1-11-5【自殺】
キリスト教、イスラム教、儒教、仏教など、経典にはどこにも自殺を禁じていない。
これは、自殺を推奨しているのでなく、自殺したものでも救済の道を閉ざしていないだけなのである。
ローマ時代にキリスト教の殉教者が多発し、これを食い止めるために自殺したものの埋葬を禁じたのだ。
キリスト教は「復活」を信じているために「土葬」して遺体を残す必要があり、埋葬されないと「復活」を否定されるために実に恐ろしいことだったのである。
ヒンドゥー教でも自殺について特に何も言っていないが、民間信仰として夫が死ねば「殉教」を妻に強いるようになったしきたりがある。
これを「サティ」と言ってインド政府は、「カースト」とともにこれを禁じたが、最近でも妻が「サティ」を政府の方針に沿って拒否したら、夫の親族が寄ってたかって焼き殺してしまったと言う事態になったことがある。
「サティ」とは、夫の野辺の送りの時に自ら夫を焼いた火の中に飛び込んで行くのである。
ヒンドゥー教は「輪廻転生」を教義にしているから、カーストの最下層に生まれたにしても「サティ」にしても「前世の行いが悪かった」「より良い来世のために」としてこれらの行為を甘受していたのである。
これもヒンドゥ教の常識なのだから、傍からやいのやいのと批判するつもりはないが「カースト」による下層民の教育水準の低さが原因であり、教育水準が上がれば自然消滅すると思われるし、そう期待したいものである。
どの宗教も、為政者の都合のいいように捻じ曲げられてきた。
そのために「宗教改革」が自然発生的に起き、現代に至っている。
邪教でないどの宗教も、欲望を抑制することで人類の暴走を止めようとしている。
人間は戒律を定めなければ「堕落」して行くものなのだ。
この世は、あの世に行くための修行に場であり、卒業できる資格ができれば、自然に死が訪れる。
だから、苦しいからと言って修行を止めることは、また、振り出しに戻るだけであり、それを乗り越なければ、さらなる高みに到達することができないのである。
ある意味、苦しくなければ修行ではないのだ。
いくらこの世が「生き地獄」でも、それに耐えて自然死を全うすることが課せられた試練なのだが、逆に「生を貪ること」は、自殺以上の大罪なのである。
だから、人の臓器を金で買ってまで生き延びようとしたり、遺伝子を操作してまで生きようとしないことだ。
これは明らかに自然死ではないから、来世は餓鬼道に堕ちることになるのだ。
「できること」を「しないこと」が『戒律』であり『倫理』なのである。