1-15-4【カタストロフィ】
「カタストロフィ」とは『回避不能な破局』のことである。
時間を遡れば、どこかに回避できる最後の瞬間があるはずであり、それを「カタストロフィ・ポイント(破局点)」と言う。
だから、「カタストロフィ・ポイント」を超えれば、もう破局に向かって一直線なのである。
卑近な例で言えば、将棋では「敗着」が、それに当たる。
その一手以後は、どうやっても自王が詰んでしまうからである。
小噺に、「将棋の大名人が、先手に初手を指されて長考に沈み、一晩考え抜いて『ありません』と投了した。」と言うのがある。
大名人だから、読みに読んで行き着いた先が「先手必勝」だったという噺だが、人間だから最善手の連続と言うことは有り得ないから、笑いに繋がるのである。
実際、何と言うゲームか知らないが○と×で、3行3列の桝を交互に埋めて、縦横斜めに並べるゲームがある。
これは、既に最善手の応酬なら「引き分け」という結論が出ている。
そのうち、コンピュータで計算して、将棋も最善手の応酬なら「千日手」とか「持将棋」であると言う結論が出るのかも知れないが、全てが解明された世界は、実に詰まらない世の中だろうと思う。
何かやろうとすると、コンピュータが『それは先手必勝で、ここに手順を示します』とかやられたら、何の面白味もない。
人間は「未知」を解明することにエクスタシーを覚える動物なのだ。
だから、ちょっとでも解明の糸口を掴むと、徹底的に中身を引きずり出さずにはいられないのである。
それが「禍」なのかどうかなどは二の次三の次で、とにかく「知識欲」を満たしたいだけなのだ。
いわゆる「パンドラの箱」である。
もう既に「質量欠損」による「核エネルギー」を手に入れてしまったし、もうすぐ、無生物と生物を分けている「生命の解明」に辿りつこうとしている。
実は、これが人類破局への「カタストロフィ・ポイント」なのだが、大多数の人間はそのことに気付いていないのである。
文明は人類の暴走を支えるために、更なる進歩を余儀なくされている。
自己保存の本能に従って、ひたすら突き進むために、人口が指数関数的に爆発しているためだ。
地球はその包容力に限りがあるために崩壊寸前となっている。
人間の行いは、穴を埋めるために、隣にさらに大きな穴を掘り、その土で埋めているのに過ぎないのだ。
そして、一つの穴を埋めると、今度は隣の穴を埋めるためにさらに大きな穴を隣に掘るしかないのである。
この悪循環を断たねば、人類は破局に向かって加速し続けるしかないのだ。
これ以上の自然の摂理を崩壊することを止め、「自然死」を受け入れて子孫の生きる余地を造らねばならないのである。
そのためには、「臓器移植」や「遺伝子操作」などの生命科学を封印し、安らかな余命を送ることなのである。
「生を貪る」ことは、人間最大の「煩悩」であるが、死が怖いのは、単に死んだ後がどうなるのか誰も解らないからに過ぎないのである。
だから、死が怖いのは、真っ暗闇が怖いのと同じことなのだ。
死後の世界が解らなくても、地球のキャパシティが限られている以上、自然死を拒否することが子孫の生きる余地を奪っていることは明白な事実なのだ。
自然死を受け入れる以外に、「カタストロフィ」を回避する手段はないのである。