1-17-1【生贄】
「生贄」とは、神への捧げ物であり、昔はどの地域でも行われたのだから、人間の深層心理に基づく行為なのだろう。
つまり、「死」は理不尽な力が働いて起きる現象だと思っていた時代のことである。
太陽が、朝出現して夜無くなる事も奇跡だったから、日食には生贄が捧げられたのである。
結局は「自己保存本能」が引き起こした行為だったのだが、一概に残虐とは言えない。
中には選ばれて神への捧げ物として満足して死んでいった生贄もいたからである。
そのような場合の生贄は「金銀」で装飾されて生贄とされたので区別がつく。
敵の捕虜を並べて首を斬るという残虐な行為などは、「自分の信じる神の方が強い」とのアピールの意味もあり、その神への捧げ物にしたのである。
だから、生贄の儀式は多神教に多い。
日本でも「人柱」などは、荒ぶる水神さまへの捧げ物であり、「尊い命を捧げるので、お怒りをお鎮め下さい」との意味があったのだ。
科学が進歩すると、いろいろな現象が説明できるようになる。
すると、必然的に、その現象を司っていた神が消えるのである。
つまり、解明不能な事が「神」だったのだ。
次々と様々な現象が解明されて「神」は殺された。
しかし、地球が火星ほどの大きさの惑星と衝突したおかげで月ができ、また、小惑星が約6550万年前に衝突し70%の生物が絶滅したおかげで現在の人類の繁栄があることは偶然としか説明できない。
この偶然は、砂漠の中から針一本を見つけ出す確率よりも小さい。
これは「神」の存在があったからではないのだろうか。
しかし、ここまで地球の過去を解明できたからこそ、その偶然を「神」と考えるのである。
考えることのできない生物に「神」は存在しない。
未知に対処する「方便」が「神」なのである。