桜煙
ある日突然、何もかもがどうでもよくなってしまった。代わり映えのしない毎日に飽きてしまった。良い子で居るのに疲れてしまった。笑っているのがバカらしくなった。もう十分生きただろう、と心の中で誰かが囁く。
夜も更けた頃、眠れなくなった僕はなにかに引っ張られるようにして外へ出た。月が眩しい。虫の声が煩わしい。だが、いつもは怖かった夜が、今は少し心地よかった。これから死ぬのだ、という意識が色んなものを吹き飛ばしてしまったのだろうか。なんてことを考えながら、僕は死に場所を探した。
電車はもう走っていないし、溺れたり首を絞めたりして長い間苦しむのも気が引ける。そうやって考えた1番いい死に方は飛び降りだった。学校で飛び降りるのならば、自転車ですぐ行ける距離だし、どうせ最初に死体を見つけるのは嫌いな大人なのだから、死体の処理についても心配はないだろう。こうして、学校の屋上から飛び降りて死ぬことにした。
防犯カメラに見つからないように校内に侵入したり、誰もいない真っ暗な学校を闊歩するのは少し楽しかった。
職員室から拝借してきた鍵を使って屋上に続くドアを開けると、冷たい夜風が吹き込んできた。鍵を戻しておくべきか迷ったが、嫌いな奴らへの仕返しだと、ドアノブに刺したままにしておいてやった。風を掻き分けながら、自分の身長ほどの高さの柵に近づく。
風が可愛らしい声で歌っている。街が死んだように眠っている。月が、夜は自分のものだと言わんばかりに輝いている。夜はこんなにも綺麗なものだったのかと、そんな感傷に浸りながら柵を越えようとしたその時、聞き覚えのない声が後ろから聞こえた。
「おい、そこの少年」
驚いて柵から転げ落ちてしまった。向こう側に行っていなくて良かったと安堵していると、空を仰ぐ僕の顔を、その声の主が覗き込んできた。吸い込まれるような黒い瞳にぼさぼさとした髪。気力がないように見えて、けれど何か揺るぎない信念を秘めているような、そんな雰囲気の女性は目を細めて笑った。
「ハハ、驚かせてしまったかな。目の前で死なれると寝覚めが悪いんでね、つい呼び止めてしまったよ」
何が何だかわからなかった。立てよ、と言われるがままに立ち上がったはいいものの、僕の頭はぐちゃぐちゃだった。どうやって、なぜここに人がいるのか。彼女は誰だ?混乱する僕の心で、誰かが囁く。
「あいつは邪魔だ」
なぜ。「あいつがいると死ねない」今、本当に僕は死にたいのか?「そうだ」違う。「違わない」この世界にはまだ知らない美しいものがある。まだ知らない楽しいことがある。
それを見るまでは、それを体験するまでは、死ねない。
それに応える声は、「外」から聞こえた。
「よく言った、少年」
その言葉で現実に引き戻される。すると彼女はハサミのようなものを手に、夜空を切り裂いた。次の瞬間、僕の視界には人のような形をした黒い靄が地面に転がっている様子が映った。僕が疑問を口にするより先に、彼女が切り出した。
「一服させてもらってもいいかね」
――柵にもたれ掛かり、白い煙を吐き出しながら彼女は言う。
「まァ、色々聞きたいことだとかがあるだろう。答えられるものなら何でも答えようじゃないか」
考えるより先に口が動く。
「あれは、何なんですか」
「そうだねえ。言うなれば悪霊みたいなモンさ。人から生まれた負の感情の塊。それが他人に憑いて負の願いを成就させる。成就したからと言ってヤツらが満足するわけではないが、それはさておき、だ。さしずめ、少年に憑いていたのは自殺願望とか絶念だとか、そういう類だろう。と言っても、コイツはまだ小さいものだったし、後押し程度の影響しか持たないハズだ。――少年、今も死にたいかい?」
そう言って、彼女は鋭い目で僕を見た。彼女の言うことはとても信じられるものではない。だが、ふざけているようにも思えない。月を背にして煙草をふかす彼女はどこか神秘的で、こちらを見つめてくる瞳も、まるで夜空が詰まっているかのようだった。
「...死ぬのはしばらく、やめにします。世界には綺麗なものとか面白いものがまだあるって知ったから。夜の学校とか、月とか、あなたとか。」
「フフ、アハハハ...私の事を綺麗だなんて言う奴は珍しいよ。弱いものとはいえ、アレを拒める奴もね。普通は自我なんてすぐ弱まっておじゃんになるもんなのにねえ」
彼女は少し悲しそうな表情を浮かべて、また煙を吐き出して続けた。
「じゃ、今日見た事はご内密に頼むよ。...言ったところで誰も信じないとは思うがね」
そうして立ち去ろうとする彼女を、僕は呼び止めた。
「ああいう悪霊みたいなのって、他にもいるんですよね」
「ああ。いるとも」
彼女は振り向いて答えた。
「僕はあれに、興味を持ちました。あれが何なのかよく知りたい。あれに憑かれている人を助けたい。だから、だから僕は、貴方についていきたい」
「...ふむ。好奇心とは時に人を滅ぼすと言うが――来るなと言っても君は食い下がるのだろうし、私も些か気になることがあるのでね。まァ、私が飽きるまでは好きにするがいいさ。」
と言って、コートのポケットから取り出したくたびれた紙切れを差し出してくる。
「基本ここにいるから好きな時に来るといい。
――そうだ、まだ名前を聞いてなかったな。いつまでも少年呼びでは締まらないからね。私は...そうだな、サクラとでも呼んでくれたまえ」
穏やかに笑う彼女から名刺を受け取り、夜空に云う。
「結縁 士郎です。よろしくお願いします、サクラさん」
勢いで書いたのせいでよく分からんことになってしまいました。
好評であれば続きを書きたいと思っています。