惨劇(2)
「はあ…はぁ…」
「はっ…はぁ…ふぅ…」
わたし達三人は暫しの間、膝に手をつき、胸の鼓動を聴きながら呼吸を繰り返した。ようやっと落ち着ける訳だ。
「よし、この中にいれば、絶対に安全だ。」
おいやめろ有坂。
「状況を整理しましょうよ。まず、外にいた化け物どもは一体何なんでしょうね?」
「知らないよ、こっちが聞きたいくらいだ」
ま、それはそうか。質問が悪かった。
「そうだ、有坂さんが最初に見た化け物っていうのは、さっき見た二体とは違うんですか?」
「そうだね。僕が最初に見たのは、これまた馬鹿デカい化け物だったんだけどね……いやー、何なのかよく判らなかった」
「え?」
「あのー、ほら、さっき見た二体は、虎とダイオウグソクムシか何かの見た目だったでしょ?でも、僕が最初に見たのは何というか…正体不明の生き物だった。脚が4本、腕が2本生えていて、目が3つあって、青紫色をした皮膚を持つ化け物だったんだ。」
……何なんだ、それは。とうとう本当に化け物じゃないか。大丈夫か?幻覚じゃないのか?精神科には行っていないのか?
「はあ…君は何というか、辛辣だな。僕は精神障害とか無いし。それにあの怪物には他の人達も反応していたから、あれは確かに実在していたよ」
信じ難い。いやあ俄かには信じ難い。
とそこで、それまで黙してスマートフォンを操作していたわたしの母が、スマートフォンをしまって話し始めた。
「あの、今情報を集めていたんですけれど、件の怪物は全国各地で同時多発的に出現しているらしいです」
「え!?」
「はぁ!?」
わたしと有坂さんは、ここで初めて息が合った。
ここで言う『件の怪物』というのは、言うまでもなく予言獣の妖怪を意味する訳ではなく、外で見た、あれら巨大生物たちのことである。
しかし、これまた驚愕の事実だ。先程目撃した2体と有坂さんが見た1体で、合計3体もいるのか…なんて思っていたが、状況はそれどころではなかった。
「いやいやいや、え、やばいじゃん」
早口で動揺を露わにするわたしだったが、これはやばいどころの話ではない。ともすると、この国家が壊滅してもおかしくないと言って過言ではない程の、これは火急かつ緊急にして異常な事態なのではないだろうか。
「嘆いていても仕方ないので、ちょっと話題を変えましょう。ここなら安全ですから」
動揺するわたし達を見兼ねたお母さんが、冷静にそう提案してきた(まさか、わたしと有坂さんの二人を『わたし達』と表現することになるとは思いもしなかった)。
「いや…まあでも、うん、そう…ですよね。わかりました。よし、それじゃあここは一つ、僕の話でも聞いてくれるかな」
未だわたしの動揺は治らないが、話を変えようというのは尤もである。やばいやばいと狼狽えていても埒が明かない。
そんなことを話すよりも、これからどうするか、どうやって生き延びるか、そういった事を話し合った方が建設的である。
「僕には家族がいるんだけど、今は別居しているんだよ。でもこの事態が治まったら、家族と会って伝えたいことがある。だから僕は、絶対に死ぬ訳にはいかない。無事に帰ったら、この気持ちを家族に伝えるんだ」
いやめろおおおおおおお!!!
貴様あ…有坂ァ…!
この期に及んでフラグを…はぁ…はぁ…
どうなっても知らんわという気持ちと、わたし達の身にまで危険が及んだらどうしてくれるんだという気持ちが混ざり合って、もうこの場にいられなくなったわたしは、
「すいませんちょっとトイレ行って来ます」
とぶっきらぼうに言い放って、トイレの場所も分からないままにその場を離れた。
…うーむ。思い返してみれば、ここでわたしを誰も呼び留めなかったことが、運命を…否、命運の明暗を分けたのかも知れない。
複雑な気分だが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「はあ…何なのあの人…」
そんな訳でわたしは独り、愚痴を言いながらトイレを探すことになった。冷静に考えれば、この時のわたしの単独行動もそれはそれで、フラグとまではいかずとも、まあまあ死にそうな立ち回りである。
建物の中を練り歩いていると、それぞれの階がどういう場所なのかが記載された看板を発見した。
一階の欄には池田歯科と書かれている。先程の広場は病院だかクリニックだかのロビーだったのか。
そして、売店もあるようだ。こんな非常時だし、ちょっと寄って食糧でも買って行こうか。
「でもって、トイレの位置は…えーと、向こうの角を曲がって更に曲がって…よし、大体分かった」
そうして、わたしはトイレに到着した。
とはいえ、用を足しに来た訳ではない。わたしのような根暗にとっては、鍵をかけることができる個室というだけで来る価値があるというものである。
「ふう…やれやれ」
用を足す訳ではないので、ズボンも穿いたままだし便器の蓋も閉じたままだけれど、わたしは便座に腰を降ろした。
蓋が柔らかいタイプの便器ならばこれはやらないほうが良いけれど、こうしていると落ち着くのだ。静かで薄暗いこの空気感が、わたしの性格にぴったりと合う。これなら冷静に思考を巡らせて状況を整理できるし、フラグ建設士もいない。あ、でもちょっと臭いかも。
「虎、オオグソクムシ、これはまだわかるけど…」
思考を巡らせながら、独り言を呟いてみる。有坂さんが最初に見たという、謎の化け物が気掛かりなのだ。
サイズはともかく、虎とオオグソクムシは普通に実在する生き物である(ダイオウグソクムシというのもいるらしいが、この際細かい事は抜きにしよう)。
サイズの問題はあるけれども、解せなくもない…いややっぱり解せない。でもそれはさておき。
有坂さんが見たという化け物は、腕が2本、脚が4本あったという。ケンタウロスかな?それも架空の存在だけれど…『脚が6本』と言わない辺りから、昆虫ではないのだろうと推察できる。
何より、皮膚の色が青紫色だったと言うではないか。中々いないぞ?そんな生き物。
凍死したケンタウロスだろうか?
いや、青紫と言っても、紫のほうが強いタイプの青紫なのかも知れない。もしそうだとすれば凍死とは違うのかも。
うーん……
チアノーゼになったケンタウロスだろうか?
しかしアレだ、どこかで聞いた話だと、地球上に青い色の生き物はいないんだとか…あれ、でも青い魚はいるな。じゃあ陸上の生物に限った話だったか?いや、でも青い虫はいるな。あ、植物に限った話だったか?あれ、ブルーベリー…
…うん、うろ覚えの情報から物を考えるべきではないな。これはひとまず置いておくことにしよう。
少し、考える事を替えてみる。
わたしが外で見た化け物達は、いずれも人を喰っていた。あのオオグソクムシもそうだ。よく見ていなかったが、人の肉体をかじっていた。
確かにあれだけの巨体だ、エネルギーを充分に供給するためにはそれなりの捕食量が必要であろう。
人間は、市街地においては最もそこら中にありふれている大きなサイズの餌だから、市街地であれば人間を食べるのは当然なのか。
それにしても、あんな怪物が全国各地で突然現れたというのは、一体どういうことなのだろう?お母さんが調べた内容によれば同時多発的に現れたとのことだし、前から存在していたのだとすれば、それまで少しも発見されない訳が無い。だが、同時に発生したとすると、それこそ訳がわからない。
もしや、どこかの組織の陰謀か何かだろうか?秘密裏に作り出した巨大生物を、全国で一斉に放つという陰謀…
うーん、突拍子もないというか、我ながら何と荒唐無稽な考察をするものかと呆れてしまう。
やはり、まだ判明していないことをああではないかこうではないかと考える行為にはあまり意味が無いのだろうか。ええと、オッカムのひげ剃り…だったかな?ひげ…あの、ひげ剃るやつ…あれ…何だっけ。うーん…度忘れして(あるいは普通に忘れて)しまうとは、不甲斐ない。
それはそうと、気持ちを落ち着かせるための思考とはいえ、先程わたし自身が考えたことに反するような非建設的な思考をしてしまった。いかんいかん。
今考えるべきは、これからどうやって生きていくかである。
一応持参していたスマートフォンを操作して、わたしは更に情報を集めることにした。
案の定、全国各地で発生した謎の怪物について詳しい情報は無いが、怪物が出現しているということ、死者や行方不明が多いことなど、相当な緊急事態になっているということが分かればそれで良いのだ。そのうち緊急事態宣言でも出されるだろ。
ならば、もはや法律を守っている余裕は無い。
今日は休みの日だからなのか、このビルの中には何故か人が全然いないのを良いことに、売店に並んである食品を拝借しに行こうではないか。へっへっへ。
わたしは用意周到だ。こんなこともあろうかと、今日はリュックサックを背負って来ている。
さあ、売店に向かおう。
と、個室から出ようとした、その時だった。
「ぎゃあああああああああ!!!」
男性の悲鳴が、ビル全体に響き渡らんとする程の大きさで、わたしの鼓膜を震わせた。
有坂さんの声だ。
その瞬間、わたしは一気に血の気が引くのを感じる。
この時、わたしは拍動が激しくなる苦しさを堪えるのに必死であったため、鏡など見なかったが……、わたしの顔は、青ざめていたことだろう。
チアノーゼでも起こしたかのように。
状況はわからないが、もし仮にだ、最悪の場合、ビルの中にまで化け物が侵入して来たのだとして…
なぜ、お母さんの悲鳴が聴こえない?
寡黙な時が多いとは言っても、あの人は必要な時に必要な声を上げる人だ。いや、悲鳴を上げること自体が必要ないということなのだろうか?
さっきの悲鳴、明らかに驚いただけの声ではない。悶えていた。喘いでいた。苦しんでいた。考えたくもないが、それは確かだ。
お母さんは、有坂さんがやられている隙に逃げたのだろうか?だと良いのだが…いや、良いなんて言っては駄目なのだが……
嫌な予感がする。
わたしはすぐにでもトイレから飛び出して駆け付けたいという気持ちを抱く一方で、中々足が動かなかった。
それは、もし化け物にやられてしまったのならば今行ったところで無駄だという理由もあったが……いや何、わたしはもっと低次元な感情に支配されていただけのことである。
恐怖という、最も単純で原始的で、だからこそ、最も抗うことが困難な感情に。
そんな訳で、駆け付けたいという焦燥感、家族に対する心配と憂いと不安感、自分の身が可愛いという恐怖心、色々と拗れた情緒の中で、わたしはいみじくもまあ情けなく、30分間ほどトイレの中に閉じ籠った。
「…」
……ただ、息を潜めて。
「……」
………ただ、時間を過ごして。
「………」
……………。
結論から言う。
漸く湧き出た勇気によってわたしがロビーに戻った時、わたしのお母さんと有坂さんは床に散乱していた。
お母さんの腰から上は、無かった。