3-2-1【宗教】
まともな宗教は「欲望」を抑えることによる「やすらぎ」を教義にし、そのため、どの宗教も欲望を抑えるための「戒律」を設けている。
「倫理」とは『できることをしない』ということなのだから「戒律」は、その宗教の持つ倫理観なのである。
ここで、まともな宗教なのか「邪教」なのかを判定することができる。
「邪教」は欲望を煽り、教祖に貢ぐことを強要するからだ。
まず『次のステージに行くには私に尽くせ』と洗脳を始める。
常に、カルトの教祖や独裁者は「権威付け」を行うのだ。
「一人で日本軍を全滅させた」とか「母の胎内に太陽が入って生まれたのが私だ」とかである。
しかし、真の宗教に権威付けは要らないし、神は万人に平等なのだから、特別な施設も必要ないはずである。
また、特別な聖職者も必要としない。
神は直接願いを聴きいれるからだ。
どうして「宗教の場」や「聖職者」が必要かと言えば、宗教を維持するための組織が必要だし、宗教を利用しようとする輩を排除しなければならないからなのだ。
しかし、その権威を利用したい人間にとって、「特定の場」や「聖職者」がいなければ権威付けに不都合である。
どの宗教も、初めは「その場で祈り、その場で感謝する」はずだっだが、宗教を利用したい人間により特定の場や特定の人間に権威が集中したのである。
そもそも、人間の飽くなき欲望を抑えなければ、人類は殺しあって滅亡することを解り易く説いた物語が「宗教」なのだから、極論すれば「どの宗教」も同じである。
ただ、その地域、生活方法に合わせたバリエーションがたくさんあるのに過ぎないのである。
「悟り」とは、「自己保存の本能」から生まれる様々な排他行為を抑えることにある。
別に特定の宗教に入る必要も無ければ、献金することも無い。
ただ、他者を思いやり自己保存の本能による「利己的な行為」をやめればいいだけなのである。