プロローグ
ゴトリ、と”男”は鏡の前で酒瓶を取り落とした。
窓一つ隔てた街道からは、絶え間ない喧噪が響いている。人々の声は活気にあふれ、祭の始まりを知らせる大輪の花火が空で弾けている。この国で最も栄える街は、歓喜の渦に呑まれ一層の賑わいを見せていた。
この祝祭の主役である青年は、雑然とした狭い宿の一室で目を覚ました。中途半端に閉められたカーテンの隙間から飛び込んだ日差しが、ひどく散らかった部屋に細く光の筋を描いている。
青年、ユリアスは重たい瞼を持ち上げながら、緩慢な仕草でやっとのこと起き上がった。頭をズキズキと刺す頭痛に唸り声を上げる。外の様子からして、もうすでに時刻は昼を大きく回っているだろう。完全なる寝坊だ。
皺が寄ったベッドから立ち上がりながら、床に転がった酒瓶を拾い上げる。昨晩の記憶が曖昧だ。旅を共にした仲間たちが部屋に押しかけ、やれ明日は祭りだのお前は英雄だの大騒ぎだったことは何となく覚えている。そのまま思い思いに飲み明かし、酔いつぶれた部屋の主を放置してそれぞれの部屋に帰ったのだろう。薄情なことだ。
ともかくこの部屋の惨状をどうにかして、身支度をしなければ。この状況を幼馴染に見られたら、ひどく呆れられるだろう。
何しろ今日は、ユリアスが世界を魔王の手から救った英雄として、全世界に讃えられる祝宴の日なのだから。
それにしても、やたら全身がだるい。空の酒瓶ひとつ手に持っただけで身体がふらつき、古いカーペットの上でたたらを踏む。自分はそこまで飲みすぎてしまったのだろうか、とユリアスは唖然とした。これから衆目にさらされることになるというのに、今の自分はさぞ二日酔いで青い顔をしているだろう――。
そう思い、ふと背丈大の姿見の前で立ち止まったユリアスは、ぴしりと身体を硬直させた。
――鏡に、見知らぬ”女”の姿が映っている。
「え……。」
思わず漏れたかすれ声が間違いなく自分から発せられたものだとわかっているのに、鼓膜を震わせた声は聞いたことのないか細い女の声だった。ユリアスの小さく柔くなった手から、酒瓶が滑り落ちた。
その日から、魔王を討伐した勇者ユリウスは、何の前触れもなく性転換し――”元”男になった。