【命令の刻印/交差する朝】
【命令の刻印】
詰所の廊下を、軍靴の音が低く響く。
静寂の朝に似合わぬほど、グレン=ロウバルトの足取りは重かった。
昨夜の酒が残っているわけではない。
心の奥に沈殿する、不確かな“違和感”が、身体の動きを鈍らせていた。
「おはようございます、隊長!」
若い副官が敬礼と共に迎える。だがその顔には、どこか張りつめた空気があった。
「……何かあったのか?」
「先ほど、軍務院から急ぎの通達が届きました。……こちらです」
差し出されたのは、魔封紙で封印された命令書。
王国印章が押されたその重みに、嫌な予感が背を走る。
グレンは黙って封を切り、文面に目を走らせた。
――《十日後、満月の夜。漆黒の城への総力攻撃を実施する》
――《第七調査隊は前線の情報補佐および部隊支援に従事すること》
――《拒否権は認められない》
「……決めやがったか」
低く、押し殺した声。
副官が恐る恐る言葉を重ねる。
「正式な作戦名は“月光の矛”とのことです。前線指揮は第三軍の将官、コルバイン閣下が――」
「……俺たちの声なんて、最初から聞く気はなかったってことだな」
グレンは手にした命令書を静かに畳み、机に置いた。
「“情報補佐”? それで、命は預けろってか。どの口が言ってんだ……」
副官が困惑した表情を浮かべる。
だがグレンはそれ以上、何も言わなかった。黙々と、上着の前を閉じ、懐から小さなペンダントを取り出す。
中には、かつて戦場で散った部下たちの名が刻まれていた。
「……何人、戻ってこれると思う?」
「……え?」
「十日後、あの“城”に挑んで、どれだけの兵が生きて帰れると思う?」
副官は言葉を失う。
グレンはゆっくりと歩を進め、窓の外を見やった。
空は快晴。戦など想像もつかないほど、平穏な青。
「……俺たちの判断が、すでに“試されている”としたら――」
あの夜、あの男――ルーガが言った言葉が蘇る。
『もし、あんたが自由に動けたら……どうする?』
(答えを出す時は、もう来ているのかもしれない)
グレンは目を閉じた。
そして、目を開けた時――
その眼差しには、決意と、戦場を知る者の冷徹な光が宿っていた。
【交差する朝】
「……外の空気でも、吸ってくるか」
命令書を机に置いたまま、グレン=ロウバルトは詰所の扉を押し開けた。
兵の姿もまばらな早朝の王都。
露に濡れた石畳の路地に、かすかな冷気が残っている。
深く息を吸い込む。
酒の残滓も、苛立ちも、ほんの少しだけ和らいだ。
ふとした角を曲がった先――
石壁にもたれかかるようにして立っていた、見覚えのある男が、片手を挙げて挨拶してきた。
「……よぉ、隊長」
ラフな冒険者風の旅装。首元のギルドバッジ。
昨日、酒場で同じ酒を酌み交わした――ルーガ、だった。
「……偶然か?」
「さあ。散歩は日課でね。たまたま通りかかった、ってことでいいんじゃないか?」
グレンは眉をひそめたが、否定はしなかった。
その佇まいには、昨日と変わらぬ“隙のなさ”がある。
「……話があるのか?」
「ないよ。ただ、あんたの顔が“昨日と違って見えた”から、少し気になっただけさ」
「……違う顔、ね。確かに、もう“選べない”ことが決まったからな」
ルーガの目が細くなる。
「――決まったのか。“攻める”ってことが」
「ああ。十日後、“満月の日”に動くとさ。“月光の矛”って名前の作戦だ。皮肉だろ?」
「月光の矛、ね……なんとも幻想的なネーミングだ。突き刺さる側にしてみりゃ、悪夢そのものだが」
グレンは小さく笑う。だがその目に、笑みはなかった。
「……止められなかった。せめて、知ってる限りの地獄は伝えたつもりだったが……無駄だったよ」
ルーガは視線を空へ向ける。まだ淡い色をした朝の空。
「なら、次にできることは?」
「……何が“正しい”のか、見極めることだ。兵を殺すだけの戦争じゃなく……この先の選択を、少しでもマシにするために」
ルーガは黙って頷いた。
そして、ぽつりとひとこと。
「――それでも、あんたの目は、昨日より“よくなってる”」
「……どういう意味だ」
「意味なんて、どうとでも取れるさ。……俺は“そう見えた”ってだけの話だ」
そう言ってルーガは、ポケットから何かを取り出し、グレンの足元に小さな木片を落とした。
宿の名前が刻まれた、手作りのキータグのようだった。
「“赤星亭”って宿にいる。古いけど、飯はうまい。……まあ、たまには静かな夜も悪くないぞ?」
グレンが問い返す前に、ルーガは軽く手を振り、背を向けた。
「また、どこかで。……隊長」
その背中は、人混みにまぎれるように消えていった。
グレンは、足元の木片を拾い、しばしその名を見つめる。
(……宿の名だけ、置いていったか)
“また会いたい”とも、“頼れ”とも言わない。だが――
(それでも、会いに来いと、言われた気がする)
風が吹き抜ける。
それはどこか、“選択肢”という名の風だった。
戦う側として命令を受けたグレン。
彼に新たな選択肢をちらつかせたルーガとの再会は、ただの偶然ではない。
彼の選択がどのように変えていくのか




