1-11-3【色即是空】
今まで、「極楽」「地獄」と言って来たが、本当にあるのかどうかは誰にも判らない。
生き返った人が『光に満ちた場所に行った』とか『キリストや仏陀に会った』とか『死んでいる自分が見えた』とか様々な臨死体験している。
その中には「地獄を案内して貰い、実際に亡者が苦しんでいるのを見た」というのもあるが、生前の知識が死に際に発現したものと思われ、UFOに連れ込まれた体験と同じようなものだろう。
「地獄極楽」が実際あるかどうかは別として「方便」として具体的な地獄絵図を描いたりしたことは事実である。
「方便」とは悟りに解り易く導く方法であり、幾何で言うところの「補助線」のようなものである。
理屈で百篇「嘘を吐くことは大罪である」と言うよりは、「嘘を吐くと閻魔様に舌を抜かれる」と一遍言った方が恐怖を伴って叩き込まれることは明々白々だ。
つまり、釈迦の説法を理解するにはある程度の修行が必要だからこそ、無知な一般の人たちに理解させるための「方便」なのだ。
人類が暴走しないために「宗教」があり、その戒律を守らせるために「方便」があるのである。
人間以外の動物は生存本能だけに従って生きているから、手抜きをすればすぐ死んでしまう。
ところが、人類は「知恵」があるから、手抜きをしようとして工夫し、様々な方法を編み出して来た。
しかし、度が過ぎれば間違いなく堕落してしまうのである。
犯罪は、全て楽をしようとして起こることなのである。
「楽に金儲けがしたいから、在る所から強盗したり、騙して奪う」など、地道な方法を取らないから犯罪が起きるのだ。
だからパソコンの前に座って、キーの操作で何億も儲けるような人間は、犯罪者と同じで「解脱」できていない証拠である。
身を律して必要最小限の生活を心掛けることこそが、人類を末永く反映させる手段なのである。
般若心経に『色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識 亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故』と書かれている。
一口で言えば『この世は無であり、感覚も意識も幻に過ぎない』と言っている。
例えば「統合失調症」の人には、見えないものが見えたり、聴こえないものが聴こえるらしい。しかし、本人には、それは実際起こっていることとして認識されているのであり、本人にとっては紛うことない「事実」なのである。
正常と思われている人間が、それを感知できないだけなのかも知れず、本当の所は多数決で事実を決めているのかも判らないのだ。
「人を錯乱に追い込む方法」と言うのがあって、数人で『えっ!あなたには見えないの!?』と言えばいいのだ。
その人たちは、何の関係もない方がいい。
例えば大学の友人が数人集まっても、簡単には騙せないが、全く無関係の人間から「あなたには、あれが見えないんですか!?」と言われれば、簡単に錯乱させることができる。
「この世の全ての現象は、信じているから認識できるのであり、意識の中で存在しているのに過ぎない」と、般若心経を突き詰めるとこう言うことなのだ。
眼の見えない人は「外見」に惑わされずに済み、耳が聴こえない人は「巧言」に惑わされずに済むから、障害を持った人たちは、健常者よりも真実に近づいていると言えるのである。