デス・オア・アライバル
異変は、油断した時に起こった。
「今確認しましたが、外には鴉が見当たりません。今のうちに行きましょう。ただし、油断は禁物です。」
油断は禁物です。わたしのこの表現は、しかし、言葉足らずだったのかも知れない。
大勢で、ぞろぞろと、四号館から出て来る人間達。
最初こそ忍び足を意識していた者も、ゴールが目前となったこの時ばかりは気が緩んで、つい足音を立ててしまうこともあっただろう。
ましてや大勢なら、少なくとも誰か2、3人は気を抜いて足音を立ててしまったことだろう。
それが、まずかった。
「よし、もうすぐ校門に…あ」
わたしが皆を元気付けようと、言いながら振り返ったその時、わたしの視界に映ってしまったのだ。
獲物を背後から狙う、巨大な捕食者の姿が。
「走って!」
「え?うわ!」
「うっ!?ぐああああああああ!!!!」
「いやあああああ!!!」
待ち伏せていたかのように現れた大鴉が、わたし達の後ろから忍び足で近寄ってきていたらしく、一人の男性に喰らい付いた。
「走って!」
わたしは再度、そう促す。それに応じて他の人達も走り出したが、そこで大鴉はあろうことか、喰らい付いた一人目の男性をいきなり地面に叩きつけ、他の人達を追いかけ始めたのだ。
「ぎゃああ!!!」
「うぐっ!?」
人間をできるだけ多く殺すだけ殺して、十分に殺した後でゆっくり食べようと言わんばかりの、今食べることを全く考えていないような、それはシンプルな殺戮であった。
「なんでだ…!」
わたしは逃げながら呟く。待ち伏せは想定していなかった訳じゃない。でも、待ち伏せなのであれば何故、わたしが入って行った時には、大鴉がいなかったのか?あのタイミングで何故、飛び出してこなかった?
考えられる可能性としては……恐らく。
いなかったのではない。
気付かなかったのだ。
つまり、大鴉は四号館の空いている出入り口から見えない位置に、身を低くして息を殺して、潜伏していたのだろう。
絵面を想像してみると絶妙に滑稽だが、狡猾にもこいつは、最初にわたしが見た時の凶暴な振る舞いとは打って変わって、身を縮こまらせて隠れていたのだ。
考えてもみれば、四号館のここから反対側にある壁ばかりを他の大鴉が性懲りもなく攻撃し続けていたのは、あからさまなブラフ、ミスディレクションだった。
あちら側方面からの攻撃に怯えた人間達が、こちら側の出入り口から逃げ出してくる足音を聴いて、つまりはそれらの人間を視覚ではなく聴覚で捉え、来たところを物陰から襲いかかるという作戦だったのだろう。そりゃ、待ち伏せするのならばそれしか方法は無い。こんな巨体のことだ、どれだけ慎重に物陰から顔だけ出して覗き見たのだとしても、バレバレである。
逆に大鴉のほうも、最初にわたしが四号館に入った時は、わたしの忍び足が故に、足音に気付けなかったのだろう。
存在に気付かなかったのだ、お互いに。
しかし、それ程までの事柄を理解し考慮した上で、この作戦を採ったというのか。
わたしと浅田さんが四号館に入ろうとした時は忍び足だったから気付かれなかっただけだと思いたいが、もしもこの大鴉が、二人分の足音を聞いた時点では『まだ襲いかかる時ではない』と冷静に判断したから、あの時はわたしに襲いかかってこなかったということだったとすれば、こいつらの知能を甚だしく見誤っていたことになる。そこも含めて、わたしの判断ミスでもあったのだろうか。わたしは認めないけど。
それはそうと……ともすれば、奴らは自衛隊の存在にも最初から気付いていたりしないだろうか?
「うお、来やがった」
校門の辺りに着陸しているヘリが見える位置まで走ってきた所で、遠目に見た口の動きから判断するに、恐らく自衛官の一人がそんなことを言ったのだと思う。わたしの読唇術などあてにするものでもないのだが、ここではっきりさせておきたいのは、決してそれがわたしに対する言葉ではないという点だ。『あの大鴉が来やがった』のであって、断じて『わたしが来やがった』という訳ではない筈だ。そうであってくれ。
「あ!おい!助けてくれ!行くな!何で行くんだよ!」
既に回転していたプロペラが更にその回転を強め、自衛隊の静音ヘリが突然離陸したのを見て、走っていた一人の男性が焦って呼びかけるが……
あれは別に、見捨てようという訳ではないのだろう。
「ー!ギィッッ!!!」
銃弾を受けて、痛みに喘ぐ大鴉。
ヘリが離陸した理由は、ある程度高い位置からでなければ機関銃の流れ弾が避難民に当たってしまうから、位置を少し高くするためというだけのことだった。
でもってわたし達避難民は、大鴉が銃撃を受けている隙に少しでも距離を離そうと、走り続ける。
ここまでわたし達の判断ミスで何人死んだか知らないが、こうなってしまえば、もうあのカラスとてチェック…チェック、えー、何だっけ。チェックアウトだっけ。いや、それは違う気がするけれども、とにかくもう、わたし達の勝ちだろう……
と、思ったのだが。
「危なっ!?」
わたしの聴力などあてにできたものでもないのだが、静音ヘリの下をくぐるように走り抜けようとした瞬間、真上から自衛官の声が聞こえた。
何が危ないのかと考えるより、それは早かった。
「うおおお!?」
瓦礫が飛んできたのだ。
校舎の壁だか屋根だか、パッと見ただけでは判別し難いが、とにかくコンクリートの大きな瓦礫が、わたし達の後方から前方へ、頭上を通過して地面に衝突した。
何事かと振り返ってみると、そこには2体の大鴉がいた。
一体目は言うまでもなく、たった今わたし達を追いかけて来ていた奴だろう。機関銃の射撃を受けて瀕死の状態だから、こいつは気にしなくて良い(やっぱり凄い威力だな、あの機関銃。それとも大鴉の身体が脆すぎるだけなのだろうか?少なくとも、あの巨躯であれだけ動ける以上、比重が軽いのは間違いないけれど)。
問題は二体目だ。こいつはどこから現れた?
と、そこで再び、瓦礫が飛んでくる。
わたしはそこで初めて、事の全容を捉えた。
二体目の大鴉が、クチバシで掴んだ瓦礫を投げつけてきていたのだ。首を思い切り下に向けた状態から、勢いよく振り上げるアンダースローで。
しかもそれは、わたし達避難民ではなく、自衛隊のヘリを狙った投擲攻撃であった。
「まずい!」
少しの銃撃を受けながらも、二体目の大鴉は続けて瓦礫を投擲し、それが運悪く、ヘリコプターのテイルローター部分に当たってしまった。それでバランスを崩したヘリは、何とか体勢を立て直そうとしながらも、結果遠く場所まですっ飛んで行ってしまった。恐らく、無事に不時着することは可能なのだろうが、今心配するべきはヘリではない。
ヘリコプターがどこかへ行ってしまえば、当然、機関銃による射撃もそこで途絶える。
二体目の大鴉は、多少は被弾したようだが、それでもちょっと弱ったくらいで、まだ動けるようだ。
なら、逃げなければ。
弱った大鴉からであれば、簡単に逃げられる。
逃げよう。
しかし、逃げてどうなる?
わたしだけじゃない。各々が別々の方向に逃げ回って、わたしも逃げて、それでどうなる?
大鴉がいる大学構内程ではなくとも、外だって危険であることに変わりはない。単独で逃げた先で別の怪物に襲われたら、その人を助けることはわたしにも誰にも不可能だ。
加えて、四号館ではまだ、避難の順番待ちをしている後半グループの皆がいる。他の人はともかく、少なくともこのわたしだけは、逃げるべきではない。それともわたしが迎えに行かなくても、勝手に避難してくれるか…?わたしに言われた通り、勝手に避難してくれるだろうか……いや、それも保証はない。
理想は、自衛隊のヘリが不時着した場所に皆で固まって逃げ込むことだろうか?しかし不時着した場所もよく見ていなかったし、この鬼気迫る状況で他の人にそんなことを呼びかけてもどれだけ聞く耳を持ってもらえるかは甚だ疑問だし、何より自衛官も人間だ。不時着の衝撃で誰かが負傷しているかも知れないのに、そこに手負いとはいえこんな化け物を連れて行ってしまうのは、本当に正しい選択なのだろうか?
「またこうなるのかよ…っ」
荒々しい口調で、わたしは呟く。
もう、これが正しい行動なのかはよくわからないけれど。
「くそぉ!どうにでもなれぇ!」
毒を食らわば皿まで。
わたしは、さあ襲いかかって来いとばかりに、大声を上げながら大鴉の前に躍り出た。大学構内におびき寄せるように、来た道を戻るように、一人横に折れて走った。
当然、大鴉はわたしを見て、方向転換をして追いかけてくる。
そうして、時間稼ぎの、命懸けの鬼ごっこが始まった。
「ーーーーーー!!!」
「はぁ…はぁ…」
自衛隊の皆さんは、どれだけ早く戻ってきてくれるだろうか。ヘリはもう飛べないだろうか?であれば徒歩でここまで来ることになるだろうが、どれくらい時間がかかる?
5分か?10分か?
楽勝だ。
「ーーーーー!!!!」
圧倒的な咆哮を上げながら追ってきてはいるが、所詮は手負いのカラス風情、さっき追いかけてきた個体と比べれば、まだ足は遅い。
加えてわたしは、決して壊れない肉体を手に入れた!
どんなに心臓が張り裂けそうになっても、どんなに喉が痛くなっても、どんなに汗をかいても、どんなに血圧が上がっても、どう体に鞭を打っても死にはしない!筈!
なんなら、大鴉はわたしを追いかけながら、そのうち失血死で力尽きることだってあり得る!
「はあ、はあ!」
わたしは構内を、中央の四号館にだけは近寄らないように逃げ回る。そして校門から向かって右のほうへ進むと、入り組んでいる形状の建物がある区画を発見した。
何号館だか知らないが、やはり、これらの建物を設計した奴はとんだ狂人のようだ。しかし今はそれが有り難い。利用しない手は無い!
いける。自衛隊が戻ってくるまでの時間くらい、稼げる。
四号館に寄せ付けてはならない都合上、ずっとこの区画で建物の周りをぐるぐる回って逃げ続けることになるが、わたしはそういうゲームの実況動画を見たことがある。『殺人鬼』と呼ばれる鬼側のプレイヤーが1人、『生存者』と呼ばれる逃げる側のプレイヤーが4人の、非対称鬼ごっこゲーム…だったか。
今のわたしの気分は、まさしくそのゲームのプレイヤーさながらだ。こういう同じところをぐるぐる回って逃げ続けることができる区画のことを、俗に『ループポイント』って呼ぶんだっけな。
はあ、はあ。
「にしてもしつこいな!」
想定外と言うつもりはさらさら無いが、しかしというかやはりというべきか、全然見逃してくれない。
この大鴉、わたしを追うのを諦める気配が全く無い!さながら先に挙げたゲームの中の、躍起になってヤケになって一人の生存者だけを執拗に狙い回す鬼のようだ!
「はあ、は…」
どうしよう、疲れてきた。
壊れない肉体とはいえ、普通に疲労はするのだ。
やばい。今、過去最高に疲弊している。
筋肉も呼吸器も循環器も、こんなに疲労し疲弊したのは人生で初めての体験だ。
絶対に死なない…のかは実のところよく判らないが、とにかくそんな感じの肉体であるのを良いことに、わたしは文字通り死ぬ気で、それ以上ない程の本気で走っているから、『筋肉はそれ以上力が出ないようになっている』みたいな、俗に言う『筋力のリミッター』が外れているのかも知れないが……
しかし、それでも限界はある。
どんなに体力のある人間だろうと、エネルギー保存則に従い、動けば動く程に体内のエネルギー量は減っていくものだ。どれほど優れた身体能力を誇ろうと、酸素や栄養分が足りていなければ肉体は動かない。
しかもわたしの場合は、そう優れている訳でもない身体能力だ。
「はっ……はっ……!」
まずい。そろそろ限界だ。
面目ない!楽勝だとか嘯いておいて、こんな…!くうっ!
流石に、身体の中の全てのエネルギーを使い切りそうだとまでは言わないが、感覚的にはそんな表現でも飽き足らぬ程の絶大な疲労感が、わたしの全身を支配している。
見誤った。
冷静に考えてみればそれはそうだ…いや本当に冷静に考えてしまったらそもそもこんな自己犠牲の時間稼ぎみたいなことは今すぐやめるのだが…こうして逃げ回るのにも限界はあるのだ。
「は……は……」
参ったな。ここにきて、大鴉のほうが足が速くなってきた。無論、大鴉が加速している訳ではない。むしろ大鴉のほうだって、疲労と出血のせいで多少は減速しているのだが、それ以上にわたしのほうが減速しているのだ。
日頃の運動不足が祟った。
ここまでにおいて転ばなかったのがせめてもの功であるが、それも下手をすれば、無意味に終わってしまうだろう。
まだか。まだなのか。
楽勝などと嘯いておいて立つ瀬も無いが、しかしどうした、自衛隊はまだ戻って来ないのか!?
早く、戻って来てくれ。
早く、誰かーーー
「……えっ」
突然、後方からの足音が止んだ。
どすんどすんという重い足音が、止んで……
「…ふう。こういう感じですか」
「はあ…えぇ?はあ…なんっ、はあ…」
振り返ると、大鴉はバラバラに解体されていた。
八つ裂きとはこういう状態を意味するのだろうと確信する程に、完膚なきまでに切り刻まれ、分解されていた。
そして、その向こうに。
紫野梨乃が、立っていた。




