1-14-2【紙背】
「紙背」とは、文章の裏に書かれている事であり、『眼光紙背に徹す』という慣用句で使うことが多い。
しかし、このような事は「経験」がなければ、文章の裏に書かれたものなど読み取れるものではない。
だから、小学生の時読んだ本が、大人になって読むと全く違った感想を持つのである。
例えば、出産を終えたばかりの妻に『痛いの?』と声をかけて一週間話をしてくれなかったことがあるが、男にとって「産みの苦しみ」という言葉を永遠に理解することはできない。
自分に腎臓に石ができてしまい、それが尿管に落ちてきた時は「七転八倒」の苦しみだったが、妻は鼻で笑って「そんなの出産の痛みに比べれば大したことないわよ」と敵を取られてしまった。
その時は、救急病院でモルヒネを射ってもらい、嘘のように痛みが引いたことを思い出す。
雲の中をフワフワ漂っているような気持ちがして、『ああ、麻薬中毒になるのが判るような気がする』と思ったものだ。
これも実際にモルヒネを射ってもらって、初めて判ることなので、いかに文章で伝えようとしても絶対に伝わるものではない。
とにかく「出産」の時の私の言葉を、『一生このことは忘れない』と妻から睨まれて恨みを言われたが、その後も子供を二人産んでくれたのだから、尿管結石の一件で帳消しになったのだと思う。
そう考えれば、人の痛みが判る人間には決して「政治家」は務まらない。
みんなの痛みが判ってしまうと、身動きが取れなくなるからだ。
だから、理屈でしか理解していない人間が政治家になりたがる。
言い換えれば、政治家は「痛みが判らない」人間しか出来ないのだ。
政治とは「線引き」である。
財源が無尽蔵でない限り、国民全部を救うことは出来ない。
どこかで線引きしなければ国は破産する。
(もうしているが…)
子供全員に数万円を配って、その額が一国の防衛費を超えることなどあり得ない事なのだ。
しかも、日本に住んでいる外国人には故国にいる子供の分まで無制限に支払うが、外国に住んでいる日本人では子供が日本住んでいてもビタ一文支払われない。
我々の血税が外国に流れて行ってしまうのだ。
これでは日本で苦しい生活をしている人たちを救うことなどできない。
考えてみれば、月一千五百万円も母親から貰える人間が総理をしているのだから、お金で苦しんだ事などない。
我々の一年分いや二年分の収入を一月で何もせずに貰えるのだから、やっていることが全て現実離れしてしまうのも「已んぬる哉」である。
しかし、子ども手当にしても、子供のときに貰った倍近くを、自分が給料を貰うようになってから返すのを気づいている国民は少ない。
『お金が貰えるからいいや』という感覚なのである。
しかし、打ち出の小槌など無いのだから、誰かがその費用を負担するのである。
生産年齢にいる間、今までは「年金」分を支えれば良かったのが、今度は「子ども手当」分も支えなければならないのである。
世の中、お金を貰えるだけの政策などあり得ないのだ。
『高福祉、高負担』か『低福祉、低負担』を選ぶのは国民自身なのである。
『高福祉、低負担』など有る訳無いのに、そう願っている国民が多いのには呆然とするばかりである。