♯1
目が覚めたら女になっていた。
常人であれば、尋常でなく気が動転する出来事だろう。多くの戦場を切り抜けた屈強な男であったユリアスにも、それは金槌で力いっぱい殴られたような衝撃を与えた。驚きのあまり声も出ず、ただ口をぽかんと開けたまま自分の顔を細くなった指で触れてみる。鏡の中の女も、同じく自身の頬を指でぎこちなくなぞると、無骨だった男の顔は今や絹布のような肌触りで、爪が弾力のある頬に沈み込んだ。
普段後ろに撫でつけていた固いブラウンの髪は、窓から差す日光を反射してやわらかく光っている。心なしか、後ろ髪が伸びたように感じるのは気のせいではないだろう。鍛え上げられた四肢はその固さを失い、全体的に細く柔い。女としては細身で長身の部類に入るであろうが、筋肉は大部分が削げ落ち、女性らしい曲線を描いてる。昨日気を失う前に着ていたであろう白いシャツはかなりのオーバーサイズになってしまっており、今にも肩から滑り落ちそうになっていた。
恐る恐る視線を鏡から下に向ける。
(微かだが…ある!それに…ない!)
胸元の膨らみと、何もない下半身を視界に捉え、ユリアスの顔は僅かに青ざめた。
どこか元の姿の面影を残してはいるものの、どこからどう見ても昨日までとは違う女性の肉体だ。
(一体、どういうことだ?)
混乱しきりだったところから少しずつ冷静さを取り戻し、ユリアスは顔を顰めてぐっと前髪を乱暴にかきあげた。自然現象で、こんな荒唐無稽なことが起こるだろうか。いつまでもここで呆然としているわけにはいかないだろう。ーーこれは、どう考えてもまずい事態だ。
(魔力で人体を変形させた……?ありえない話ではない、だが、理由はなんだ?)
誰かの悪ふざけだろうか、そう楽観的に考えることはできなかった。人間の肉体を別の性に転換させるなど、悪ふざけで出来る芸当ではない。この世界でこのような力を持つ魔力持ちがどれほどいるだろう。しかも相手はこのユリアス、勇者として魔王軍を殲滅した男なのである。冗談で済ませることができるものか。明確な目的……十中八九、悪意の元に行われたに違いなかった。
分からないことだらけだが、ユリアスにとってひとつ確信できることがある。
(……何にせよ、この場に留まるわけにはいかない)
誰かが悪意を持って自分の身体に攻撃を仕掛けたのであれば、このまま立ち尽くしているのはあまりにも危険だ。そして、この姿を誰かに見られること、それが何よりも都合が悪い。
この国は、勇者の健在が何よりも国民に安心感を与える。
その勇者が、知らぬ間に何者かによって性転換された。こんなことが知られれば、たちまちパニックが起こる。殊更、人が多く集まっている祝祭の日に騒ぎが起きれば、この街はとんでもないパニックに陥るだろう。
そこまで考えを巡らせた後のユリアスの行動は早かった。
元々着ていたズボンは身体にまったく合わず、着ようとしてもすぐにずり落ちてしまった。仕方なくロング丈の黒シャツを腰に縛り、巻きスカートのような体裁を繕う。外に行けばそこら中に服屋があるだろうから、そこまでは我慢するしかない。
手持ちの金は最低限だけかき集めて、ポシェットに詰め込んだ。持ち出せる量はそう多くないが、旅の報酬として得た財宝はほとんど田舎の両親の元に送ってあることが幸いだ。しばらく会っていない妹にも特大のテディベアを贈ってやった。
「よし、あとは武器だけ持って……」
心許ない姿だが、あとは聖剣を持ってこの宿から逃げ出そう。その後は何とでもなる。旅には慣れている。
そう思いながら、ユリアスはベッド脇に立て掛けておいた聖剣に手をかけた。
「……あ、あれ?う、動かない……」
右手で引き上げようとした大剣はぴくりとも動かない。慌てて両手をグリップにかけ、渾身の力で持ち上げるが、やはり聖剣は床に張り付いたかのように鎮座したままであった。
「は、はぁぁああ!?なんでっ……ぐっ、ぐぬぬぬ!」
呻き声を上げながらユリアスが剣相手に格闘していると、ふと薄い木の扉の向こうからコツコツと足音が迫ってくるのが聞こえた。ユリアスは息を呑み、グリップを握った中腰の体勢のままぴたりと身体を硬直させる。頼む、立ち止まるな。このまま通り過ぎてくれ。
「ユリアス。まだ寝てるのー?」
(ま、まずい……ナディア!)
聞こえてきた可愛らしい声は、幼馴染で旅の仲間でもあるナディアのものだった。いつまで経っても顔を見せないユリアスを心配したのだろう。
もう一刻の余裕もない。ユリアスは聖剣のグリップからゆっくりと指を解いた。
「……ユリアス?いないの?」
部屋の外で、ナディアは訝しげな顔で立ち尽くしていた。今日は一度もユリアスの顔を見ていない。元々生真面目な男であるユリアスが、こんな大切な日に寝坊など珍しい。そう思い部屋まで様子を見に来たが、部屋から微かに物音はしたものの、いつまで経っても自分の問いかけに返事はない。
「……入るよ?いいよね?」
ノブに手をかけてゆっくりと回すと、鍵はかかっておらず木の扉はギシリと音を立てて開いた。そっと部屋をのぞきこむと、床はひどく散らかっており、鏡の前に酒瓶が転がっているのが見える。ナディアが目線を上げると、開け放たれた窓から眩しい陽の光が射し込み、白いカーテンがひらひらと揺れていた。
「ユリアス……?」
誰もいない部屋に、ナディアの声はぽつりと落ちるように虚しく響いた。