屍山血河
さっき調べたところ、ここ金足大学には様々な学部・学科があり、中でも特に広大なのが工学部らしい。このわたしは高校までしか通ったことが無いので、大学の校舎内を歩き回るのはこれが初めての体験であるが、いやはや大学とは、見て回るだけなら本当に面白い場所である。
面白そう!はは!面白そう!あはは!
高校卒業したら就職しよっと!
四号館にある工学部と七号館にある建築学科をちょっと見て回ってから、現在は五号館の医学部の館内を練り歩いているところだ。
しかしこの金足大学、外から見ても石垣やら何やらと変な学校であるが、それ以上に中は異様な造りである。構造が複雑で、立体の迷路の中を彷徨っているかのような気分だ。実際に何度か迷いかけたし……
この大学を設計したのは尋常外に酔狂な御仁だったのだろうなと思いを馳せつつ、ひょっとすると行方不明者はただ迷っているだけなのではないかと、そんな世迷い言を独り、呟いてみた。
「……うん」
しかし、呟いたところでふと、なんだか緊張してきた。わたしとて他人事でなくなれば危機感の重さも変わる。世迷い言も利けなくなる。
実は今朝に起床した時から、わたしのかわい…いけ好かない後輩・紫野梨乃ちゃんを見かけていない。ここの大学は結構広いので、ただ違う場所に移動しただけなのかも知れないが……
彼女とはそこそこ、まあそれなりに親睦があり、わたしとしては何だかんだと言っても親近感を持っている相手だ。
遠回しな言い方は一旦やめて、率直に言おうか。
現時点ではこの場所に家族がいない者であるところの紫野梨乃。彼女の異変に気付くことができるのは、このわたしくらいなのではなかろうか。
我ながら思い上がりも甚だしい気もするが、しかし…仮にだ、仮に梨乃ちゃんも失踪しているのだとしたら、それに気付ける人間は極めて限られている。ともすると、それはわたししかいなくなってしまうという程度には。
「他人の心配をするって、こんな感じなんだなぁ」
わたしは手を後ろで組んで足を投げ出すような歩き方をしながら、何ということも無しとばかりにケロっとして呟いてみせるが、とはいえそんな益体の無い見栄を張っている場合でもないだろう。
仲間は多い程良い。なるべく失いたくない。
心配事の九割は実現しないと知ってはいても、無事である確率が圧倒的に高いと解ってはいても、胸騒ぎは依然としてわたしの胸中に居着いている。
やれやれ、気分転換のために散策を始めたというのに、あんまり気分転換になっていないではないか。いや、最終的に気分が元に戻っただけで、ちょっとは気分転換になったかな?まあいいや。
さて、道に迷ったぞ。
「複雑すぎるんじゃあ!」
この建物の設計者に対する怒りを露わにしながら、わたしは分岐点に立っていた。
こんなの、通学している生徒さんだって迷うでしょ。
これだけ複雑な建物であるが故に見取り図もろくに理解できなかったのだが、だからと言ってそれを全くあてにしようともせずに散策を始めてしまったのは良くなかった。せめてスマホで見取り図の写真を撮っておくべきだった。
わたしは適当に歩いて、少し先にある部屋の名前を確認したところ、『北準備室』と書かれてあるのが遠目に見えたのだが、それがわかったところで何の役にも立たない。こんな大学の見取り図の内容を完璧に記憶できる程の記憶力は持ち合わせていない。何となく確認しただけである。
「面倒臭いわね……」
独り言を呟いても仕方がない。さてどうしようか。
来た道を戻ろうにも、来た道が分からなくなってしまったのだ。何回か無限ループに嵌ってしまいそうになったし…というかもう嵌ったし。
わたしは別に、方向音痴と言われてしまう程の方向感覚でもないと自負しているけれども、いやしかしこの建物の設計者はやっぱり異常だ。これは迷わせるための構造としか思えない。
まあ考えていても何も状況は動かないので、億劫に思いながらもわたしは再び歩き出した……
その時だった。
「……え」
ふと北準備室の中に目を遣ったわたしは、見てしまった。
死体の山。屍山血河を。
「……三沢、さん?」
三沢さんが死んでいた。
腹を食い破られたように腹部が破壊され、そこから腑が漏れ出ている。
見知った顔。この避難所に来た時に最初に話しかけてきた相手。その相手の死体と、目が合ったような気がして、わたしは思わず後退りするが……
しかしそれだけではない。三沢さんだけではない。何人、何十人という人たちが、肉塊たちが、積み上がっていた。
「アァ…?」
人の声がした。
人のような、声がした。
北準備室からではなく、横から。廊下の、わたしから見て左に10m程離れた位置から、声が聴こえた。
しかし、それは人の声のようでも、人間味が無い。聴き覚えがあるようでも、聴いたことが無い。
そこには、鎌田さんが立っていた。
腹部から伸びた第二の首と、その先にある大きな口を晒しながら、ソレはわたしを見ていた。
鎌田さん…のように見えるソレは上半身裸で、腹部から生えた第二の口で、クチャクチャと何かを咀嚼していたのだが、わたしを見るなり動きを止め、咀嚼も止める。
そこで第二の口からこぼれ落ちた肉片を認めて、わたしは初めて気づいた。
それは、人間の指だった。
わたしは息を呑む。
瞬間、蘇る記憶。
鎌田さんから…鎌田さんのように見える、鎌田と名乗った何かから聞いた、三沢さんの言葉。
人の姿をして、人の言葉を喋る、化け物…!
「なんだきみか…ばれてしまってはアアアアアアアアアアアアアア!!」
「っ!」
鎌田さん…否、その化け物は、動揺から身体が一瞬固まってしまったわたしに向かって、奇声を上げながら容赦なく距離を詰めてきた。
噴き出した冷や汗がこめかみを伝う感触と共に、わたしは胸から高鳴る拍動を聴く。
生命の危機。原始的で根源的な、生物としての防衛本能が、わたしの身体を埋め尽くした。
「ちょっ!ちょっと!」
「ガアアアアアアアア!」
意思の疎通は望めない。
意志の疏通は臨めない?
一瞬の間を置いて我に返ったわたしは、後退りをしてから素早く振り返って逃げ出した。もちろん全力だ。昨日に続いて、運動嫌いなわたしがまたしても全力疾走をする羽目になったのである。
不幸中の幸いと言って良いのか、昨日の全力疾走による筋肉痛はまだ来ていなかった。アレだろうか、普段から運動をしない人間ほど、運動してから筋肉痛になるまでのタイムラグが長いというやつだろうか?だったらこの後、地獄なんだろうな…なんていう呑気なことを、逃げている最中に考えていた訳では、勿論ないのだが。
(何なんだ…何なんだ…!)
「ア゛アアアア!!!」
わたしは死に物狂いで、汗を振り撒いて、無我夢中に、一目散に、這うように走り回った。
否、もはやこれは『走った』などと言える程の高等技術ではない。フォームもクソもない、本能が為すままの駆動。
何度も転びそうになる身体を必死で立て直して、藻を掻くように踠くように、ひたすらに逃げ惑う。
階段に差しかかる。二段飛ばし、三段飛ばしで駆け降りるが、ああもう、それでもじれったい!飛び降りたい!一気に全段を降り切りたい!化け物の咆哮は、わたしのすぐ後ろまで迫って来ているというのに!
(うっ、やばっ!)
不意に足がつまずく。
筋肉疲労だ。腸腰筋も大腰筋も、大腿四頭筋も、前脛骨筋も、思うように動かなくなってくる。足が揚がりにくくなっている。動かそうとした気持ちの6割や7割程度しか、実際には動いてくれない。
転んじゃ駄目なんだ。そうだ、転んじゃダメだ。
転べば死ぬと考えろ。これは危険から逃走する時の基本だ。
例えば通り魔から逃げようとして、しかし転んでしまったから刺されて死んだ事例というのは確かに存在する。そういうニュース、いや、あれは確かマスメディア上で閲覧した、海外の警察官のボディカメラ映像だったか?そういう映像を見たことがある。
いくら足が速くとも、例え日頃から走り込みをしている警察官であろうとも、転んでしまえば刺されて殉職する。刃物を持った男からは、それでは距離を取り切れないからだ。逃げるどころか、戦略的撤退だってできやしない。
そして、腹から口を生やした化け物からも、逃げられないだろう。転んで倒れたところを、その口で頭を喰い千切られるか、もしくは腹を喰い荒らされるのか……つまりは助からない。
だから、転ぶ訳にはいかない。
転んでは駄目だ。転んではダメだ。
転んではだめ……
「あっ…」
ーーーそうだ。そうだった。
そりゃそうだ。転ばないように、慎重に丁寧に走っている場合ではないのだった。
そんなことをすれば、走るのが遅くなるのだから。
「ぐ…ぎぃやあああああ!!!」
後ろに振った右腕が、前に戻ってこない。同時に、右腕に鋭い痛みが走るのを感じる。
追いつかれた。
わたしが曲がり角を曲がろうと減速した所を、自分は曲がり切れなくても良いとばかりに、その化け物は乾坤一擲の猛突進を仕掛けてきたのだ。
慎重に走って、そのせいで追いつかれた。
何たる不覚。何たる本末転倒。
しかし、何をされた?
咬まれた?掴まれた?あるいはそれ以外か?
わからない。わからないが、その感覚からして、腕を食い千切られた訳ではない。それは触覚と痛覚で判るから、わざわざ目視して確認する必要は無い。
必要があるのは。
掴んできたのか喰らい付いてきたのか知らないが、それを振り払うことだけ…!
「うおあああっ!!!」
今度はわたしが、怒号を放った。自分の右腕ごと、化け物を全力で突き飛ばそうと試みる。
怒りのような感覚。神経の興奮。アドレナリン、コルチゾール…神経伝達物質とホルモンの急速な分泌。痛みを感じない。力が漲る。
「しつこいんだよおっ!!!」
もう、右腕は犠牲にしても良い。
よく見ていなかったが、視界の端に映り込んだわたしの右腕は、やはり化け物の腹から伸びた口に咬み付かれていたように思う。
しかし、それは好都合とも言える。恐らくはこの化け物の最大の武器である、腹から伸びた口。それが今、わたしの片腕のために、片腕ごときのためだけに塞がっているのだ。
だからわたしは、化け物に自分から突っ込んだ。
正確には化け物の、人間のように見える部分の顔、上の顔とも言えるか、つまりは常人になら誰でも備わっているほうの顔を目がけて、頭から突っ込んだ。それと同時に、胴体でも当たっていく。
首を強く力ませて、その化け物越しに、後ろにある壁に風穴を空けるくらいの勢いで、当たった。
全体重を乗せた捨て身の頭突きを、体当たりを、相手の武器が使えないのを良いことに遠慮なくぶちかました。
「アッ…アア…?」
激しく壁に叩きつけられた化け物は、怯んだというより、何が起こったのかわからず困惑したという風な反応で、わたしの右腕から口を離した。すかさずわたしは攻勢から一転、再び逃げ始める。
おお、走れる。ちゃんと走れる。速く、なお且つ丁寧に、転ばないように走れる。筋肉の疲労感もそこまで感じない。恐らくはアドレナリンの作用なのか、とにかく、ドーピングをした人間の感覚を少し想像することができた。
わたしは冴えた頭で、全速力で逃げ回った。
それと関係があってか否か、すぐに化け物を振り切り、撒くことに成功した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ふ…ふっ…ふぅ…」
背後から何も追って来ていないことを確認してから、わたしは徐々に減速し、立ち止まって膝に手をつく。
普段からあまり走らずに生きているので、今更ながら、走るのを突然やめるのもそれはそれで疲れるんだなと実感する。無理に減速しようとしてブレーキをかけることにも、エネルギーを要するものなんだなあ。
やばい、立てない。
疲れ過ぎて、脚に力が入らなくなった。
「はぁ…はぁ…何なんだ…何なのよ…」
口調を元に戻してみても、未だ混乱は抜け切らない。
化け物が人の言葉を喋るとは何事かと言いたいところだけど、冷静に考えてみれば『化け物』っていうのも何なんだよ。そこがまずおかしい。
7mの虎、9mのグソクムシ、正体不明の凍死チアノーゼケンタウロス、挙げ句には腹から口を生やした人間のような人外。
もう沢山だ。これ以上はもう、処理しきれない。
混乱を紛らわすように、ふと自分の右腕を見た。咬み付かれた右腕にはまだ痛みが残っているような気もするが、駄目だ、分からない。神経が興奮しすぎていて、痛みが麻痺しているのだろう。
袖を捲って見てみると、出血はしていないようだった。跡は付いているけれども……
ん?待てよ?
妙だ。
あれだけ強く咬み付かれたのなら、血くらいは出ても良いのに…いや良くはないが、そのほうが自然なのに。
変に思ったわたしは、右腕をくまなく確認し、念のため左腕もしっかりと確認したのだが……しかし、出血している部分は見当たらなかった。
「まってまってまって、え?何?どゆこと?」
また一つ、理解できないことが増えてしまう。
わたしは皮膚が強い体質だったとか?いや、そんな体質あるのだろうか?
しかし、確かに咬み付かれた。噛み付かれた。それは触覚でも痛覚でも視覚でも認識した訳で、確かな事実である。
結構痛かったんだから、出血していてもおかしくない。その筈なのだ。
その筈……なのだが……
まさか……幻覚?
幻覚だったのか?
……いやいや、いやいやいや、そんな訳あるかい。
しかし、頭ごなしに否定したくとも、論理的に否定するのが少し難しい。
確かに、跡なら付いている。でもこれは、人間の歯形だ。
さっきまでのあれが幻覚で、わたしはただ幻覚と戦い、幻覚から逃げていただけだったと考えるのも、不可能ではない。精神的に追い詰められていたから、とうとう頭がおかしくなって幻覚を見てしまい、自分で自分の腕を噛んでしまったのだと考えれば……
うーん……
難儀なことに、確認しに戻ろうという自殺行為に走る訳にもいかないので、この問題を明確に解決するための糸口が見当たらないのだ(もう十分に走ったし)。
これは夢なのだろうか、明晰夢なのか、夢だったら良いなあ…なんて思っていても、やはり仕方がない。しょうがない。生姜はうちの野菜室にある。
化け物から命からがら逃げ切ったとはいえ、そのせいで余計に迷い込んでしまったような気もするし、ちょっとだけ来た道を戻って来れたような気もするが……、とにかく校舎内は危険だ。なるべく早く、なるだけ早く脱出しなければならない。
わたしは、「校舎内の見取り図とか、無いかなー」なんて呟いて、呼吸が整ったところで再び廊下を歩き出した。
幻覚の可能性は抜きにして、この校舎の中にあんな化け物がいた以上は、この校舎・医学部の五号館はもう駄目だ。この大学も、もう駄目だ。
早く脱出しなければ。
しかし、他の人達はどうする?ここに避難してきた人は沢山いるんだぞ?それはもう、その人混みの中にいれば気分が悪くなるくらいに、大勢の人間がいるんだ。どうする?
皆で、他の避難所に移動する?
この人数で?こんな危険な状況の中を?
「…先々のことばっかり考えても仕方ない。まずはとりあえず、ここから脱出だ」
言い聞かせるように、唱えるように言いながら、わたしは廊下を歩いて曲がり角を曲がった。その先に、お誂え向きに校舎内の見取り図が壁に貼ってあった。
よし、これでここから出られるぞ。
という一瞬の安堵と、しかしそれは皮肉にも、ほぼ同時だった。
「ーーーーーーーーー!!!!!!!」
鳴り響いたのは、激烈に轟く強大な咆哮。
それは本能的な、根源的な、産まれた時から身に染み付いているような恐怖心を掻き立てるものであった。
勘弁してくれ。もう何度目だ。
もう嫌だ。何で次から次へと。
正確な方向は分からないが、それは恐らく、わたしが寝ていたテントのある、グラウンドの方向から聴こえたように思った。