美味しそう』としか思わない鯛であっても、足元を泳がれれば恐怖心を抱くのではないでしょうか?
自分は満足に動けない。でも、相手は自由に動ける。
そんな状態で足元を泳がれでもすると不気味で仕方ないですね。
そんな感情を少しでも共有出来たらと思いこの短編を書きました。
少しでも怖がっていただけたなら幸いです。