別れの挨拶
気持ち悪い。
「くっ…ううぅ…」
祖父が死んだ時ぶりに嗚咽でもしようかと思ったのだが、悲しいとか泣きたいとか、そんな感情よりも群を抜いて強く感ぜられる不快感。
気持ち悪さ。吐き気。
「ううう…ぐぅ…」
気持ち悪い。気持ち悪い。
生きたままのうねり蠢くミミズを呑み込んで腹の中に入り込ませてしまったかのような、血の気の引く怖気。もしくはドジョウか、もしくはヘビか。ムカデかも知れない。ヤスデかも知れない。あるいは、その全てを呑み込んでしまった時のような……
苦しい。冷や汗が止まらない。
わたしの心が終わりそうだ。
狂いそうだ。わたしの頭が狂ってしまう。
「…んぐっ!?」
突如、鋭い苦痛がわたしの脳髄に響いた。鼻から不意に劇物の刺激臭が脳天を突き刺した苦痛。
それと同時に、みぞおちの奥深くがぎゅうっと急に締め上げられるような感覚と、燃えるような喉の痛み、口の中の痺れるような酸味。
嘔吐だ。口の筋肉だけでかろうじて耐えているが……
気持ち悪い。
「うぅ…うぅぅう…ぅ…んぐっ…むぐ……」
飲み込め。呑み込め。
吐くな。栄養素を無駄にするな。
遺体を穢すな。わたしなんかの吐瀉物で。
わたしは膝と両手を床につけたままで、声の無い、動きも無い、静かな悶絶を続ける。
「ぐぐ…むぐ…む…」
上半身は?
上半身は、どこだ。どこへやった。
お母さんの胴体と腕と頭はどこへやった。
食われたのか?そんなに綺麗に?跡形も無く?
そんな暇があったのか?いや、暇ならあっただろう。わたしが怯えて、すぐにここに来なかったのだから。
しかし何故、下半身だけは残すんだ?何故残した?
まさか、一口で上半身全部を食べたとでも言うのか?そんな大きな怪物が、このビルの中にまで這入り込んできたというのか?
わからない。
気持ち悪い。
ふと横を見ると、有坂さんの遺体が目に映る。
腹を横から食い千切られたように、横っ腹に空洞があって空白がある。右脚は中途半端に千切れかけていて、完全に胴体から切断されてはいないが、大腿骨が見えている。
よく見たら右手の指もいくらか足りていない。
そしてどういう訳か、背中を丸めて、腹筋に力が入ったような状態で固まっている。死んでいる割には、不自然な姿勢だ。死後硬直か?いや、死後硬直はそんなに早く起こる現象ではなかった筈だ。しかし、死後硬直にも色々な種類があると聞いた事があるし、何らかの種類の死後硬直の影響で彼はああなっているのだろうと考えるのが妥当なところだろうか。
目を見開いて苦痛に歪んだ顔は、嫌に不気味だ。
気持ち悪い。
………
…………。
わたしは、嘔吐も嗚咽も必死に堪えた。
口を手で押さえるのも効果的とは言えないと判断し、ただ両手を床についた体勢のまま、口そのものに全力で力を入れた。
このわたしとて、自己保身のことになれば優秀なのだ。この場合は自己防衛だが。
この状況で音を立てたり声を上げたりすれば、二人を殺した化け物に自分の存在と大まかな居場所を知らせるようなもの。故に、まだ近くにいるかも知れない化け物に留意して、すぐ近くにいる二人の死者を見ないように考えないようにして、わたしは静かに嘔吐と戦ったのだ。
…とはいえ無防備であったことに違いはない。
どれくらい経っただろう、漸く決心がつくまでの間中、ずっとその状態で無事に過ごすことができたというのもまた、幸運な話であった。
そう、決心。
決別の、告別の意志。
今は泣いている場合ではないのだ。
泣くよりもやるべきことがあるのだ。
それは自分が生き延びることと、そしてもう一つ。
懇ろに、丁重に。
わたしの大切な、脚と腰だけになってしまった母親、篠守彩陽に、子として娘として、人として、わたしは別れを告げる。
「お母さん、今まで育ててくれてありがとう。突然の…ぅぅ…お別れだけど、こんなわたしを育ててくれてありがとう。こんなわたしに、優しくしてくれて…うぅ…ん…ありがとう…」
さようなら。
そう言って立ち上がったわたしは、まず先程ロビーに戻って来るついでに売店から調達した諸々の品々を携えて、早足でビルを出た。
口の中の激しい酸味に耐えながら、早足の忍び足で。
ビルの外に出る理由については、こう説明できる。
確かに、またトイレに戻るなりして隠れながら生き延びるという手もあるだろう。
しかし、二人を殺した化け物がどんな奴なのかが判明しない限り、それは愚策であるように思えた。
少なくともロビーには這入ってきたのだし、トイレにも這入ってくるかも知れない。
また、物音を鳴らさずに隠密して移動するタイプなのかも知れない。少なくともあの二人は、見晴らしの良いロビーにいたのに逃げ遅れた。
もしそうだとしたら、わたしが気付かないうちにトイレに這入ってきて、逃げ道の無い獲物、まさしく袋の鼠となったわたしを容赦なく捕って喰らう可能性がある。
だから、トイレに限ったことではないが、このビルの中に隠れるということ自体が危険なのではないかと考えたのだ。
そして、どうせ隠れないのならば、より安全な場所に移動するべきだと考えたのだ。
………
いや、うん、やめよう。
読者の方々に対してくらい、正直に話そう。
そう、正直なところ、大切な人の惨殺死体がある場所から一刻も早く立ち去りたいという気持ちも幾分かあったのだ。
幾分か、というか…
それが理由の大半を占めていたけれども。