1-15-3【調和】
“鬼女の微笑み”に、「世間こそが正義であり真理なのだ」と書いた。
これは、小さい頃から、その地域の「常識」を叩き込まれるのだから、やむを得ない事ではある。
だから“秘密のケンミンSHOW”のような番組が成立するのである。
斯く言う私も、都会の大学に通っている時に、方言だと知らずにしゃべってしまい、周りの誰にも通じなかったという経験がある。
例えば、北海道では「納豆に砂糖」を掛けて喰うのがデフォルトだと知ってびっくりしたが、北海道の住民は、普通は醤油とネギで喰うと知って、「甘納豆と同じっしょ!?」と却って驚かれてしまった。
それから東北から北では『○○でした』と電話を受けるが、こっちがびっくりして『なんで?』と聴くと、相手も『え~っ!?』と意外そうな反応をする。
生活している狭い社会が、その人の「真理」なのだから仕方がないことなのだ。
どれが正しいという事ではないし、違うからと非難することでもない。
真理は、その時その地域の世間の「常識」なのだ。
だからと言って、世間に対する疑問を捨ててはいけない。
自分がどうしても間違っていると思うことは、世間にアピールして争点にすべきなのである。
当然、爪弾きにされて「村八分」状態に追い込まれるかも知れない。
しかし、「調和」を重視する余り、世間に押し流されては、嘗ての『大政翼賛会』になってしまうのだ。
世間が「開戦止む無し」との時に、一人で「反戦」を表明するのは『非国民』扱いされてしまうのは眼に見えているし逮捕されてしまうだろうが、自分の良心が咎めるのであれば、何も恐れずに進むべきなのだ。
歴史の偉人を見れば、皆、常識はずれである。
常識とは世間の意思なのだから、大きな慣性力があり簡単には方向を変えることはできない。
世間と一体で動いていては、間違った方向を変える力とはならないのだ。
ただし、正しいと思っても、それが本当に正しいかどうかは誰も解らない。
ただ、「調和」は社会生活に不可欠であることは間違いないが、無批判に「調和」してしまうことは社会自体の暴走を許してしまうのである。