1-10-4【弔い】その2
職員のご母堂が亡くなられたので、昨日は一日掛けて遠方の告別式に行って来た。
やはり、当たり前だが遺族の方々は悲しそうだ。
しかし、95歳にもなれば「天寿を全うした」のだと思う。
実際に老後の面倒を見ていたお嫁さんは、淡々としたもので『80歳半ばから認知症だったから』と正直ホッとしているようだった。
半世紀前の平均余命は70歳そこそこだったから、お嫁さんも50歳ぐらいで「介護」から開放されたが、今は100歳位まで生きる事も可能である。
老後が元気で、自分で何でもできれば良いが、「介護」が必要になると世話をする人間にとっては生地獄である。
世話をしない親戚は気楽に「病気でもいいから生きていて欲しい」と言うが、なら自分で「介護」すべきだと思う。
傍から「やいのやいの」と言うべきではない!
良く雪国に行って『雪国はいいですね』とか宣う輩がいるが、たまに来るからであり、そこに住んでいる人間にとって雪は魔物でしか無いのだ。
雪が資源として利用できればいいのだが、今は除雪に無駄な費用が掛かるだけのただの邪魔者である。
本当に税金を「水に流している」だけなのだ。
今は若者が都会に出て行ってしまい、年寄りだけが残されて「雪掻き」をしている。
敏捷性やバランス感覚が衰えているから、転落や雪に埋まって死ぬ老人が絶えない。
本当の苦労は「当事者」でしか解らない。
「寝たきり老人」の延命処置や薬漬けの老後が、本当に必要なのだろうか。
全ては「自然死」を拒否していることの歪なのである。
他人ならば「仕方ない」と思えるのに、肉親なら「何をしても生かし続けたい」と思うのは,人間最大の煩悩なのである。
肉親も他人も同じ生命である。
肉親が他人よりも尊い命ならば、廻りまわって、結局全ての命は平等と言うことになる。
天寿とは「自然死」を受け入れることなのだ。
自然死を拒否し生を貪ってしまっては、野辺の送りを済ませても、極楽どころか人間界にも転生することは出来ないだろう。