【夜に揺れる選択/赤星の灯】
【夜に揺れる選択】
王国軍・第七調査隊詰所――午後
書類を前にしても、文字が目に入ってこない。
報告書の確認、補給部隊への連絡、部隊配置の調整――
どれも戦の準備には必要な仕事のはずだ。
だが、グレン=ロウバルトの意識は、別の場所にあった。
(……“赤星亭”)
木片に刻まれていた宿の名。
あれはただの偶然か、それとも――意図的な“誘導”か。
(いや……)
違う。
意図があった。間違いなく。
ルーガ。
あの男は何かを知っている。
昨日の会話――そして今朝の言葉。
彼の視線には、“こちら側”の事情だけではない、何か“別の理解”が宿っていた。
(……俺が伝えた情報の中に、驚きはなかった。まるで――すでに知っていたようだった)
机の上に、先ほどの命令書が置かれている。
王国の威信、復讐の大義、“正義の矛”。
だがそれは、果たして“正義”なのか。
そう問いかけてきたのは、あの男――ルーガだった。
(軍の外に、ああいう“目”を持っている奴がいる……)
いや、外ではないのかもしれない。
彼は、何かを知っている可能性がある。
「……くそ。気になって仕事にならん」
グレンは立ち上がり、詰所の外へ出た。
夜の帳が落ち始め、王都の石畳に灯火が灯り始めている。
ふと、上着の内ポケットに手を入れる。
あの小さな木片――“赤星亭”の札が、そこにあった。
(これは、軍の判断ではない。個人としての“決断”だ)
ほんの少し、背を預ける誰かが欲しかったのかもしれない。
あるいは――“選び直す”ための、最後の機会を求めていたのかもしれない。
グレン=ロウバルトは足を踏み出した。
向かう先は、王都の東街。古びた宿の並ぶ、静かな通り。
“赤星亭”。
その名の灯りが、今夜はなぜかやけに温かく見えた。
【赤星の灯】
王都・東街――“赤星亭”
古びた石造りの宿。
軒先の看板には、小さな赤い星の模様が彫られている。
人気の少ないこの一帯は、昼でも静かだが、夜はさらに深い闇に包まれていた。
その中で、ひときわあたたかく揺れる灯火。
宿の入口から漏れる橙色の明かりが、迷いを含んだ訪問者をそっと迎える。
グレン=ロウバルトは、数秒だけ戸口の前に立ち止まり、
それから無言で扉を押し開けた。
――かたん、と小さな音。
「ああ。来たんだな、隊長」
カウンター奥の小さな席に、ラフな旅装のままの男がいた。
ルーガは酒を一杯傾けながら、振り返らずにそう言った。
「偶然でも、偵察でもない。今夜は、たぶん――“選択”の夜だろ?」
グレンは黙って一歩、また一歩と足を踏み入れる。
やがて空いている隣の席に腰を下ろした。
「……あの木片は、そういう意味か?」
「さあな。捨てるのも、来るのも自由だったはずだろ? けど――来たってことは、何か気になったんだろ?」
ルーガの口調は軽い。
だがその目は、昨日よりもずっと鋭く、深く、相手の心の奥を覗き込んでいた。
「……お前は何者だ。ギルド所属の冒険者にしては、知りすぎてる」
「質問には答えない。まだ、信頼もされてないしな」
「……そうか。だが一つだけ訊かせろ」
グレンはまっすぐに、隣の男の横顔を見据える。
「――お前は、“あれ”と関係があるのか。あの玉座の者と」
数秒の沈黙。
ルーガはグラスを傾け、残った酒をひと口飲み干す。
「……あるとも、ないとも言わない。けど――俺は“正気で話が通じる相手”を探してる」
「それは、俺を引き込もうとしてるって意味か?」
「それを決めるのは、隊長だよ」
静かなやり取りの中に、確かな熱が混ざっていた。
「十日ある。兵を整え、武器を研ぎ澄まし、上の連中は戦の号令を高めるだろう」
「……だが、その十日の間に、どれだけの“真実”を掴めるか――それ次第で、生き残る者も、変わるかもしれない」
グレンは視線を落とした。
手の中に残る熱――木片の感触が、じわりと重く思える。
「……十日間で、何ができる?」
「まずは、話すこと。隠してる情報を全部晒すわけじゃないが……お前には、教えていい気がする」
ルーガはそう言って、少し笑った。
それは、警戒と信頼の狭間に立つ者だけが浮かべる笑みだった。
「なあ、隊長。もしこの戦争が“始まる前に終わる”としたら――それでも、お前は戦場に立つか?」
「……今の俺には、答えられない。だが――お前の言葉を聞いたあとなら、変わるかもしれない」
「それで十分だよ。……今夜はそれで、十分」
二人の間に、言葉のない静寂が落ちた。
だがその静けさは、重苦しい沈黙ではなかった。
嵐の前に、誰かと呼吸を合わせるような――そんな穏やかで、奇妙に落ち着いた空気だった。
グレンの内面に、ゆっくりと染み込むように残った選択肢。
敵でも味方でもない。そんな曖昧な存在と、再び交わる夜が描かれました。
戦いはすでに始まりつつあります。だがその前に、交わされた小さな会話や視線が、未来の選別を左右する鍵になるかもしれません。
……赤星亭っていい名前だと思いませんか?(笑)




